フィルム写真、発掘。Discovery of printed photos
ジルが2009年ごろまで使っていた、アナログのNikonカメラで撮った写真をごっそりと発掘しました。フィルムならではの手法で撮影しています。というのは、わざと一度使用したフイルムにもう一度、上から重ねてとることで偶然出来上がる二重の風景を楽しんでいるのです。
どなたかがやっていた手法かもしれず、それともジルがたまたま発見した手法なのかはわかりませんが、何だかとても面白くて、出会った頃にいろいろ見せてもらったのを思い出します。 初来日のときはまだこのアナログのカメラだったので、当時の新鮮な眼で日本の風景を撮ったものもたくさんあります。上の写真の下の方にチラッと入っていますが、赤い鳥居とビル郡とか。
こちらは私がお気に入りの1枚。ベルギーの風景ですが、観覧車や線路などの電車から見える街並みと、どこかの森の風景が二重に折り重なっていて、不思議。いま思えば、映画「残されし大地」にも通じるヴィジュアル感覚だなあ・・と。
結構面白いシリーズなので、近いうちにまたInstagramをジルの名前で始めた暁には(と以前から言い続けていますね笑)、ご紹介したいと思っています。ただ、時間の経過とともに反り返ってしまっているので、しっかり抑えて撮り直すために、無反射ガラスが必要です。注文して、入荷待ちの今です。少々お待ちを!
ベルギーからの映画評 A review from Belgium
本国ベルギーでは、すでに昨秋公開された映画「残されし大地」。
その時の映画評を一つご紹介します。Cinergieという現地の映画サイトに掲載されたもので、この中の一部抜き取った文章を、映画の予告編の中にも使わせていただいています。美しい文章をありがとうございます。
ちなみにベルギーの映画館での上映は飛び飛びの日時でしたがいつも満員で、誰もがエンドロールの終了後もしばらくは立ち上がらず、余韻の中に残ってくれていたそうです・・。
『残されし大地』ジル・ローラン
ジル ローラン作『残されし大地』。感動し頭から離れることのない、なんというこの美しさ。この作品が反響を巻き起こしているのは、この映画監督が亡くなったという事情だけではなく、失楽園を要約し象徴化しているからだ。家の庭にある樹齢100年もの木々を、この土地を破壊する目に見えない危険な脅威となる高濃度の放射能を持っているという理由で切り倒すシーン。海と山の間にひっそりと佇み、川や草原溢れる東京の昔からある野菜畑は、福島の原子力の大災害で警戒区域となり住むことができなくなってしまった。この地域は今もなおバリケードで近づくことができないが、田舎の平穏な美しさを帯び、末期の命の見せかけの草木が青々と茂っている。
除染作業は終わりの見えない取るに足りない対立へ至っている。
近隣の村である富岡町は捨ておかれた。バリケードで封じられた家々は荒れている。耐え難い沈黙がみなぎっている。住民たちは周りの農場同様、ペットを見捨てて逃げ出した。牛や馬は農場に繋がれたまま残されていた。野良犬や野良猫はあちこちに逃げた。数人の住民たちだけが離れないことを決め、先祖のいる土地に残った。ジル ローランはこの土地の素晴らしいポートレートを描写した。残った住民の一人である松村さんとの出会いが、アラン ド アルーがそうしたように、この映画監督に福島の犠牲者らのより多くの証言を記録することを決心させた。松村さんを介して、私たちはこの惨事を問う。我々は彼の日常や孤独、人々との出会いを見守る。被災したこの自然の美しさを、光を、そして変わらぬ四季の移り変わりを目の当たりにする。彼は日本や外国において土地を見放すことへの抵抗の代弁者としての役割を演じている。彼は生命に関わる危険を被り、癌に脅かされることから回避していないが、その理由は全く的確な他の質問に答えることで出している。
「生命の危機に直面している時に、私たちの慣れ親しんだ場所や歴史にどのような重みがあるというのか?」また「私たちが運命を左右するほどの決断をする時、どのような無意識の動機の力が導いているのだろう?」と。
この映画は松村さんの父親が救済した十数匹の猫たちを見事に連れて歩く映像から始まる。ジル ローランの話を通じて、2011年の津波の後の現代のノアの方舟のようだと思わずにはいられない。
ジル ローランは2013年の秋に、日本人の妻とともに東京に住み始めた。妻と一緒にこの映画のロケハンに取りかかった。彼の日本文化に対する個人的な理解がこの作品に影響を与え、インタビューした人々の証言にユーモアや礼儀正しさ、他人への尊敬など独特の特徴を与えている。同様に犠牲者であることを受けとめないことや、自尊心の距離を保つことで、非難から逃れている。政府や原子力発電所の開発者に対して至るところに見られる警戒心が、警戒区域の住民たちが戻ることを妨げている。若い世代は身を落ち着けるために両親の住むこの土地を離れるという選択肢しかない。伐採や道路の洗浄などの除染作業は、あらゆる国のボランティアに助けを求めている。
この捨ておかれた土地に残った人々は、その連帯と日常生活に戻ったことに感謝している。この映画は儚い希望の旋律で終わる。一人の女性が自宅に戻り、3人の友人を招待する。彼女が友人たちに差し出す素晴らしい果物がまるで静物画のように映されている。しかしすでに私たちは警戒区域から出ていて、バリケードと侵入禁止区域を再び目にする。ジル ローランは完成した自身の映画を見ることはなかった。原子力の活動家や日本を愛する人たち、そして映画ファンにこの映画を伝えることが大切である。これは傑作だ。
セルジュ ムーラン
iPad Pro 秘話。 A secret story about my iPad Pro
こどもが専用のペンで描いた、ハートの風船。カラフルなスクリーンセーバーとなってくれています。
うちのiPad Proはティム・クックさんからのプレゼントです。
・・というと、ほとんどの方が目を丸くします。たまたま部品を買いに行った先のアップルストア表参道店のスタッフにも「本体はどちらでお買い上げになりましたか?」という何気ない質問に「実はこれは・・」というと、のけぞり、びっくりしていました。
いきさつはこうです。
夫が亡くなった時のリュックに入っていたMac Power Bookは当然破壊されました。けれども、大事な写真などが多く残された内部のハードディスクだけでも復元できないだろうかと、ベルギーの義姉がショップに持って行って相談したところ、最終的にティム・クックさんのところまで通じ、直々にメッセージが届いたのです。
「ハードディスクの修理に全力を尽くすとともに、何か替わりのものを一つ、ご家族にプレゼントしたい」と。
4月のある日、義姉から「レイコ、CEOのティム・クックさんが何でもお好きなものをひとつ差し上げると言っているけど、何がいい?」というメールが。これには当然、私ものけぞりました。
突然だったのもあり慌てましたが、少しだけ調べて、そして”少しだけ”謙虚に、当時話題だったiPad Proを指名しました。立派なiMacやPower Bookを頂いてしまうよりも高すぎず、けれども新しいゆえのワクワク感もあり、何より子供たちにお絵かきをさせたりという「家族で使う」という目的に変換できて良いのかなと。
「あなたの落としたのは金の斧? 銀の斧?」にも似た質問でした(笑)。えっと、金でも銀でもないけれども、ブロンズくらいかな。でも、それより何より、大事なハードディスクを復元してくれたことの方が嬉しかった。それはれで、もちろん大切に取ってあります。
思えば、「その人がその時に使っているコンピュータ」は、その人の頭や心の中がそのまま反映されたものであり、まさに分身でもあります。(夫のようにフリーランスで動いていたような人間で、ガラケー派だったような人間ならなおさらでしょう。)
その人の残した分身、という重要性に基づいて・・・それに対して、心を込めて全力を尽くしてくれたベルギーのアップルストアの方とティム・クックさんに、私は今も感謝しています。ジルに限らず今までも私自身、プライベートではマック派でしたが、これからもどちらかというとずっとMacファンでいようと思います。
実を言うと私の夫は、保証的なことに関しては、「ないない尽くし」の亡くなり方をしています。残念ながら政府からの保証もないし、フリーランスなので労災もなく、これは自己責任だけれども特に生命保険にも入っていませんでした。けれどもこのコンピュータに関しては保証書なくしても、全くの好意でハードディスクは生き返り、そして”再生の証”のようなプレゼントまで付いてきました。なんとなく、見ると温かい気持ちになる一品です。
ティム・クックさん、ありがとうございます。そしてこのエピソードを先方からはどこにも公表していないのがまた粋。私の方からささやかですが、少し公開させてください。
ブラッセル日本人学校同窓会・潜入記 Again at The Embassy of Belgium in Tokyo
潜入したというのは大げさなのですが。
またまた先日、ベルギー大使館でスピーチをさせて頂いてきました。ベルギーにあるブラッセル日本人学校の、ここ日本での同窓会にお邪魔して映画の宣伝をさせていただいたのです。
ちょうど予告編も出来上がり、公式HPもできたタイミングでしたので、お土産袋にもチラシを入れて頂けるとのこと。同学校の第1期生のお一人がたまたま以前から、ジルと知り合うよりもっと前からの友人だったのでお招きいただきました。(今考えると、そんなこともこの日に結びついて不思議です。)
集まっていたのは、もちろんベルギーに愛着たっぷりの方達ばかり。
私がベルギーに住んでいたのは2010年からの3年半で母親になってからでしたし、子供もまだ乳幼児でしたから、日本人学校と直接関係があったわけではありません。けれども、この学校のPTAを母体としたコーラスグループに参加したり、多くのママ友が全日制、またはハーフのお子さんの場合、週末の土曜日だけの”補習校”に行っているケースも多く、今もそうです。だから、格別に親しみを感じています。
ビデオ映像で学校のホールが映し出された時は、「あ〜。見たことある〜〜、懐かしい」と私も一緒になって感慨にふけっていました。
「あの頃はアンカレッジ経由でしか行けなかったのよ」「年に一度の家族の帰省なんて許されていなくてね」「最初は民家の一角から始まった学校だったから、正式に始まる前の生徒は0期生、って言われているのよ」など、面白い懐かし話も聞けました。
それにしてもやっぱり、数年でも住めば、”第二の”、とか”第三の”故郷・・のようになるものなんだなあと。私も子供が生まれてすぐで、ある意味自分の”再生期”のような時期に住んだこともあるせいか、ベルギー、特にブリュッセルへの愛着はひとしおです。
(※ブリュッセル、と最近ではいうことが多いですが、英語読みだとブラッセルになるのです)
ジルがテロに巻き込まれているとは分かっていない時でさえ、ニュース速報で「ブリュッセルで爆発」と聞いただけでも、仕事中でありながら机に突っ伏し、真っ暗な気持ちに襲われたのを思い出します。
ところで私、期せずしてまた泣いてしまいました。他人の学校のはずなのに。
それは宴もたけなわで最後のあたり。服装も年齢もバラバラな元生徒たち、元先生たちがスクリーンに映し出された歌詞を見ながら一斉に校歌を歌い始めた時です。キラキラとした青春を再生させているかのような瞳、そして一体感のある光景。
あれ? どこかで見たことある。そう、私も昨年の10月、同じような場所にいました。出身高校の大同窓会です。あの時の私と同じ気持ちで、今ここにいる皆さんも校歌を歌っている。
映画「残されし大地」に出てくる、おじいちゃんがしみじみと言っていました。
”土っちゃあ、人を生かすためのものなんだな。どこでも住めば都っていうもんな。”
元気をもらうためには、自分が育った、自分を育ててくれた土から栄養をもらおう。人間も植物と同じ。一度は根を張った場所には、一度はバイパスが通っているから、すぐに地中の水分とコネクトできて栄養分も吸いやすいんだ。
同窓会や帰省は、過去を懐かしむためにあるのではなくて、また前を向いて頑張るために元気をもらうためにあるもんだな。そんな風にしみじみと思いました。
お土産袋はベルギーでメジャーなスーパー、カルフール・デレーズのショッピングバッグ。(最近、ベルギーに”帰省”した人が、一生懸命スーツケースに入れて持って帰ってきたのだそう。そんなエピソードも、どこかで聞き覚えあるぞ〜。)そしてタンタンのクリアファイルの中にたくさんのベルギー関連の商品などのフライヤー。さらにここに、1枚チラシも混ぜていただいたというわけです。
ところで、そのブラッセル日本人学校で歌い継がれる校歌。初代の校長先生が作詞されたそうですが、残念ながら昨年お亡くなりになったそうです。
日本の校歌らしく土地の自然を織り交ぜながら、それでいてその景色は美しいベルギーのもの・・という歌詞に、私も胸がじんわりと熱くなりました。この校歌の存在に嬉しくなりました。
ここに転載させていただきます。きっとこれを読むと、皆さんもご自分の母校の校歌を反芻して、故郷の景色を思い浮かべたくなるのでは。
ブラッセル日本人学校 校歌
1
森をこえ 泉をこえて
鐘の音が 響く
石だたみの彼方 高き学舎
若い力の 伸びゆく園
おお ブラッセル日本人学校
2
岡をこえ 野原をこえて
光りの帯が 続く
マロニエの茂み さわやかに
清い心の 花開く里
おお ブラッセル日本人学校
3
海をこえ 空をこえて
結び合う 友情
ベルギーと日本をつなぐ 虹のかけはし
希望と夢をはぐくむ国
おお ブラッセル日本人学校
HPついにできました!
心からファッションを楽しむこと。To enjoy fashion from the bottom of my heart
アラウンド50のための女性誌、エクラ。2017年2月号の巻頭特集は「新年、服の力で新しい私になる」。ビジュアルもコンセプトも大好きな特集です。
私自身の仕事は雑誌の編集です。主に常にデイリーな女性のための服について考え、まとめてきました。若い頃は若い子の雑誌、この年齢になってからはこの年齢の雑誌、とたまたまですが実年齢に沿って異動してきたので、常にワクワクとそれなりに楽しんできた感もあります。
ジルが昨年3月に亡くなってから現場に復帰するまでは、数週間と自分でも意外に短いものでした。(忌引きとしてはそれでも長い。実質的に葬儀が海外だったのと、子供達を実家に預けていたのでその引き取りに時間がかかったりと・・。)ただ、しばらくはデスクワークから復帰して、そのうちに次号の打ち合わせに進んで・・と、静かな仕事から徐々に慣らしていく感じではありました。
いざ復帰しようとした際、最もその時の心理から遠かった仕事は、ファッション撮影の”現場”。再びスタッフとアゲアゲな感じで、「可愛い〜!」「素敵!」と叫びながら、仕事ができるのかどうか。その時は想像がつきませんでした。でも、もう20年以上やっている仕事で慣れたスタッフもたくさんいます。いざ始めてみると、そして徐々に慣らしていけばそれなりに仕事は進められて、5月にはいわゆる「アゲアゲ」な現場にも立って楽しくお喋りをしていました。
ただ、ずっと「頭で」やっていたのだなあと気がついたのは最近のこと。知っていることであり、嫌いなことではなく、頭や手や口はそれなりに早くからしっかり働き始めてくれていたものの、「心が」動いたのは、しばらく経ってからだったのだと後で気が付きました。
ブレイクスルーになったのは、10月の京都国際映画祭で「何を着たらいいか」を思った時。監督代行だから派手でない方がよくて、でも喪に見えるのは嫌だから黒は避けたい、でも女優さんと並ぶんだから品質はよくないと絶対にわかってしまう・・。そんな思いにぴったりだったのが、デレクラムというブランドのネイビーのシルクブラウスでした。とあるファッション撮影中にスタイリストさんが用意していたものを見て、「これ!こんなのかも!」と心の中で叫ぶ。でもその時は言い出せず、後からプレスルームに個人的に電話をして事情を話し、借りに行くことに。
ご好意でお借りしたブラウスは結果として意図にぴったりとはまっていて、ほめられました。「なんだかとても嬉しい!」という、服を着て得られる、あのかつて知っていた気持ちをまずは呼び起こしてくれました。
そこからはその成功体験とともに、一気に気持ちが氷解していったように思います。
気がつくと、ときめいたものには、頭ではなく、心の方から「かわいい〜」「素敵!」と言えるようになっていました。しかも今では本来の仕事に戻れたというよりも、むしろもっと気持ちが深くなったような気がします。
そんな風に素直に言えるという今の状況に感謝・・という気持ちがあるからかもしれない。
または、本当に素敵だなと思った時は、心の根っこのようなところから、その服や写真に吸い付いてくような感覚が芽生えます。「ときめきの価値」のようなものを再認識したというか、心をもっとピュアに再生した感があります。
心からファッションを楽しむこと。
それは心に動きと華やぎを生み出してくれて、より納得のいく人生を送れることかもしれません。あまり成功ばかりでもないけれど、楽しむ気持ちは忘れないでいたい。
ただ、個人的には目下の悩みは・・・ゆっくり試着をしたり、買い物に行ったりする時間がないことです!(笑)
京都の映画祭で着たブラウス。もちろん、モデルさんとは違う仕上がりだけど(笑)、「その日の私」に、大いに、大いに役立った! 今後も基本はネイビーで行こう、派手ではなくツヤ感でいこう、などと”監督夫人”(?)としての指針になりました。
グローバルに考えて、ローカルに行動を。Think Globally, Act Locally
「あれ? もうすぐ会えるというのに。」
去る1月6日、私の郷里・北九州市での試写会を企画してくれた高校の同窓生から、その数日前に郵便でお手紙が届きました。
「会ったら渡そうとも思っていたのだけどけど」ということわりとともに、昨年発行されていた日本・ベルギー友好150周年の記念切手のプレゼント と、便箋3枚にわたる手書きのお手紙です。
彼女は元フライト・アテンダントで、現在は市の国際会議の企画や国際交流を図る団体に所属。そして旦那様はバングラデシュ人でハーフの2児の母、というインターナショナルぶり。それはさておいても、行動力の素晴らしさには目をみはるものがあり、今回の試写会もあれよあれよと言う間に多くの仲間を集めて隅々まで工夫を凝らした企画を成し遂げてくれました。
時々、居るんですよね、4人分くらいエネルギーのある人。「いつ休んでいるの?」というような熱い人! クラスに1人。グループに1人。部署に1人。普段はそれを傍ですごいな、素敵だな〜、と憧れながら見ているのが関の山の私ですが、今回はその情熱がこの私や亡きジルを担ぎ出すお神輿となり、こそばゆいながらも・・亡き夫の存在の大きさに免じて、思い切り甘えることにしました。
企画の進捗具合を聞くたびに、何だかすごいな〜と思いながら、「ありがとう」と付け加えていたら、「うっこ(私の高校時代のニックネーム)はいつもありがとう、と言ってくれるけれども、こちらこそありがとうだよ! 動くうちに、こんなに素敵な出会いがあったり、人々の善意に触れて感動することが出来ているんだから」と返ってきます。彼女にとって慣れていること、慣れていないことと織り混ざった企画ながら、慣れていないことに対しても「勉強になった!」と常に前向きです。
さて、その頂いたお手紙ですが読み進めていくうちに、最後のこのくだりに差し掛かった時に、思わず涙が溢れました。達筆の手書き文字には優しさと潔さが溢れています。
「我が家のモットーは、Think Globaly, Act Locallyだから世界でおこったこと、いつも考えるようにしています。だから、何事も他人事じゃなく”自分事”なんだよね。おせっかいな友達と思ってこれからも末長くおつきあいのほど、よろしくお願いします。」
こんなモットーがあれば、何が起こっても落ち着いていられるかも、と思いました。
何か悲しい出来事を聞いても遠離せずに寄り添って、それに従って「動いていく」。今回は私自身がそうしてもらう立場だったけれども、私は自分の悲劇はまだまだ、世界規模で見れば中程度だと思っています。
ニュースって、何のためにあるんだろうと時々思う。見ても、聞いても、そしてニュースに限らず例えば「本当に起こった事」を描いた本や映画を通しても、却ってやるせない気持ちになる事はたくさんあるし、私自身、どうしたらいいか分からない・・と即座に思ってしまうことも多い。
でも、彼女のように目に見える大きな「行動」をするというほどに行かずとも、それに従って「動いていく」つまり、「心を動かす」というだけでも、世界はミリ単位で変わっていくのではないかと思います。「今、心が動いたな」ということを感じることは、ちびちびのローカル。シンパシーを寄せるだけでも繋がれる。身体を動かせなくても、シンパシーの貯金だけでもいい。
改めてここで、大事なことを教えてくれて、本当にありがとう!
そして、彼女と共に今回、善意の開栓いっぱいに身体を使って動いてくれた他の友人たち。さらには直接お会いしていないけれども、様々に心を動かしてくださった方達も・・本当にありがとうございました。
こんな切手が発売されていたなんて、知らなかった! 迂闊でした。ベルギービールにワッフルに、ダイヤモンドに・・。大事にしなくては。
ジル・ローランの頭の中。その2 The books which he left in the house No.2
ジルが日本の家に残した蔵書を披露する、第二弾の投稿です。
「森の生活」を記したヘンリー・デビッド・ソローのことが大好きだったらしく、彼の関連の本は複数冊ありました。
映画「残されし大地」のメインキャストにもなった、松村直登さん関連の本。
福島県の地図は、地下鉄テロで亡くなった時に背負っていたリュックの中にも一部、入っていましたが、今思うとあれは映画編集の事実確認のために持って行っていたのでしょうね。自宅にはロードマップとしての地図が2冊、残っていました。
そして、料理好きの生活を物語る大事な2冊。左はプロ用のテキスト(その道の専門学校に行っていた時期もあるらしい)、右はベジタリアン・クッキングの本。エコロジーへの関心から、完全ではないにしても、どちらかというと野菜メインの料理を好んでいました。
ジル、勝手にここで披露してごめん!
でも、やっぱりその人の本棚は、その人の頭の中・・そのひと自身を語ることになるなあと、改めて思います。
そして、映画そのものもですが、やはりこれらは将来、子供たちが見えないパパと会話をするツールになると思うのです。保管は必至です。