黒い蝶。
昨日は、あの小林麻央さんの命日だったのか。
海老蔵さんがブログで「黒い蝶が、私の周りをくるくると4回、舞ってくれました。」と書いていたというのを読んだ。
それであぁ、やっぱり黒い蝶なんだ!と思った。
2年前の夏、ジルが亡くなってから数ヶ月後の夏。
子供達を保育園に連れて行くとき、自転車の走る方向に、なぜか意味不明なほどの低空飛行で、黒い蝶が付いてくることが何回かあった。
伊豆に旅行した時、河津駅の人気の少ないホームに、スーッと黒い蝶が舞い降りてくる。宿泊したホテルのプールに出ると、子供達の頭をからかうように何匹かの黒い蝶がかすめてきたりもした。
同じ夏の終わり、子供達の音楽教室の発表会が。会場へ向かうタクシーの中で、長女が叫んだ。
「あ! また黒い蝶だよ。」
片側二車線ずつの大きな街道は、せわしく行き交う車かショップに囲まれた人工的な風景。そんな通りで窓の外で必死で羽ばたき、しばし車に寄り添う黒い蝶がいたのだ。こんな排気ガスまみれのところで何をしている〜・・と、ちょっと心配な気持ちと、ハッとする気持ち、不思議な気持ち、そして感傷とが一瞬にしてないまぜになったのを覚えている。
そういえば是枝監督の映画「歩いても 歩いても」の中でも、確か最後の方のお墓参りのシーンで蝶が出てきたように思う。”死者の魂がモンシロチョウに”というようなことをだれかが言うのだ。
蝶だけではなく、一昨年の夏は、印象的な虫の登場が多かったように思う。
綺麗な緑色のバッタも、時々私の自転車やバッグに不必要なほど長時間、留まっていることがあった。
てんとう虫の思い出も。
ジルの映画の存在がNHKで紹介され、それを見て連絡をくれた奥山プロデューサーに会いに行く日。タクシーに乗り込みふと視線を落とすと、なぜか都会では珍しい二つ星てんとう虫が私の膝のあたりに鎮座していた。座ってふと、目が留まる場所に、わざわざ・・。
思い込みだったとしても、私の感覚が鋭敏になっていたからかもしれなくても。
虫は軽いから・・。亡くなった人の魂が、ふと乗り物にしやすいのかなと思う。
比較的コントロールしやすくて。しばしの小さな遣いになってくれるのだろうか。
違う意味で。虫には注意が必要(笑)。
今年の夏も、また現れてくれるかな。
ひらがなの衝撃。
この写真は私の娘。今年の3月に6歳になり、4月には小学校に入学して1年生になった。
先日、移動中のタクシーの中で何気なくクリックしたネットニュース。あの5歳児、船戸結愛ちゃんの「ひらがなノート」の文章を読んだ時。
あまりの衝撃に、胸のあたりにメラメラと大きな炎が瞬く間に湧き上がってくるのを感じた。まるで体に突発的に火事が起こったようで、自分でも驚いてしまうほどだった。
それから数分たち、こみ上げて来たのは、涙。
これは心からの叫び。書かされた反省文というよりは、とにかくゆるして(”緩くして”)という心からの嘆願書。そして、結びになるのは「明日はもっと頑張るよ」という人間に元来備わった前向きな気持ちから発する、決意の表現・・・こんな方向での表現で、前を向く心が、噴出しなくてはならないなんて。
その後間もなく、いろいろな文脈から、彼女が2012年の3月生まれで、死亡当時5歳でもまもなく6歳になるところであり、小学校入学直前のタイミングであった事を知って再び愕然とした。
なぜなら、その生年月は、私の娘と全く一緒だったからだ。
約6年間の生涯。
2、3年ほど前に血の繋がった父を失った時期も、だいたい似ている。
この年頃の子がいかに利発になり得て、アーティスティックで、情感も観察力も豊かであるか。同時進行で成長していた我が娘を見れば、とてもよくわかる。結愛ちゃんの中にも、もともと同じものが豊かに育っていたことは全く想像に難くない。それを思うとき、本当に苦しくなる。
幼稚園や施設の先生が「甘えん坊で、明るい子だった」と形容する。曽祖母が「アナ雪の歌を嬉しそうに歌っていたのに・・」と泣いている(それはきっと、2歳の時)。どれを取っても、なんとうちの娘と似ている事だろう。
試しに、よく食べる割にヤセ型の娘の体重を改めて測って見た。18.9キロ。この年頃の女児の平均体重は約20キロとあったけれども、それよりやや少ない方。見た目はいわゆるスリムだ。ところが結愛ちゃんは約12キロ。一体、(私の娘の)この体のどこをどう絞ったら、3分の2にまでなってしまうのだろう、と想像を絶した。
昨年の秋頃だったか。
朝の支度をバタバタと急いでいた私の傍らで、いつものように空き時間があると工作かお絵かきかに励んでいる娘が、「はいママ!」と、手紙を渡してくれた。「ままだいすき」という言葉で始まる、それも、オールひらがなの手紙だった。
ままだいすき(※全て原文ママ)
ままいつもおせわおしてくれてありがとうね
しかもいつもままつかれるでしょう
りりもこれかわがんばるよ
いつもままのおかげでげんきがわいてるんたよ
ありがとうね ままたまにわやすんでね
みるみる涙が出て来た。それ以来、私のスケジュール帳に挟み込んである。それは当時私が受け取っていた、最初の「ひらがなの衝撃」だった。
「ママ泣くと思った〜〜」(私が時に泣き上戸なのを知っていて)とニコニコして抱きついてくるので、「あれ?ママを泣かせようと思って書いたの?」と問うと、「ううん、書きたかったから書いたんだよ」と言う。
子供はこんなにしっかり見ている。行間から滲み出てくる、彼女の観察の眼差し。私がバタバタしていること、疲れている時もあることを、一人の人間対人間として。
結愛ちゃんのノートの言葉も、混じり気のない絞り出すような心からの表現だったのだと思う。「ママ」という書き出しから始まっていたあの一連の文章は、ママならなんとか聞いてくれないだろうかと考えた、心からの叫びだ。
それはあのノートの言葉だけではなくて、「お家と施設と、どっちがいい?」と聞かれた時に「しせつ。」と答えた結愛ちゃんの言葉が、まったく狂いのないものだったのと同じように。それなのに、どうしてその言葉の通りに、大人が動けなかった・・。できれば親元がベスト、なんていう考えを捨てるべきだった。こどもファースト、という意識で私たちは動けているのだろうか。
私の夫がベルギーでのテロで亡くなったとき、1年後に印象的な出来事があった。
幾ばくかのいわゆる慰謝料が、ようやく地下鉄会社の加入していた保険を通して出されることになったのだが、それは私宛、長女宛、次女宛と、完全に分割して振り込みをしなければならないのだ、という。娘たちは事件当時、5歳と4歳。だが、あくまでも心理的ダメージを与えた償いは、個々人に支払われるものであるから、と。
娘たちの口座は、私もタッチできないものであり、彼女たち自身が18歳になるまで、凍結されるという。それゆえ日本の口座でそんな措置が可能かどうかを調べたのだが、そんな制度は皆無。結果、ベルギーで二人の銀行口座を開設し、それは公的な管理下におかれることとなった。
欧米では・・と一括りに言うのはあまり好きではないけれども、それほどまでに、少なくともヨーロッパでは、全てがあくまでも”個人”単位。こどもでも、最初から1個の”大人”として扱われていることが理解できる。
日本では、親権がとにかく強すぎるのだと聞く。例えば実の親が承知しなければ、児童養護施設から里親への移行というのも出来ない。様々なケースを一律に議論するわけにはいかないが、ある意味で実の親のわがままが通ってしまいがちなことには、問題があると思う。
それから、今回のケースでやはり多くの人が印象を強くしたと思うのが、継父が妻の連れ子を虐待するケースが後を立たないと言うこと。これも、真逆のケースも存在すると思いつつなので本当に残念なことだが、仮に今回のように、新しいパパの人間としての格が最低である(かもしれない)リスクについてだ。
ツキノワグマの生態を見てショックを受けたことがある。こぐま2匹を育てているお母さんグマが、子殺しをするオスに2度も襲撃を受け、その度に抵抗して戦うものの、子供を崖から突き落とされ、失ってしまうのだ。しかし子供を失うと、その憎き相手のはずの、オスを受け入れる。
オスにしてみれば、動物として自分の遺伝子を残そうとする本能的な手立てなのだろうが、どうしても悲しみともつかない、もやもやが残ってしまった。
今回はそんな動物レベルの事件なのか?
この継父の場合、人間とらしさが”生きて”いるのは、小賢しい言い訳のためだけ。躾のためとか、勉強しなかったからとか、モデル体型が云々とか(モデル体系を5歳の子に普通、求めますか。モデルに会ったこともないくせに・・)腹の立つ言い訳が並ぶこと・・。千歩も万歩も譲って、本人も似たような強迫観念を人生のどこかで受けたことが複雑化でもしているのだろうか。
表現は最悪だが、こうした”クズレベル”の配偶者に引っかからないためにも、または引っかかってしまったかも、と思っても。女性がすぐに逃げられるような仕事やサポート体制はあることはとても重要だ。それは当然、昨今強く論じられている、子どもの貧困問題にも繋がること。
私もシングルマザーになって久しいが、もしこれで仕事がなかったら、お金がなかったら・・と想像すると、すぐ隣に暗闇が潜んでいることが分かる。何かの歯車が狂えば、と。
母親がこの継父と結婚してから亡くなるまでの約2年間。どんなに辛い、地獄のような日々を過ごしてきただろう。パワハラ、モラハラ、身体的暴力、ネグレクト、隔離・・。おおよそ虐待の全てが詰まったような事態。
しかも、5歳の女児を対象に。それなのに、希望を失わないように、必死に前を向こうとしていた結愛ちゃん。
どんな悲惨な死にも、必ず意味があると思いたい。多くの人を今度こそと覚醒させるために、犠牲を払って旅立つ、ある意味で殉教のような死に方をする天使が居たんだと、後になって振り返りたい。
それは、夫があのような形で亡くなった時に、密かに願ったこととも似ている。
幸い、制度そのものを動かそうと言う意識が世の中に高まりつつあるのを感じる。親権の制限、自動相談所と警察のより強い連携・・。これを契機に子供の命を最優先するシステムのある社会になって欲しい。
彼女のノートの言葉は、もしかしたら数十万のいまも虐待に苦しむ子供達の心を代弁した”書簡”。何人もの子供達の尊い命や尊厳が救われることになるならば、どんなに報われることだろう。そうとでも思わない限り、私たちのやりきれない思いは、どこへ向かっていったらいいか。
振り返って私自身と娘のこと。
あんな素晴らしい手紙をくれる娘に対して、今までにもちょっとした失敗をしつこく追い詰めたり、忙しさも相待って言いすぎてしまったことも数しれず。でも、もう、つまらない事を言うのは一瞬でも少なくする・・と誓った。しい、楽しい、そんな瞬間が一瞬でも増えるように。遊ぶってことが、子供にとってすごく大事であると、信じていられる子供時代を過ごせるように。
結愛ちゃんと同じ頃に生を受けていた娘を全力で守り続けて、生きてもらおうと思う。
忘れないでいてくれて、ありがとう。Thank you for not forgetting.
今日はジル・ローランの命日です。
(2016年3月22日、ベルギー地下鉄マルベーク駅にて死亡。享年46歳)
ブリュッセルの地下鉄駅、マルベークやその隣のブルス駅や路上にかかれた、色々な人たちからのメッセージの、アーカイブが発表されました。
ずっとずっと、忘れないでいてくれていてくれて、ありがとう。
↓下記リンクの中の、途中にあるcommemoration で始まるファイルをクリックすると見られます。
https://www.brussels.be/new-website-messages-after-attacks-22-march-2016
最後の手紙 The last letters to his daughters
「これ、なんだったっけ・・」
先月末に、こどもたちと部屋の整理をしていたとき、ふいに発見したカードが2枚。
めくると、懐かしいジルの筆跡が目に飛び込んできた。こどもたちの名前が宛名として綴られている。日付は、2016年3月・・。
そうだ・・! 亡くなる直前。
一昨年の3月に入ってまもないころ、家に届いたベルギーからの小包に入っていたものでした。
3月11日(奇しくも震災の日と同じ)は、次女の誕生日。当時、4歳になろうとしていた。ジルは、不在ながらもあれこれと考えて、事前にプレゼントを送ってくれていて・・。
次女へのプレゼントはボーダーのワンピース。それに、長女のほうにも不公平にならないように小さなオモチャが添えられていたのを思い出します。
これが、その誕生日のメッセージ。
(訳)
2016年3月11日
お誕生日おめでとう、僕の小さなリリ
ついに4歳だね。今はもう、りっぱな”女の子”になったね。
とてもすばらしい1年になるように願っているよ。
もうすぐ会えるのが待ちきれないよ。
たくさんのキス!!!!を。(心で)抱きしめているからね。
君のパパ、ジルより
そして、こちらが同時に、長女に寄せたメッセージ。
(訳)
大きいすずちゃん、
こっちのカードは君に。喜んでもらえると嬉しいな。
次は、君の誕生日だね。
その時には(注;6月18日です)、パパもそっちにいるだろうから、いっしょに祝おうね。
たくさんのキスを。パパは君をとーーーーっても大好きだよ。
ジル
涙があふれました。
長女の誕生日を一緒に祝うこと。それは、その後に叶わないことになるなんて。
じつは、このカードをもらっていたこと。しまっていたことを、忘れていました。なぜなら、そのときの文面としては、ごくごく当たり前の、私の知っている子煩悩なふだんのジルだったので。
これが残ることが、ものすごく特別なことになるなどっとは、思ってもいず、後で普通にレターケースに仕舞っていたのでしょうね。
このカードが届いた後、2週間後に、二度と会えない存在になるなんて、そのときは思いもよらなかったのです。
今、こうして見つかったカード。
私が常々、「もっと夢でもなんでも、ジルからのメッセージがあればいいのに・・無音はいやだ」と心の中で思っているので、見つかるようにと仕向けてくれたのかもしれません。
3月はなかなか、心穏やかには過ごせない月です。
3.11もあれば、3.22もくる。
その狭間で、心は何度も揺れ動きます。
このカードにジルが自分自身で装飾した、黄色の蛍光ペンの模様は、どんどん薄くなってしまうのでしょう。
でも、このカードの中にこめられた、ジルの子どもたちへの愛情は、永遠に消え去ることのなく、真空パックされたものなのだと思います。
このときだけでなく、ずっとずっと、有効で、温かさを運んでくれるメッセージなのだと思います。
ジルの遺言。 "冬は雪で遊ばせて"
季節を感じるためにも、冬はもちろん雪遊びできれば素敵。
とはいえ、東京は毎年雪が降る訳ではないし、降っても遊ぶタイミングや場所があるかどうかは未知数。
「だったら、雪の場所に行かない?」
そうジルが提案してきたのは、3年前の2月だったか。
そうか、親としてはそんなプロジェクトも必要ね、と納得して探し、チョイスしたのが、越後湯沢の民宿と岩原高原での雪遊びだった。
レジャーとしてというより、”真にこどもにはこれが必要だ”という彼独特のきめ細やかな配慮からの提案だったなぁ、と今にしても思う。
私はというと逆に、時間に流されるままに毎日を過ごし、あまりそういったアイデア出しが得意な方でもなく・・。提案されたはじめて、そうね、 よし!と動き出すタイプ。
けれども、昨冬は映画公開のことでバタバタだったし、一昨年にいたってはジルがベルギーに冬ごと丸々帰っていて(それが死につながってしまうのだけど・・)私もひとり親で忙しく、雪の場所へ出かけるのは、ナシのままになっていた。
そして今年。
もう3年ぶりになるのか。
やっぱり子供達に雪遊びをさせたい、と思い立った。
東京からならばいろんなオプションがあるはず、違う場所にも行ってみたいなと、長野や群馬などいろいろ調べたけれども、車のない我が家が一番アクセスしやすいのは、やっぱり、越後湯沢だった。
同じ景色を辿ってしまうと、ちょっと悲しくなりそうだったけど、もうひと家族(やはり母ひとり、こども二人)が合流してくれて賑やかに。
女親二人、こども4人の旅。新幹線に揺られて1時間20分の旅。
でも、駅に到着して、凍結防止用の水が地面からチョロチョロ出ているロータリーをみると、あぁ、ここにジルと来たなあ、という当時の光景が重なってきはきた。
ハッと気づいたのが、私の友人が連れてきたこどもたちが、4歳と2歳。
まさに、3年前のうちの子。それにどんな意味があるということでもないけれども、過去の影、ここにありなん。当時のうちの子の幼さ。もう忘れていたけど、今より大変だった。そして、その時にしかない独特の可愛さがあったのは確かだなぁ。
今回は前回の民宿ではなく、かの代表的なホテル、苗場プリンスへ。
メガな場所で、ある種の機械的な対応をされたほうが、あまり感傷的にならずに済むかなと思ったのもあり。
そして、こどもスキー教室にもトライしてみた。
オリンピック後だからというわけではないけれども、ちょっとこの姿はワクワクする!
私は九州出身。高校の修学旅行ではじめてスキーを経験したくらいで、その後もブラッシュアップはできなかったので、子供達にはもうちょっと得意になってほしい。
これに関しては、スキー好きの多いヨーロッパ出身で「子供の頃からやっていたよ」というジルの道を、多少でもなぞったほうがいいのかなと思ったのでした。
二人の感想は?
「思ってたより、見ているだけより、バランス取るのが大変だった〜」とのこと。
そうだよね〜。なんでも、見た目よりやってみたほうが分かるよね。
ところで、これは3年前の越後湯沢は岩原高原での写真。
やはりキッズパークのようなものがあり、そこでチビ二人を丸いソリに乗せて行くジル。4歳と2歳、このころの子供達はまだ今より丸っこくて小さくて、芋虫みたいだった。
今じゃ一人でガンガン、登っています。↓
そしてこれは当時、ジルが作ったユニークな雪だるま。
丸い雪の玉で装飾して、さらにはたくさん積み上げて、アンテナみたい。
目になったのは、ジルのパンツのポケットに入っていたユーロのコイン。
鼻が高いのも、なんとなくヨーロピアンです。
この雪だるまのように、形あるものはいつかは姿を消すものだけれども。
これからも、子供に向けられた真心だけは私なりに、受け継いでいこうと思います。
これからは毎年、何事もなければ「冬には雪遊び」を計画したいと思う。
なんとなく、それがジルの遺言でもあるような気がしているから。
予約はバタバタだったけれども、来年からはもっと早めに(笑)がんばるよ!
生き物ってすばらしい
うちの姉妹が去年の春から始めたこと。それは乗馬です。日本ではだいたい5歳くらいからポニー乗馬を習い始められるらしく、たまたまですが下の子が5歳になったばかりのタイミングでした。
事の発端は今から3年ほど前。ベルギーに里帰りをしたときに、ジルが現地の乗馬クラブの体験レッスンをこどもたちのために予約していました。現地の子10人ほど?と並んで。そのとき以来、ずっと「馬が好き、馬が好き」と言い続けていた彼女たち。(特に長女が。言い張る、というくらいに)
そして2年前の夏・・こんどはジル亡きあと、同じ乗馬クラブでまた体験レッスンをさせてもらいました。本当は、その日は体験レッスンはなかったのですが、事情を知ったオーナーのマダムが、「聞いたわよ・・大変だったわね」と、うちの子たちだけのために、大きな馬場を開けて迎え入れてくれました。
あぁ、ジルが縁をつけてくれたこの場所に、また戻ってきたな・・そんな風にしみじみしながら。
そして去年の夏も里帰り。こんどは、もう日本で乗馬を始めたあとだったので、乗馬服、ヘルメット、手袋、ブーツなどを現地で買おうと。日本ではなかなかどれも高価なのですが、ベルギーでは習い事のひとつとして、スポーツのひとつとしてとても身近なものなので、スポーツショップなどに普通に置いてあるのです。期せずして、優しい義姉がレジですべてを払ってくれてしまいました!(すみません!&ありがとう!)
その入手したてのユニフォーム?で乗馬・・。年に一度、ジルの優しさを思い出すためにも、ベルギーに里帰りした際は必ずここにくるようになるのかもしれません。
さて、アップした写真は日本で現在通っているほうの乗馬クラブのほうです。
ちなみにここへ行く時、必ず大きな青いショッピングトロリーにブーツや何やら、入れて持っていっています。それは、ベルギーに住んでいたときに、ジルと私がよく買い物で使っていたもの。それを持っていくと、なんとなくジルも参加しているような気分になるかしら?と思い。
それにしても、馬たちの可愛いこと。触ると、本当に暖かいのです。リアルファー、しかも血の通った。この暖かさを体験してしまうと、申し訳ないけれどもファッションのファーは可愛いし、思わず手に取りたくなるけど、いらないかも・・と思ってしまいます。
どれも長女の撮影。愛情を感じます!
ポニーの名前も、クッキー、モカ、などの美味しそうな名前から、ハッピー、ノンノン、など覚えやすい可愛い名前が揃っていて、ほのぼのします。
この血の通った、というところが本当にポイント。
お日様のような、太陽のような温もり。
生きているってすごいなと思います。
なぜ乗馬が好きなのか子供達に聞いてみたところ、「生きていて、乗れるものだから。それって乗馬だけだから。」
ラクダとかロバとか、ゾウもあるかもしれないけどね笑。レッスンで習えるのは確かに馬だけですね。
子供たちのエネルギーと、生き物である馬のエネルギーとか混じり合って、私も連れて行くのは大変だけど、大切な生気というのもの象徴に出会える週末が好きです。