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故ジル・ローランを偲んで

A blog to remember Gilles Laurent, who died in Brussels Attack in the middle of making his film about Fukushima / this blog is organized by his wife Reiko Udo

広島原爆投下の日に寄せて On the day of Hiroshima (English translation will come later)

(当初「これは公開できない」と思っていた写真ですが、意を決して。)

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広島原爆投下の日に寄せて

 

 今朝、何気なく迎えた8:15の黙祷でしたが、「戦闘行為であるたったひとつの爆弾に、一瞬にして無惨にも命を失われた」・・という事実をなぞった時、それはジルも一緒だったのではないかと思うと、急に言葉を失ってしまいました。一瞬、自分の体が止まってしまうのを感じました。

 

 テロ事件が起きたのは3月22日で、死亡がはっきりと判明したのは3月27日。自分の住む世界が突然、悪い夢の中に引き摺り込まれたような気持ちのまま、子どもたちを母に託し、封鎖中のブリュッセルの空港を避けてたった一人で“戦火に飛び込むような”気持ちでパリ経由でベルギー入りした私は、家族によるジルの遺体確認に1日遅れで間に合わず。会えたのは事件から一週間後の3月30日、薄茶色の杭で閉じられた棺でした。西洋式ですから小窓もありません。こんな箱の中に入っているって、どういうこと?・・と、もちろん嗚咽を止めることはできずその後も度々泣いたものの、最終的に彼の姿を見ないままで火葬まで辿り着いたので、どこか信じられていない気持ちがしばらく続いていたことも確かです。

 

 ところが事件からしばらくたったこの夏、今度こそ子ども達を連れて、と再び渡欧した際に、やっと警察から引き取られてきていた、事件当時の彼のリュックサックに対面。彼が最後まで居候していた(私にとっての)義姉の家に戻ってきていたのです。原型はきちんと留めているようでも、どこか全体に煤けており、トップの方がビリリと破けています。反射的に「原爆資料館の被爆者の遺品を見ているみたいだ・・・」と思ったのを覚えています。それでも冷静に何が入っていたのかチェックして見てみようとジップを開け、一つ一つ物を取り出してみると、整理整頓の苦手だった彼らしく、日本を離れてもう3ヶ月以上経っているにも関わらず福島県の地図や日本語の勉強ノートの切れ端、そして子供達の保育園のお迎え時に提供していたであろう丸い卵の形のチョコレート、さらに一緒に拾ったのかもしれない幾つかのドングリなども、コロコロ・・と出てきました。

 

 それが私の、彼との遺体対面のようなものだったのです。

 

 やはり冷静さは2分ほどしか続かず、気がつくと見慣れたリュックの煤けた姿を前にした衝撃に、あらためて号泣していました。リュックは残っても、持ち主はどこを探してももう居ないのです。爆風を浴びてジルと一緒に一瞬にして地下鉄の硬い床に倒されたのであろうリュック。けれども後に、中に入っていた一番大事なノートパソコンのハードディスクは修復可能と判明し、そのコピーは今回、ほぼ同時に私の手に渡りました。幸いにも最後の映画の断片と、たくさんの家族写真は守られていたわけです。まるで「記憶だけは亡くならないよ」という彼からのメッセージだったのかもしれません。

 

 もとはと言えば、私が日本への本格的な帰国前にベルギーで買い、しばらく愛用していたリュック。ある日、別の(彼の)リュックが壊れてしまった、というので貸してあげると、半ば成り行きでそのまま彼のものに・・というものでした。使い勝手が良かったため、ケチな返却希望のあった私は、代わりに彼への新しいリュックをプレゼントとして渡そうと、昨年のうちに、来季の展示会で見つけていたものを購入していたのですが、それが届いたのは彼が亡くなって数週間後というタイミングで、その時も随分やるせない思いに包まれたものでした。

 

 オバマ大統領が広島訪問を果たした5月。これをテレビで見ながら「ねえ、どう思う?」と話しかけたかった時に、もう彼は側にいませんでした。その時も、一瞬ぼうっとしてしまったのを覚えています。彼の意見を聞いてみたかったのです。「これって、やっぱり画期的なことと思う?」と。社会情勢に常に興味があり、議論好きでもあったヒューマニスト。ISという“国”が一方的に建国宣言をしたというニュースを聞いた時は背景がよく分からないながらも二人で微かに憤り、昨年1月にシャルリ・エブド新聞社の事件があった時には、言論の自由を重んじる彼は泣いていました。「僕たちも、自分たち(ヨーロッパ人)自身の事を同時に大いに批判しているんだ」と。そして昨年11月、私たち二人ともに所縁のあるパリで信じられないテロが起きた時、今度は私が突っ伏して泣いてしまいました。さらには数日後に、犯人グループがベルギー国籍だったというニュースを受け、彼が今までになくショックを受けていたのは言うまでもありません。

 

 一連の流れを受けて、グッと警戒レベルの上がったブリュッセルはパリテロ後の数日間、すべての公共交通と学校を封鎖するという前代未聞の事態に。ジルは、すでに12月に映画の編集作業のために帰国することは決まっていたのですが、彼の場合は単に仕事でというよりも、生まれ故郷への帰省も兼ねた渡航です。「これからは、(どちらにしても)こういう状況とずっと生きていかなくちゃいけないんだから」と言っていたのを覚えています。

 

 広島ではジルのように一瞬にして命を奪われてしまった人々が何万と居たのだと思うと気が遠くなります。5月にオバマ大統領と抱き合った被爆者の坪井直さん。過去のVTRの中で、元気に語り部活動をしていても、実際に爆撃機エノラ・ゲイをアメリカの博物館で目の当たりにした時、思わずうずくまってしまったとありました。続けて、長崎に向けて長さ3メートルほどの原子爆弾(「こんなに実際は小さいのか」と思わざるをえない)が運ばれていくモノクロの映像を見た私は、「彼の命を奪ったのはどんな大きさの爆弾だったのだろう。今やインターネットで手作り爆弾の造り方が分かる時代で、今回の物は釘が大量に混ざっていたと書いていたけど・・」と恐る恐る想像しても、それは実際には目にしていないのです。私が実際に目にしたのは唯一、やはりこのリュックだけなのです。

 

 今日はたまたまリオ・オリンピックの開催日でもあり、史上初の「難民選手団」の最後の入場は今までに見たことのない光景で、胸に迫るものを感じた方達もいらっしゃるのではないでしょうか。開会式の演説や演出も「平和」についての言及に彩られていました。この選手団の中には夫と同じ“攻撃源”に遭遇することで、こうなってしまった方達もいたことでしょう。全く他人事ではなく、世界はつながっているのです。

 

 夫が最後に撮影をしていたのは、奇しくも同じく原子力という人間のコントロールの範囲を超えたパワーによって、人生を翻弄された人たちの物語でした。しかし一方で、広島や長崎に投下された原子爆弾の原料であるウランは、当時ベルギー領コンゴから運ばれてきたものであったことも知られています。ウランは採掘時にすでに労働者を脅かす、静かな被曝が問題視されています。と同時に、ベルギー南西部にあるイーペルという町は、第二次世界大戦中に毒ガス攻撃で大量に人々が亡くなった激戦地であり、のちに「ヨーロッパのヒロシマ」と呼ばれているのは、私たちはあまり知らないかもしれません。

 

 ところで「空港で無差別に人を乱射する」というような新しいテロの手法を世の中に初めて“紹介”することになったのは70年代の日本赤軍だそうです。いろいろなことを調べて知れば知るほど、何もかもが他人事ではなく、やはり世界は細い糸で時間を超えつつ、どこかからどこかへとつながっているのです。

 

 杉並区の公園で拾われたドングリと手製の爆弾が世界のどこかの、ある地下鉄の車両で出会ってしまうように、この世の中はやはりつながっているのです。

 一つの原子力発電所廃炉になるのに40年以上かかるのだとしたら、世界に17,000発以上あると言われる核兵器をすべて「廃絶しよう」となったとしても、一体どのくらいの時間がかかるのだろう・・・今日のいろいろなスピーチを聞くと、どこか気が遠くなってしまいます。けれども、どんなに時間がかかったとしても、何が何でも平和を望まなければならないのだと思います。時間がかかるとしても、時間の問題なのだと信じて。私たちは決して、公園で楽しく子供達と遊ぶような何気ない日常の生活を失ってはならないし、あるがままの「ドングリを可愛い」と思うような、人間としての魂を無くしてはならないんです。