故ジル・ローランを偲んで

A blog to remember Gilles Laurent, who died in Brussels Attack in the middle of making his film about Fukushima / this blog is organized by his wife Reiko Udo

色々な事件の被害者支援について

最近、ネット、TV関わらず色々な凶悪な事件のニュースのその後の裁判や、未解決の事件の話を見聞きするたびに、思うことがある。

 

自分の家族を。しかも数人、殺した犯人であっても、加害者が死刑にならない。

または、加害者本人も同時に自殺をしてしまっている。または、加害者そのものが見つかっていないケースなど・・。(ひき逃げ事件など)

 

そんな場合、誰が、何が、最終的に被害者家族に実質的に寄り添ってくれるのだろう・・と。

 

社会的に過去の”判例”に基づいて、死刑にできず、無期懲役になるのなら。

そこに対して、それこそ”社会全体”が被害者に対して、こんな形になってしまって、ごめんなさいねを言うべきではないのか。

ひいては、そのごめんなさいの表し方を、献金のような形で表せないものだろうか・・・と考えている。

そのような組織を立ち上げられないものだろうかと。

 

例えばアメリカで9.11の後に、政府からの保障の他に、有志の国民から随分な募金が集まったと聞く。もちろん、日本でも災害の後にその災害の名のものとに、全国からそれなりの募金が寄せられたケースはたくさんある。

 

けれども、個々の思いがけない犯罪に、巻き込まれてしまったときはどうなのか。

 

この事件、あの事件・・実際は、枚挙にいとまがない。

 

あの新潟の小学校2年生の娘さんが車で故意にはねられ、虐待を受け、首を絞められ、電車に遺体を飛ばされてしまった遺族の方。

やはり当時小学生の男の子が、自転車ごとはねられ即死、けれども犯人はひき逃げのまま15年が経ち・・といったケース。

加害者やその家族に、それに見合う支払能力はなさそうであったり、そもそもの対象者が見つからないというケースさえある。

 

数年前にバングラディシュのテロ事件の直後、日本政府から個々の凶悪犯罪の被害に対しては、それぞれに200万円のお見舞金が入るとの規定が成立した。もちろん、お金がいくら入ろうとも、元々の大事な家族の命には値する額などないのだが・・。それであっても、ないよりはもちろんいいものではあるが、ほんの少しの慰めにしかならないことは明白だ。

 

 

私が個人的に心を痛めてやまないのは、私も、当初、支払能力のない凶悪犯罪(というのも、犯人は同じ現場で自爆してしまったから)に夫が巻き込まれたという経験があるから。

ただ、私の場合(それは他の多くの被害者家族の方もそうかもしれないけれども)周囲からの怒涛のような思いの流入があった。

 

そして、1年後や数年後になったけれども、当初は皆無かと思っていた、金銭的な補償もいくばくかではあるが、出た。

最終的に地下鉄の運行会社が契約していた保険会社(日本で言うところの、東京会場のような会社)から下りたのであって、そこに何かしらの「慰め」があったとは言える。

(日本政府からのお見舞金は、夫がベルギー人でありベルギーで亡くなっているわけなので対象外だったようだ。特に打診もなかったけれども・・。)

 

でも、何も、ない人もいる。

 

それでいて、犯人の罰せられ方が代わりになるわけではない。

私は、個人的に死刑に賛成な訳ではないけれども、死刑でも足りない、と言っている被害者家族の心情そのものは理解ができる。

 

けれども多くの場合、被害者の気持ちは満たされないままだろう。

社会(私たち一人一人、市井に生きる者たちが任意で)何か、できる仕組みがないものかどうか。

 

・・そんなことを、ニュースを見るたび、考えている。私が将来的にできることが何か、あるだろう。

 

こんな私の思いの巡らせ方を、ジルはどう思って見ているだろうか。

 

f:id:Gillesfilm:20170531232431j:plain