ジルとの不思議な旅 ③ 虫の命は軽くない
追記:
ジルとの不思議な旅 ② 好きな色はネイビー
Vol. 2 好きな色はネイビー
突然のテロで夫を失くす。
想像だにしなかった出来事が振りかぶった直後、実は私は「今の仕事を続けるのは無理かもしれないな」と思った。なぜなら、私の世界が一瞬にしてモノクロームになってしまったからだ。
私は新卒以来、S出版社の会社員。
入社以来いくどか雑誌名が変わる異動はあったものの、一貫してファッション誌の編集をしている。テレビドラマなどで描かれる世界では随分と華やかで、ハードワークと皮肉が飛び交う職場のように描かれていることが多いが、あれはちょっと大げさ。実際はそんなにゴージャスに着飾らず、個性的だがおしなべて良識的な人が集まっている(?)職場だと思っている。
ただ、日々モデルさんや時にはタレントと呼ばれる方に実際にお会いし、言葉を交わすこともある現場。よく考えるとすごい場所にいるなぁ、と思うこともある。そしてそんな現場で連呼される言葉ナンバーワンは、女性誌の現場らしく、幾つになってもどの雑誌であっても、「可愛い〜!」である。
実際に“可愛い”アイテムを見た時。そしてそれが実際にまとわれた時の写真をチェックする時。地道な作業ももちろんある仕事だが、キラキラしたものを目にしたり、胸がワクワクしたりする瞬間は少なくない。
けれども、私の世界はあの時、一瞬でモノクロームになってしまった。
一気に夜の帳が下りた状態になってしまった。
こんな心の状態では色の違いも分からないだろう。ましてや無邪気に「可愛い!」なんて何かに向かって言える気持ちがまた湧いてくるのだろうか。
それにこうなってしまった私の経歴・・みんなだってもう、どう声をかけていいか分からず、扱いづらいのじゃないか。そんな風に思ってしまった。
だがとにかく、石にしがみついても「仕事だけは続けなくては」と思った。
というのも、私はすでにその時点で、随分と“放浪経歴”のある会社員となってしまっていたからだ。
2006年から1年と2ヶ月、「自己啓発休業」という会社の制度を使って、イギリスはロンドンへ遊学をした。そして2010年春から産休に入ってそのまま育休はベルギーで過ごすのだが、途中もう1人出産し、なんと復帰なしの連続での育休取得を許可してもらったため、会社に戻って着たのは2013年の秋だった。
すでに、合計で5年近くもの間会社を留守にしているちょっと“変わった人”なのだ。ここでまた理由が理由とはいえ、その“変わった”経歴をこじらせて「1年間休みます」と言うことはできない・・。そう思った。
そしてこのテロが起こった時点で、経済的に子供2人を養っていくには、とにかく働き続けるしかない、とも強く思った。
というのも、ジルはやはりどこか自由人で、生命保険なるものに未加入だった。勧めたこともあったが「そうやってすぐに人はセキュリティーを求めるんだから」と、一蹴されてしまっていた。そして彼には、映画の製作資金を少し貸していたくらいだから貯金もないと思っていた(しかしこれは、後からひょっこり出てきたりもしたのだが)。さらに当時は、ベルギー本国から何かしらの保障が出る見込みもない、と言われていた(これも後から少し覆るのだが。)
とにかく当時は、“ないない尽くし”じゃないかとおもった。こうなったらとにかく頑張って行かなければと。
ただ、前述のようなファッションの現場はもう無理なのではないかと思った。こんな経歴を持ったからには、何かハードボイルドな部署(なんてあるのか?)、もしくは社会問題と向き合う単行本を出す部署などに異動をさせてもらえたら、自他共にその方が良いのではないかと思ったりもした。
だがそんな時、尊敬するとある方から至極まっとうなアドバイスを頂く。
「会社は部署ごとに家族みたいになるけれども、いざ異動があるとそれも途切れたりするよね。特に日本の場合は部署が家族になることが多い。だから今の職場のままがいい。自分たちと同じように働き続けて、それなのに突然こんなことが起きてしまった、そんなあなたに思いを寄せてくれるのは今の職場。異動してしまったら、包み込んでもらえる雰囲気は逆にないと思うよ。今の場所の方が傷が癒えるのは早いと思う」と。
確かに、今までも何度か異動を経験してきたが、以前の居場所は、去る時ほど去りがたいものの、そのうちお互いに縁が薄くなっていき、気がつくと家族が入れ替わっているような現象が起こる。それは経験上知っていた。その言葉に何処かで納得し、私は異動の希望を出すこともなく、職場復帰をした。
ただ、確か1ヶ月近くは撮影現場には行かず、上司や同僚に代わってもらっていた。あの「可愛い」の嵐の中に飛び込める自信はまだなかったのだ。そしてそれを口に出したわけではなかったのに、それは暗黙の了解のように皆に分かってもらっていたようだ。
仕事の傍ら、ジルの残した映画を何とか世に出さなくては、と奔走していた部分もあるが、本業にもちゃんと向き合おうともがいているうちに。
不思議なことに、夜の帳がだんだんと薄らいでくることを知った。
その合図は「ネイビー」という色を着たくなったことだった。
「喪の色は黒」とはよく言ったもので、確かに絶望の淵にあるとき、その色は闇の色、黒だ。けれども少しだけ光が差してくると、それがネイビーという色に変わってくる。よく雑誌でも写真になった時に「これは黒ですか? ネイビーでしたか?」と紛らわしくて色校正のときに苦労することもあるくらい、隣同士にあるような色なのだが。
8月のNHK「おはよう日本」での報道を契機として、10月の京都国際映画祭に夫の映画を携えて登壇することになった時。
たまたまその直前のある撮影で、スタイリストさんが集めてくれていた服に、「あ、これ着たい。」と思うものがあった。
シルク素材でボウタイのネイビーのブラウス。出過ぎてはいけない、でも暗くてもいけない。そんな自分の立場にはピッタリなような気がした。普段はこんなことを頼むことはないのだが、ブランドにお願いしてそのサンプルを映画祭用にも貸して頂いた。
その時はT.P.O.的にふさわしい色だから選んだ、と思っていたのだが、よくよく考えるとネイビーとは「黒に少しだけ光が差した色」。
心に少しずつ、光が差し込んでいたのだと思う。
そしてここから、私が素敵だと思う色は以前のようにどんどん増えていき、いつの間にか何もなかったように、現場で「可愛い!」を連発できる人間に戻っていた。
そして今となっては家の中で、10歳と9歳の娘と。あの頃よりもずっと趣味も審美眼も口数も増えた子供達と一緒になって、あらゆるものに対して「可愛い!」を連発している。ワクワクとともに生きている。
あのときそれしか選択肢がなかったとも言えるけれども、踏ん張ってここに居て、良かったと思う。
昔からネイビーには好感を持っていたけれども、夜の帳からの復活を示してくれたあの時以来、特に私の好きな色となった。
そういえばジルの好きな色でもあったな、ということを思い出す。
ジルとの不思議な旅 ➀ 王さまと私
そして小さな存在ながら私なりに、そこから世の中の真実を垣間見たり、掴み取ったような気分がした瞬間の数々。
それをこのタイトルシリーズ「ジルとの不思議な旅」(「ニルスの不思議な旅」を文字っています笑)と題して、しばらくまた綴れるだけ綴って行きたい。
(エピソードの時期によって、ジルは生きていたり、もう亡くなっていたりするだろうが)
もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㊵
Vol. 40 世界で一番、恵まれた嫁
ジルの命日である今日、3月22日。
私が一番、その心情を気がかりにするのがベルギーの家族だ。
ジルにはブイヨンに住む両親と、ブリュッセルやナミュールに住む姉妹がいる。みんなが車で1〜2時間の範囲に住んでいるという、コンパクトなベルギーならではの地理的な条件もあるけれども、家族はしょっちゅう集まっていた。それぞれのパートナーも含めて。
クリスマスなどはもちろんだが、普段も誰かの家でホームパーティー、一緒にワイワイご飯を食べたりワインを飲んだり、ということがしばしばあった。
みんな誰かの人生に口を出すような野暮なことはしないが、連絡を密にとっていて、何かあるとそのたびチーム力を発揮して協力し合っていた。ベルギーに住んでいた当時、小さな子供のいる家庭は私のところだけだったが、預かってもらったり、可愛がってもらったりとそれはそれは助けてもらった。
こう言うと自慢にしか聞こえないかもしれないが、本当のこと。
私は世界一幸せな嫁なんじゃないかと思っていた。いや、今もそう思っている。
お舅さん、お姑さん、小姑・・そんな呼び名はいろいろあれど、ここでは伝統的な確執に悩まされることなど皆無だった。私が外国人であることや小さな子供がいることなどのハンディもあったのかもしれないが、常にみんなから優しくされた記憶しかない。嫌な思いをしたことなどは、一度もなかった。
むしろジルが一番私に手厳しい(?)ところがあり、「ジル以外、みんな優しいのにな〜」なんて勝手なことを思ったりしていたくらいだ。忌憚なくぶつかり合う夫婦だからそれは仕方がないのだが。
そもそも実家が「ホテルである」、その事実が”嫁”という立場をとても恵まれたものにしていた。
ジルの両親は30室足らずのホテルのオーナーであり、その一番上の階をマンションのように改造して住んでいた。職場と一体になっている住居、というわけだ。
それについてジルは「便利なようで、いつも何かあるとすぐ降りてこられてしまう。24時間、365日働くことになるから、そうしないほうがいいのに」と言っていた。けれども私が思うには、両親はシンプルに仕事が好きだったのではと思う。ただ、ワークライフバランスを気にするジルとしては、そこがずっと気にかかっていたようだ。
それはともかく、私たちにとって「実家へ帰る」=「ホテルの一室を滞提供してもらう」ということだった。
朝ご飯はホテル1階のビュッフェ。
昼ごはんはホテルのカフェ&レストランで自家製ハンバーガー、カルボナーラなど。食欲があるときは、メニューにあるベルギー名物の「ムール貝とフリット」を頼むこともできた。昼からワインがついてくることも。
午後はちょっと喉が乾いたなと思ったら、シュエップス&トニックを頼んだり、気が向くとチェリービールを頼む時も。ビールについてはさすがにベルギーのレストランだけあって、ほぼ全種類のビールとそれに対応した専用のグラスがずらりとバーカウンターの後ろに並んでいた・・。この道が好きな人だったら、圧巻の光景だったと思う。
夜ご飯は専属シェフのコース・・。アルコールに詳しいお義父さんのお見立てでとっておきのシャンパンやワインが出てくる。でも料理上手のお義母さんがまだ健在なときは、お義母さんの手料理が一部出てくることもあった。
こう書くと、改めてなんだかすごい。
ジルの出張が長い時などには、何日もまるっと我々母子だけでお世話になることもあった。
日中は散歩に出かけて名物のアイスクリームを食べたり、スモワ川のペダロー(足漕ぎスワンなどのボート)で遊んだり・・。小さい子供がいればそうそう気は抜けないけれども、眠くなったら、タイミングを見て勝手に部屋で昼寝もできた。シャワーもお風呂も、専用だから好きな時に入れた。洗濯など何か頼みたいときは、すでに顔見知りで名前で呼び合う従業員のみんなにお願いできた。
ちょっと、ふざけてない!? そう言われそうな幸運な状況だ。
これが伝統的な日本の里帰りだったら、ましてや嫁だったら。お食事づくりをどう手伝うかと言う事、お風呂に入る順番なども、かなり気を遣うことになるだろう。ところがここにおいては、それが皆無なのである。こんなに制約なしでお客さん然としていていいのだろうかと、としばしば思った。
甘やかされすぎだろう。でも、いつもいつも、親切にしてもらった。その記憶しかない。
ジルが亡くなった年(2016年)の7月。改めて子供達を連れて行き、ジルのお墓参りをしたのを皮切りに、それ以降2017年、2018年、2019年と連続して夏には必ずベルギーに帰っている。
というのもジルがいない今、それが以前にも増して本当に大事なのだ。
子供たちにとっての「私たちはベルギー人でもあるんだ」「家族がベルギーにいるんだ」と言う認識を、絶対に途絶えさせたくないからである。加えて家族にしても、ジルの面影がくっきりと残る娘たちの成長を見ることが、少しでもジルの不存在を埋めること、慰めにならないだろうか、と思っているから。
ところが残念ながら昨年の2020年はコロナ禍で渡欧が叶わなかった。1年空いただけでも「大きくなったね!」となるのに、このままでは今年もそれが叶わず、次に会えるときには3年くらい空いてしまうことになるのか・・。
よりによって、この”ジルが亡くなって5年”と言う節目にそれが叶わなかったのは本当に残念だ。
ただ、日本のLINEのようにあちらでポピュラーなWhatsupアプリを使い、家族の間で何かあると頻繁に写真や短いメッセージのやりとりをしている。ごく最近では、4月4日のイースターに向けて、たくさんのチョコレートとエッグ型のおもちゃ、鬼滅の刃フランス語版の4〜6巻が送られてきた。同時に私向け(!)に、大好きなチーズとワインを送ってきてくれた。
イースターは日本ではまだマイナーだが、もう一つ、12月になるとサン・ニコラという子供のためのお祭りがある(クリスマスの”サンタクロース話”の起源になったと言われている)。その時もたくさんのスペキュロース(生姜味のクッキー)やおもちゃを送ってきてくれる。
チーズやワインが入っていることに、子供達が甘やかしてもらっていると同時に、私もセットになっていつまでも甘やかしてもらっていることが表れている。
ジルはお姉さん二人、妹1人の中の黒一点。真ん中という位置もあってか、何か家族で話し合うべきことがあるとイニシアチブを取って、解決策を考えようとしていた。いつもアクティブな役回りを買って出ていたと思う。それだからこそ、ジルの喪失はこの家族にとって、とても大きなものだったと思う。それは計り知れない・・。
普段は冷静で、ジルが亡くなったときもつつがなくいろいろなことを推し進めてくれた家族だったが、あの年には「怒っている・・。すごく怒っているの。家族をdestroyして」と、ふとしたときにつぶやいていた。
私はというとジルが亡くなった時、あまりのことに怒りはすぐに湧いてこなかったのだが、初めて怒りを感じたのは、彼らの打ちひしがれた姿を目にしたときだった。
私の家族をこんなに傷つけた。ひどすぎる、と。ジルを取り戻すすべのない、取り返しのつかない家族の本音を通してやっと、私自身の中にも怒りらしい感情が湧いてきたのだった。
私にとってはたったの7年しか知り得なかったジルだけれども。
家族にとっては46年間、ずっとそばで見ていた頼りになるジルだったのだ。赤ん坊の時から、子供の時から、やんちゃな時代も。ずっと見てきていた立場からすると、時の重さが違うのではないかと思ってしまう。亡くなってからたった5年が経っただけで、知ったつもりでこうして動いている私は、張り切りすぎじゃないか。饒舌すぎやしないか。ジルの人生の長さに、ちゃんと見合った重さのある行動ではないのではと、心配になったりもする。
でも・・優しい家族は昨日のブログでアップした「追悼ビデオ」を喜んでくれた。ありがとう、と言ってくれた。「辛すぎて何度もは見られない」もしくは「とめどなく見てしまう」などの率直な言葉を寄せてくれた。
ジルは子供の頃から優しかったらしく、しばしばお義姉さんたちが語るこんなエピソードがある。ジルがオレンジを食べていたので「少しちょうだい!」と言ったら、はいどうぞ、と全部を渡してくれたということだ。ジルにはそういうところがあった。
私とは大人になってからの出会いでケンカも少なくはなかったけれども、いざという時は、物理的にも時間的にも、私にも家族や友達に対しても、決して何かをケチることのないのがジルだった。私が仕事で落ち込んでいるのを見て、「話を聞くから」とわざわざ通勤にそのまま寄り添って、途中駅のカフェでじっくりと話を聞いてくれたこともあった。
ジルが亡くなって、ひとつでもジルにとっていいことがあったとすれば・・おそらく物理的な制約なく、みんなのことを好きな時に見守っていられることだろう。魂だけになれば、瞬間移動も、同時にいくつかの場所に現れるのも、可能なのではないか。12時間もの時間をかけて、日本とヨーロッパの間を飛行機で飛ぶこともない。コロナ禍を気にすることもなく、いつでもその時々に応じて、必要な誰かのそばにいるはずだ。
せめてそう信じたい。
ジルが亡くなったのが現地時間で午前9:11。日本時間の午後5:11。
この時間をめがけて、今日は家族から続々とメッセージが届いた。
「あなたと子供達の事を考えているよ」という暖かいメッセージが。
いつも自分たちのことよりも、私たちのことを一番心配してくれる、優しい家族から。
最後にその「追悼ビデオ」にも挿入した姉妹3人からのメッセージをここに。
「この世界、そしてすべての文化に対してオープンだったジル。
正直で優しく、情熱的で寛大で、平和主義者でした。
いつも一生懸命で、愛していたのは自然、静かなひととき、みんなと楽しむパーティー・・そのどれも。好奇心が強く、ユーモアに溢れた人でした。
家族全員・・二人の娘、妻。そして父、母、姉妹、姪。家族同然だった親友たちの元を。
彼は去ってしまいました。私たちの中に、計り知れない空白を残しながら。」
もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㊴
Vol.39 お彼岸と命日
毎年、このころになると奇妙な思いに駆られるのだった。
なぜならジルの命日は、3月22日。
そして、お彼岸はいつもの年なら3月21日と、日にちがほぼ重なるところ。死者が帰ってくる、ご先祖様をお迎えする日とイメージがまんま重なってしまうことに、不思議な思いを抱くのだ。
ところで今年は節分が2月2日だったのも珍しかったが、お彼岸も1日ずれて3月20日だったわけだ。それはそうと・・とにかく連なる、重なるのだ。
春分の日は、昼と夜の長さが同じになる日。そして、この日から少しずつ、昼の長さの方が長くなる。5年前にジルが亡くなった時も、唯一の救いとしてはしばらくはどんどん日の長さが長くなり、暖かさも増してくることだった。それが精神的に少しの慰めになっていたことは間違いない。
思えば昨年の3月もいきなり小学校が休校となり、4月に入ると緊急事態宣言で全ての社会活動が止まってしまったかのように感じられた。あの時も少しずつ日が長くなることで、家の中を充実させようと買い始めたグリーンが、成長期にもあたり、ベランダで子供達とご飯を食べることなどが、どんなに心を和ませてくれたことか。
明日で5年になってしまうなんて、本当に早いなと思う。
でもたったの5年、とも言える。
ジルは仕事柄、旅が多かったので、ベルギーの家族にして見ても「いま、どこかに行っているだけじゃないか」という感覚があるという。そして私にしても、やはり出張に行ったきり帰ってこなかったこと、そして最後の顔を拝していないこともあり「まだ日本に帰ってこないだけじゃないか」という感覚もある。
ある意味、皆に「本当はまだ亡くなっていないのじゃないか」というような、淡い淡い期待を感じさせてしまうような形で、ジルはみんなの前から姿を消した。今はただ、しばしの旅先が天国になってしまっただけなのではないかと、そんな気さえしてしまうのだ。
人間は皆、いつか亡くなってしまう。それはものすごい真実。
いつになるかわからないけれども、私も、そして考えたくもないけれども、私の娘たちもこの世からいなくなってしまう。現在よりも150年、200年前に生きていた人たちが誰もこの世に残っていないように。これを普段、ほとんど思い出さないのは何故だろう。
そう思えばある意味、ジルはあの世での”先輩”なのだ。
いつか、あの世にたどり着いたときに、”やっと会えたね! 先輩!”ときっと私は言うのだ。それはジルに限らず、私のおじいちゃんおばあちゃん、おじさんおばさん、お義母さん、そして同年代でも先に逝ってしまった何人かのお友達・・みんなが”先輩”なだけなのだ。
46年なんてあまりに短い生涯だけれども。
本人も周りの人間にとっても、悔いが残らないわけではないけれども、少し先に”あの世”を温めて待ってくれている。そう考えれば、心のどこかがどこかホッとするのだ。
あの世でまた会えた時に、「あの時、色々頑張ってくれてありがとうね、よくやったね」とジルに褒められたい。今もしもあの世から私の動きを見ていたら、細かいところではあれこれと「あー、こうしたらいいのに」とか、アドバイスしたいこともいっぱいあるだろう。何しろ、ジルよりも私はかなり雑で、面倒くさがりなタイプだから。
でも「よーし見てろ! 私だってど根性あるから。」と長女を産んだ時に、その一部始終をそばで見ていたジルが「玲子はすごい! こんなことをやってのけるなんて・・。本当に強い!」と言ってくれたあの特別な時のように。
ジルが亡くなった後、それこそ”火事場の馬鹿力”のようなもので、不器用で勇みすぎていたり、あまり効果をなさないようなことに力を注いだりと動き回っていた私を見続けて、総じては「玲子はよくがんばってくれた!」と言ってくれるんじゃないかと。自分を甘く見ながら期待している。
そしてきっと、こうなった以上は生前よりも点数は多めに付けてくれてるよね、と。
写真を整理していると、ジルと長女(1歳前後の時)のツーショットが多かったことに気づいた。(最初の子供の写真は多いと言うけれども。)
今日はそのギャラリーで締めくくりたい。
もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㊳
Vol. 38 追悼ビデオが完成しました
いよいよジルが亡くなってから5年になる節目、3月22日が近づいて来ました。
この日のために、追悼ビデオを作ってもらいました。
音楽は、久石譲のSummer。
子供たちの音楽教室の発表会で、たまたま他の子供がマリンバで弾いていたのを耳にして、「すごくいい曲だね・・なんていう曲?」と聴き入っていたのでした。
ご存知、北野武監督の「菊次郎の夏」のテーマ曲です。全ての映画を観ている訳ではないけれども、ジブリ、キタノ、カンヌなどジルの好きだったキーワードと繋がる曲。好きだな、と思ったのは当然かもしれません。
動画作成をしてくれたのは私の高校時代の友人、Y君です。5年前に東京で高校の大同窓会があったときに、Y君が作ってくれる思い出ビデオなどがいつもセンスが良く、ジンとくるものがあり、今回も連絡を取りお願いしてみました。
私はほとんど素材を渡すだけだったのですが、とてもうまくまとめてくれて、大感謝です。
最初のパートは映画を盛り上げてくれた感謝のある出会いについて。そしてジルの生い立ち、私たち家族の思い出写真、最後には私が5年前に作った「残されし大地に陽はまた昇る」という詩を。
昨日、出来上がったこのビデオを娘二人と一緒に”試写”してみました。
最初は無邪気に「あ、私だ」「あ、誰々だ」という風に眺めていたのですが、ビデオの終盤で動くジルが出てくる頃には、気がつくと長女は顔をぐしゃぐしゃにして私に助けを求めて来ました。次女も、声がないまま頬から大きな涙を流していました。
パパの死について彼らの涙を見たのは、あのパパの死について知らせた日以来。5年ぶりです。
奇跡的なくらいに元気な二人で、いまはもう10歳と9歳。でも5歳と4歳の頃から、ずっと胸の中ではパパのことを忘れずにいたことを改めて感じて、嬉しさと悲しさでいっぱいになりました。改めて3人で抱き合って泣けたことに、改めて癒されました。
いよいよ映画のオンライン上映も22日までとなりますが、併せてこの追悼ビデオもご覧いただき、ジルというかけがえのない個性を持った人物のことを覚えていていただけると嬉しいです。
もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㊲
Vol. 37 犬のおーちゃん 〜後編〜
㊱のお話の続きです。
おーちゃんを預かるうちに、この小型犬の魅力にハマった義両親は・・「
そして「
これにはジルも仰天していた。
おーちゃんを元々くれた友人に聞いてみると、たまたま甥っ子にあたる仔犬が、ちょうど2011年の7月に生まれたタイミ
その子の名前は、タオ。
ちょうど我々は2011年の12月に一時帰国する予定があったため、その時点で生後五ヶ月のタオを日本からピックアップし、
チワワの場合、小さいのでおとなしい子であれば座席にもそのまま連れて入れる(!)。タオはソフトバッグの中に入り、日本からの12時間もの長い機中、私の手もとにいた。
ずっとずっと、存在感を隠しているかのように静かだった。
トイレシーツをバッグの中に敷いていたにもかかわらず、
無事にベルギーに着いたタオ。
広島に生まれ、東京で幼少期を過ごし、おーちゃんの後を追うようにベルギーの南部、ブイヨンまではるばるやってきて、
おーちゃんは相変わらず基本的には私たちの犬ではあったのだが、
ジルは「うちの一家が、チワワでこんなに盛り上がるなんてね・・。思っても見なかった新しい風、吹かせたね君は」と苦笑いをしていた。
まさにチワワ革命。
ジルのような若い男性どころか、落ち着いた風貌の老齢のビジネスマン(ジルのお父さん)が、
しかしそのうち、難しい選択に迫られることになる。我々の2013年夏の本帰国だ。
とりあえず、のつもりでいつかはまた迎えにいけたらと思ってはいた。
こう言うと猫には失礼だし真偽のほどは確かではないが、一説には「
おーちゃんのことは、離れてからも心の片隅にあった。
それでもやはり、
だがそれでも大丈夫なくらい、
けれどもそのおーちゃん、ついに私の手元には戻らないまま、
ジルがテロで亡くなってしまったとき、
そんなことを考えて続けているうちに、「いつか」は2度とやってこなかった。
私のせいでやはり移動が激しく、
でも救いになるのは、今は天国ではジルと一緒だねということ。
"Mon gros !"と呼びかけられて、ニコニコと尻尾を振っているはずだ。
(フランス語では、可愛がっている対象に、
そして、誰かや何かが亡くなった時は、さみしいけれども「あちら(天国)チーム」で楽しく再会を喜んでくれているかな、と思えることがひとつの救いになるように思う。
おーちゃんをものすごく可愛がってくれていたお義母さんも、実は一昨年の12月に亡くなった。けれども今、虹の向こうのチームは2人と1匹。そう考えたときに、心が少しホッとするのだ。
ところで同時に、こちらの世界では、ますます大きくなる娘たちが犬を飼いたいと言い始めてもいた。生まれた時からそばに犬がいた二人にとっては、刷り込み効果でそもそも犬は一番大好きな動物だ。
そもそも幼いころからもそうは言ってはいたのだが、おーちゃんのことも気にかかっていた私は、「じゃあ自分で散歩もできて、世話も自分たちで一通りできるようになったら考えようね」
「何年生から?」
「4年生くらいかなー。」
「じゃあ、3年生のうちの、1月からっていうのはどう?」などと、長女はしばしば細かく交渉を挑んで来ていた(笑)。
そして2020年の2月ごろ。「犬が欲しい欲しいコール」は抑えがたく高まっていた。
次の4月になれば長女は4年生、そして次女は3年生というタイミングでもあった。
でも、おーちゃんは許してくれるだろうか。私が最後にヨシヨシすることも叶わず、天国に行かせてしまったのに。
そんなある日、近所のバス停から不意に空を見上げた時、本当に不思議なくらいにおーちゃんの形をした大きな雲を見た。耳もあって、しっぽも見えて、ライオンみたいに寝そべる形。口元がニコニコと笑っている。
そのとき、「あ、おーちゃんがいいよと言っている・・」と直感的に思った。
その日のうちに、思い切って昔おーちゃんをくれた(そしてタオもくれた)友人に電話をすると、何とその2週間ほど前におーちゃんの妹の孫(ややこしいが、タオの甥っ子にも当たる)が二匹、生まれているではないか。
おーちゃんへの悔恨の念も包み隠さず伝えながら、その上で「ぜひください」とお願いをした。
生後二ヶ月余りが過ぎた頃、その子は我が家へやって来た。
4月はまだ緊急事態宣言中ではあったが、
長女が考えた名前、「ソラ(SOLA)」をつけた。
私が空を見上げた時に・・という話をしたのもあるが、ソラのお母さん(
おーちゃんの魂は、ソラの中にも入っているのだろうか。
もしかしたら生まれ変わりの形をとって、また私と私の家族を助けに来てくれたのかもしれないな、とも思う。