故ジル・ローランを偲んで

A blog to remember Gilles Laurent, who died in Brussels Attack in the middle of making his film about Fukushima / this blog is organized by his wife Reiko Udo

ジルとの不思議な旅 ③ 虫の命は軽くない

 

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映画「残されし大地」でボツになったものの、個人的に”惜しい”と思ったであろうシーンのスクショがジルのコンピュータに残されていた。そのうちの一つ、夏の風物詩、セミの抜け殻。
 
Vol.3  虫の命は軽くない
 
ジルと出会って考え直すきっかけを持ったことのひとつに、この世での”虫”という生き物の存在意義についてがある。
 
ある夏、家族で和歌山県内をレンタカーで観光してまわったことがあった。そのとき訪れた場所のひとつが、高野山だった。
高野山では、ご本尊のあるお寺にたどり着くまでのその長い参道沿いに、ありとあらゆる慰霊碑が立てられている。一般的な墓地などとの違いは、その石碑に企業名が書かれているものも多く、規模の大きなものが点在したことだ。檀家さんのジャンルが一般とは違うように思えた。
 
そのなかに、ひとつ変わった単語で目を引いたものがあった。
「シロアリの碑」。
 
”シロアリよ、安らかに眠れ”と彫り込まれてあった。“害虫”退治の商品を出している会社だったように思う。へぇ・・と思いその内容をジルに伝えたところ、「それは(そんな風に供養をされていることは)いいね」と感嘆した答えが返ってきた。
 
実はジルは、ちょっとお釈迦様のようなところがあった。
虫をまったく殺さないのだ。
 
 
日本に帰国して最初に移り住んだ、杉並区にあった昭和の文化住宅レトロ可愛い間取りで居心地はよかったが、しばらくの間空き家になっていたこともあり、少しミシッと音を立てる部分が家中のいくつかにあった。そのせいなのか各所に何かしらの抜け道?でも出来ているのか、庭も広かったせいか。たまにだが、ゴキブリに出くわすこともあった。
 
そんなときもジルはまず、そっと紙コップを手に近づき、瞬間技でゴキブリを覆い、床なら床、壁なら壁とその紙コップの間に、カレンダーの裏紙のようなものをススっと
入れ込んでふたをする形を作り、そのまま裏庭もしくは玄関の外まで連れ出して放っていた。
 
まぁ、もちろんそうするだけでは、遠くないうちまたお客さんとしておいでになる可能性も高いのだろうが・・。
 
 
こんなこともあった。
 
ベルギーに住んでいた頃のとある夏。田舎のポツンとした一軒家を借り、短いバカンスを楽しんだ。とはいえ家を借りるだけ、食材持込の自炊形式。いつもよりも自然いっぱいの場所で過ごすというだけのシンプルな1週間。
窓の外には緑が生い茂る平原が続き、かなり遠くまで視界を遮る人工的なものが一切ないという、シンプルながらも息を飲む絶景が目の前に広がっていた。
 
その景色や静けさそのものはいいのだが、困ったことがひとつあった。
夜につい窓をあけっぱなしにしていると、たくさんのハエがいつの間にかリビングを占拠しているのだった。
私の印象に間違いがなければ、日本に比べて一般にヨーロッパ全体、ハエには寛容なところがあると思う。ハエ捕り網のようなグッズを使っている人を見たことがないし、なんのリアクションもしないか、おしゃべりしながら嫌な顔一つせず、さっと手で払うくらい。
特に夏にはテラスでご飯を食べたり、庭でバーベキューをすることも多いベルギー。そんなときも、ハエの数匹くらいはブンブンとその辺にいても、誰も何も気にしていない、という状況を何度も目の当たりにしてきた。(日本で見かけるものと違い、身体も小さめで黒。ギラギラしていないというのもあるかもしれないが。)
 
とはいえ、このときのハエの数は容赦なかった。
 
それでもジルはやはり、1匹もしくは数匹ずつ、手のひらでじゃんけんのグーのような形を素早く作って数匹ずつ摑んでは、窓の外へ出すという地道な作業を続けていた。
それを一体どのくらいの時間、見続けていたのだろうか。正確には覚えていないが、もうこれで大体良し、と数えるほどしかハエが居なくなるまで根気強くそのソフトなハンティングを続けていた。
私はただただ、子供と遊びながらなんとなく見守っていた。こんな根気のいる作業は、私には到底できないなと思いながら。
 
 
ジルの映画「残されし大地」が牛や犬、猫などの動物の命を大切に思った松村さんを主人公としていることから、映画のプロモーション時期に、とある動物保護の活動をしている女優さんに試写会で一緒に登壇していただいたことがある。
動物の命だって、人間の命とひとしく尊いんですよねというトークの中で、「じつはジルはゴキブリすら殺しませんでした」というエピソードを紹介すると、さすがにその方も「えっ。それはすごい」と驚いた顔をされたくらい。ちょっと引いていたかも。
動物好きでも、虫まではあまり。大半の人はそうかもしれない。
 
 
それにしても、人間よりも、動物の命が軽くて、動物の命よりも虫の命の方が軽い。
さらには、虫の中でも蝶やバッタの命よりも、ハエやゴキブリの命は軽い。そんな序列はそのままで本当にいいのかな・・。
 
そんな疑問がどうしても残ることから、まだジルの生前だったと思うが、一般に害虫でしかないと言われるゴキブリやシロアリが、どうしてこの世に存在をしているのかについてインターネットなどで調べたことがある。
 
(ここからは私なりの調査と“まとめ”なので少し正確さを欠いていたらご容赦いただきたいのが)そうすると、どちらももともとは森の住民だ。そして、どちらも森のお掃除屋さんなのだ。ゴキブリは動物のフンや死骸を。シロアリは倒木を。それぞれ、すっきりと片付けるために存在している。人間の居ないところで機能するように、ちゃんと役目があるのだった。
 
森がなくなり、住宅街だらけになっていく中で、ゴキブリにしてみれば暖かで食べ物がそこかしこに散らばっている場所(人間の家)に移動してきただけのこと。シロアリも、「あ、これ倒木ね。」と間違って木造建築の中に入り込んでしまい、一生懸命食べて無くそうとしているのだ。
 
結果として害虫と認定されてしまうのは仕方がないことでもあるが、なんだか虫たちや自然界の摂理からすると、不条理だし気の毒ではないだろうか。そんな気すらしてきた。
この調査結果?をジルに発表したかどうかはどうしても思い出せないのだが、今ごろ私の筆先ならぬパソコン先を見つめながら、天国で「うん、うん」とうなづいているに違いない。
 
 
映画「残されし大地」にも蜂や蝶などが出てくる。
生きているものも、すでに蜘蛛の巣に引っかかって息絶えているものも、きらきらとした光のもとに一様に美しいものとして描き出されている。
 
もちろん虫には好き嫌いがあっていいし、得意も苦手もあっていいと思う。でも、このすばらしいミクロワールドに、せめて敬意を払い続けることだけはしたいなと思う。
 
 
ところでジルは生前、日曜日になると家族でNHKの「ダーウィンが来たを見るのが大好きだった。
 
 
あの番組の中で、いろいろな生物が飛んだり跳ねたり、自分たちの方法で動き回っている姿を見ては、日本語の全てが分からなくても、ジルはいちいち「ビューティフル・・」と言っていた。
 
 
今も子供たちの大好きな番組のひとつ。
毎週録画は欠かさず、見逃しても追いつくようにしている。
 
日曜日の7時半、あのオープニングテーマが聞こえてくると、ジルの「ビューティフル・・」というつぶやきを思い出す。
 
そして私は、全ての命に対する敬意を、いつもよりちょっと多めに取り戻す。
 
 

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映画「残されし大地」より。お彼岸の御墓参りのシーンで、おはぎに寄ってきた蜂を捉えて。

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こちらも映画の中から。蜘蛛の巣はその目的はちょっと怖いけれども

光が当たると美しいマンダラみたいだ。

 

追記:

ダーウィンが来た!」の中でアリンコの特集を見たとき、本当に感動したことがひとつ。アリンコがよく拾得物を抱えてヨイショヨイショと必死に歩いていることがあるが、自分の体重比で考えたとき、この世で最も重いものを持てるのはアリなのだそう。いわば、この世で一番の力持ち。私たちにしてみれば、トラックを持ち上げて運んでいるような怪力を持っているのだ。すごい!
 

ジルとの不思議な旅 ② 好きな色はネイビー

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ある日の仕事現場で。モデルが来る前にダミーとしてカメラマンさんに撮ってもらっていた写真。

 

Vol. 2 好きな色はネイビー

 

突然のテロで夫を失くす。

想像だにしなかった出来事が振りかぶった直後、実は私は「今の仕事を続けるのは無理かもしれないな」と思った。なぜなら、私の世界が一瞬にしてモノクロームになってしまったからだ。

 

私は新卒以来、S出版社の会社員。

入社以来いくどか雑誌名が変わる異動はあったものの、一貫してファッション誌の編集をしている。テレビドラマなどで描かれる世界では随分と華やかで、ハードワークと皮肉が飛び交う職場のように描かれていることが多いが、あれはちょっと大げさ。実際はそんなにゴージャスに着飾らず、個性的だがおしなべて良識的な人が集まっている(?)職場だと思っている。

 

ただ、日々モデルさんや時にはタレントと呼ばれる方に実際にお会いし、言葉を交わすこともある現場。よく考えるとすごい場所にいるなぁ、と思うこともある。そしてそんな現場で連呼される言葉ナンバーワンは、女性誌の現場らしく、幾つになってもどの雑誌であっても、「可愛い〜!」である。

実際に“可愛い”アイテムを見た時。そしてそれが実際にまとわれた時の写真をチェックする時。地道な作業ももちろんある仕事だが、キラキラしたものを目にしたり、胸がワクワクしたりする瞬間は少なくない。

 

けれども、私の世界はあの時、一瞬でモノクロームになってしまった。

一気に夜の帳が下りた状態になってしまった。

 

こんな心の状態では色の違いも分からないだろう。ましてや無邪気に「可愛い!」なんて何かに向かって言える気持ちがまた湧いてくるのだろうか。

それにこうなってしまった私の経歴・・みんなだってもう、どう声をかけていいか分からず、扱いづらいのじゃないか。そんな風に思ってしまった。

 

 

だがとにかく、石にしがみついても「仕事だけは続けなくては」と思った。

 

というのも、私はすでにその時点で、随分と“放浪経歴”のある会社員となってしまっていたからだ。

2006年から1年と2ヶ月、「自己啓発休業」という会社の制度を使って、イギリスはロンドンへ遊学をした。そして2010年春から産休に入ってそのまま育休はベルギーで過ごすのだが、途中もう1人出産し、なんと復帰なしの連続での育休取得を許可してもらったため、会社に戻って着たのは2013年の秋だった。

すでに、合計で5年近くもの間会社を留守にしているちょっと“変わった人”なのだ。ここでまた理由が理由とはいえ、その“変わった”経歴をこじらせて「1年間休みます」と言うことはできない・・。そう思った。

 

そしてこのテロが起こった時点で、経済的に子供2人を養っていくには、とにかく働き続けるしかない、とも強く思った。

というのも、ジルはやはりどこか自由人で、生命保険なるものに未加入だった。勧めたこともあったが「そうやってすぐに人はセキュリティーを求めるんだから」と、一蹴されてしまっていた。そして彼には、映画の製作資金を少し貸していたくらいだから貯金もないと思っていた(しかしこれは、後からひょっこり出てきたりもしたのだが)。さらに当時は、ベルギー本国から何かしらの保障が出る見込みもない、と言われていた(これも後から少し覆るのだが。)

 

とにかく当時は、“ないない尽くし”じゃないかとおもった。こうなったらとにかく頑張って行かなければと。

 

 

ただ、前述のようなファッションの現場はもう無理なのではないかと思った。こんな経歴を持ったからには、何かハードボイルドな部署(なんてあるのか?)、もしくは社会問題と向き合う単行本を出す部署などに異動をさせてもらえたら、自他共にその方が良いのではないかと思ったりもした。

 

だがそんな時、尊敬するとある方から至極まっとうなアドバイスを頂く。

 

「会社は部署ごとに家族みたいになるけれども、いざ異動があるとそれも途切れたりするよね。特に日本の場合は部署が家族になることが多い。だから今の職場のままがいい。自分たちと同じように働き続けて、それなのに突然こんなことが起きてしまった、そんなあなたに思いを寄せてくれるのは今の職場。異動してしまったら、包み込んでもらえる雰囲気は逆にないと思うよ。今の場所の方が傷が癒えるのは早いと思う」と。

 

確かに、今までも何度か異動を経験してきたが、以前の居場所は、去る時ほど去りがたいものの、そのうちお互いに縁が薄くなっていき、気がつくと家族が入れ替わっているような現象が起こる。それは経験上知っていた。その言葉に何処かで納得し、私は異動の希望を出すこともなく、職場復帰をした。

 

 

ただ、確か1ヶ月近くは撮影現場には行かず、上司や同僚に代わってもらっていた。あの「可愛い」の嵐の中に飛び込める自信はまだなかったのだ。そしてそれを口に出したわけではなかったのに、それは暗黙の了解のように皆に分かってもらっていたようだ。

 

 

仕事の傍ら、ジルの残した映画を何とか世に出さなくては、と奔走していた部分もあるが、本業にもちゃんと向き合おうともがいているうちに。

 

不思議なことに、夜の帳がだんだんと薄らいでくることを知った。

 

その合図は「ネイビー」という色を着たくなったことだった。

 

「喪の色は黒」とはよく言ったもので、確かに絶望の淵にあるとき、その色は闇の色、黒だ。けれども少しだけ光が差してくると、それがネイビーという色に変わってくる。よく雑誌でも写真になった時に「これは黒ですか? ネイビーでしたか?」と紛らわしくて色校正のときに苦労することもあるくらい、隣同士にあるような色なのだが。

 

 

8月のNHKおはよう日本」での報道を契機として、10月の京都国際映画祭に夫の映画を携えて登壇することになった時。

たまたまその直前のある撮影で、スタイリストさんが集めてくれていた服に、「あ、これ着たい。」と思うものがあった。

シルク素材でボウタイのネイビーのブラウス。出過ぎてはいけない、でも暗くてもいけない。そんな自分の立場にはピッタリなような気がした。普段はこんなことを頼むことはないのだが、ブランドにお願いしてそのサンプルを映画祭用にも貸して頂いた。

 

その時はT.P.O.的にふさわしい色だから選んだ、と思っていたのだが、よくよく考えるとネイビーとは「黒に少しだけ光が差した色」。

 

心に少しずつ、光が差し込んでいたのだと思う。

 

 

そしてここから、私が素敵だと思う色は以前のようにどんどん増えていき、いつの間にか何もなかったように、現場で「可愛い!」を連発できる人間に戻っていた。

 

そして今となっては家の中で、10歳と9歳の娘と。あの頃よりもずっと趣味も審美眼も口数も増えた子供達と一緒になって、あらゆるものに対して「可愛い!」を連発している。ワクワクとともに生きている。

 

あのときそれしか選択肢がなかったとも言えるけれども、踏ん張ってここに居て、良かったと思う。

 

昔からネイビーには好感を持っていたけれども、夜の帳からの復活を示してくれたあの時以来、特に私の好きな色となった。

 

そういえばジルの好きな色でもあったな、ということを思い出す。

 

 

 

ジルとの不思議な旅 ➀ 王さまと私

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ベルギー国王夫妻とお子様たち。即位直後の2013年7月
Vol. 1 王さまと私
 
ジルとの出会いから映画「残されし大地」が日本でも公開されるようになったいきさつまで。それを「もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年」と題して2月11日から3月22日まで一気に書き上げたブログ・マラソン40日間のあと。
 
これをずっと読んでくれていた友人から、
「なんだか『ニルスの不思議な旅』か、『ハーレクインロマンス』みたいだったよ。ジルさんとの出会いを皮切りに、世界のいろいろな場所へとあっちこっち移動して、いろんな経験をして。だって、職場結婚してこうなって・・みたいな普通のストーリーと全然違うでしょ」 そう言われてハッとした。
 
そうか、『ニルスの不思議な旅』・・。あの首にひもをつけたままのガチョウの背に乗って旅するアニメ、詳細は覚えてないけど、大好きで毎週テレビの前で見ていたなぁ。
『ハーレクイン』のほうはあまりちゃんと読んだことはないが、ただ普通に川辺に佇んでいたら、お金持ちのジェットが降りたって、そこで運命の出会いをして彼に連れ去れれ、翻弄されていく・・みたいなことらしい。
ジルは別に富豪ではなかったので(笑)度重なる移動も我々の場合はすべてマンパワーだったし、普通に毎回ヘトヘトになったものだが、確かに、ジルとの出会いなくしては経験しなかった冒険譚がいろいろあるといえばそうなのだろう。
 
 
今年の3月22日、ベルギー・テロ発生からちょうど5年の節目に。
地下鉄や空港で、ベルギーの国王とお妃さまがそれぞれの現場に花を手向けてくださっているニュース画像を見たとき、私にはもう一つ思い出すことがあった。
 
そうだ。確かに、ニルスの不思議な旅かハーレクイン風なのかもしれない。
 
 
ジルの亡くなった2016年の10月、日本に来日したベルギー国王とお妃さまにお会いして、直接お茶をしながらソファに座ってお話をしたのだ。
 
ジルが亡くなった年は、これまた奇しくも日本とベルギーの国交150周年にあたる年だった。それを記念した両夫妻の来日に際して、だった。
 
ベルギーではすでに国王夫妻と犠牲者家族とがお会いできる場が設けられていたそうだが、私はその時点で日本在住だったので、現地ではお会いすることが叶わなかった。それが悔しくて、大使館を通してお手紙を渡していただき、なんとしても日本に来たらお会いできないかと交渉していた。
 
お会いできたら何があるというわけではない。それにただでさえお忙しいであろうスケジュールの中、一種のワガママかもしれないが、心から癒しを欲していたのだと思う。被災地に天皇陛下ご夫妻がいらっしゃると、一気に国民の気持ちが晴れ上がるのが理解できる気がした。お手間を取らせてごめんなさい。でも、どうしても会わせていただきたいのだと。
 
その念願が叶い、10月のある日、私たち家族と別のもうひとつの日本人家族、同じ地下鉄テロに巻き込まれて一時重体になったものの意識を取り戻した瀧田さんのご夫妻とが、ホテルニューオータニに招かれた。
 
瀧田さんの奥様からは事前に丁寧なメールをいただき、少し前にカフェでお会いしていた。瀧田さんご本人は黒い手袋をされていて、それを取って見せてくださると火傷の後が生々しかった。
 
私は当時、4歳と5歳の子供、そして家に手伝いに来てくれていた母を伴って行った。
 
この時の様子は、実は私の以前のブログにも記録されていて、今読んでみると、あぁこんなことを子供たちは言っていたのか! など感じ、やはり書いておくことは記録のために必要なことだなと思い知った。
 
 
↑ここには、優しい国王陛下が、子供達のためにクッキーやジュースのお代わりを指示してくれたことなどが書かれてあるが、実はもう一つエピソードがあった。
ソファに着くなり、次女が「おしっこ・・」と言うのだ。付き添ってくれていた私の母が慌てって「トイレね・・」と呟きながら場所を探そうとしたら、国王が立ち上がって案内してくれそうになった(笑)。それを慌ててSPの誰かが代わって連れて行ってくれたのだった。そんなこともあったくらい、国王陛下はお優しかった。
 
 
私が持参した黒縁のジルの写真に見入った、この時の国王の申し訳なさそうな眼差しは忘れられない。人間ぽいなと思った。そして一言、呟きにも似た調子で「実はこんなことがベルギーで起きたのが恥ずかしいんだ・・」と口にした。ニュースや演説では流れない、本音のような気がした。
 
母も感心していたが俳優のように背が高くハンサム。お妃さまのほうはバービーのようにかわいらしく、喋り方も上品で母は「美智子さまみたいね‘・・」と、自分の一番の憧れだった人になぞらえていた。
 
黒服の警備がずらりと並んでいた、両陛下のいる階上のスイートまでの廊下。そんなプレッシャーにも押されて、最後に記念写真をお願いすることを遠慮してしまったことだけが悔やまれるのだが。
 
 
でも生きているうちに、直接国王と呼ばれる人を遠くから見かけるのではなく、アポイントを取ってお会いして、お茶を頂きながらお話する機会を持つことなど、そうはないものだろう。この一件は確かに、ニルスの冒険譚の一部のように不思議なものだった。
 
 
ニルス、というキーワードをもとに、今回のことをまた改めて思い出した。
 
そして、ニルスが元々住んでいた農場に帰ったのと同じように、私も一連のことがまるで夢だったかのように日本に住み、以前と同じ職場にいる。こうした話を公表する機会がない限りは、最近の知人は私のことを「子供が2人いて働いているシングルマザー」という以上の想像は難しいと思う。
 
けれどもニルスが同じ環境に帰ってきたとしても、違う人間に生まれ変わるほどの成長をしたように。私も多分、元と同じ容量と中身の私ではなくなっているのは確かだ。
 
 
夢ではなかったあの日々。

そして小さな存在ながら私なりに、そこから世の中の真実を垣間見たり、掴み取ったような気分がした瞬間の数々。

 

それをこのタイトルシリーズ「ジルとの不思議な旅」(「ニルスの不思議な旅」を文字っています笑)と題して、しばらくまた綴れるだけ綴って行きたい。

(エピソードの時期によって、ジルは生きていたり、もう亡くなっていたりするだろうが)

 

 

 

 

もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㊵

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大好きな私のベルギーの家族。2017年の夏撮影。

 

Vol. 40  世界で一番、恵まれた嫁

 

ジルの命日である今日、3月22日。

私が一番、その心情を気がかりにするのがベルギーの家族だ。

 

ジルにはブイヨンに住む両親と、ブリュッセルナミュールに住む姉妹がいる。みんなが車で1〜2時間の範囲に住んでいるという、コンパクトなベルギーならではの地理的な条件もあるけれども、家族はしょっちゅう集まっていた。それぞれのパートナーも含めて。

クリスマスなどはもちろんだが、普段も誰かの家でホームパーティー、一緒にワイワイご飯を食べたりワインを飲んだり、ということがしばしばあった。

 

みんな誰かの人生に口を出すような野暮なことはしないが、連絡を密にとっていて、何かあるとそのたびチーム力を発揮して協力し合っていた。ベルギーに住んでいた当時、小さな子供のいる家庭は私のところだけだったが、預かってもらったり、可愛がってもらったりとそれはそれは助けてもらった。

 

こう言うと自慢にしか聞こえないかもしれないが、本当のこと。

私は世界一幸せな嫁なんじゃないかと思っていた。いや、今もそう思っている。

 

お舅さん、お姑さん、小姑・・そんな呼び名はいろいろあれど、ここでは伝統的な確執に悩まされることなど皆無だった。私が外国人であることや小さな子供がいることなどのハンディもあったのかもしれないが、常にみんなから優しくされた記憶しかない。嫌な思いをしたことなどは、一度もなかった。

むしろジルが一番私に手厳しい(?)ところがあり、「ジル以外、みんな優しいのにな〜」なんて勝手なことを思ったりしていたくらいだ。忌憚なくぶつかり合う夫婦だからそれは仕方がないのだが。

 

そもそも実家が「ホテルである」、その事実が”嫁”という立場をとても恵まれたものにしていた。

 

ジルの両親は30室足らずのホテルのオーナーであり、その一番上の階をマンションのように改造して住んでいた。職場と一体になっている住居、というわけだ。

それについてジルは「便利なようで、いつも何かあるとすぐ降りてこられてしまう。24時間、365日働くことになるから、そうしないほうがいいのに」と言っていた。けれども私が思うには、両親はシンプルに仕事が好きだったのではと思う。ただ、ワークライフバランスを気にするジルとしては、そこがずっと気にかかっていたようだ。

 

それはともかく、私たちにとって「実家へ帰る」=「ホテルの一室を滞提供してもらう」ということだった。

 

朝ご飯はホテル1階のビュッフェ。

昼ごはんはホテルのカフェ&レストランで自家製ハンバーガー、カルボナーラなど。食欲があるときは、メニューにあるベルギー名物の「ムール貝フリット」を頼むこともできた。昼からワインがついてくることも。

午後はちょっと喉が乾いたなと思ったら、シュエップス&トニックを頼んだり、気が向くとチェリービールを頼む時も。ビールについてはさすがにベルギーのレストランだけあって、ほぼ全種類のビールとそれに対応した専用のグラスがずらりとバーカウンターの後ろに並んでいた・・。この道が好きな人だったら、圧巻の光景だったと思う。

夜ご飯は専属シェフのコース・・。アルコールに詳しいお義父さんのお見立てでとっておきのシャンパンやワインが出てくる。でも料理上手のお義母さんがまだ健在なときは、お義母さんの手料理が一部出てくることもあった。

 

こう書くと、改めてなんだかすごい。

 

ジルの出張が長い時などには、何日もまるっと我々母子だけでお世話になることもあった。

日中は散歩に出かけて名物のアイスクリームを食べたり、スモワ川のペダロー(足漕ぎスワンなどのボート)で遊んだり・・。小さい子供がいればそうそう気は抜けないけれども、眠くなったら、タイミングを見て勝手に部屋で昼寝もできた。シャワーもお風呂も、専用だから好きな時に入れた。洗濯など何か頼みたいときは、すでに顔見知りで名前で呼び合う従業員のみんなにお願いできた。

 

ちょっと、ふざけてない!? そう言われそうな幸運な状況だ。

 

これが伝統的な日本の里帰りだったら、ましてや嫁だったら。お食事づくりをどう手伝うかと言う事、お風呂に入る順番なども、かなり気を遣うことになるだろう。ところがここにおいては、それが皆無なのである。こんなに制約なしでお客さん然としていていいのだろうかと、としばしば思った。

 

甘やかされすぎだろう。でも、いつもいつも、親切にしてもらった。その記憶しかない。

 

 

ジルが亡くなった年(2016年)の7月。改めて子供達を連れて行き、ジルのお墓参りをしたのを皮切りに、それ以降2017年、2018年、2019年と連続して夏には必ずベルギーに帰っている。

 

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ベルギーから日本に戻るときには、1年に1度しか会えない孫、もしくは姪っ子である

子供たちに、家族全員からおもちゃなどの贈り物があり、帰るときの荷物はパンパンになる。

 

というのもジルがいない今、それが以前にも増して本当に大事なのだ。

 

子供たちにとっての「私たちはベルギー人でもあるんだ」「家族がベルギーにいるんだ」と言う認識を、絶対に途絶えさせたくないからである。加えて家族にしても、ジルの面影がくっきりと残る娘たちの成長を見ることが、少しでもジルの不存在を埋めること、慰めにならないだろうか、と思っているから。

 

ところが残念ながら昨年の2020年はコロナ禍で渡欧が叶わなかった。1年空いただけでも「大きくなったね!」となるのに、このままでは今年もそれが叶わず、次に会えるときには3年くらい空いてしまうことになるのか・・。

よりによって、この”ジルが亡くなって5年”と言う節目にそれが叶わなかったのは本当に残念だ。

 

ただ、日本のLINEのようにあちらでポピュラーなWhatsupアプリを使い、家族の間で何かあると頻繁に写真や短いメッセージのやりとりをしている。ごく最近では、4月4日のイースターに向けて、たくさんのチョコレートとエッグ型のおもちゃ、鬼滅の刃フランス語版の4〜6巻が送られてきた。同時に私向け(!)に、大好きなチーズとワインを送ってきてくれた。

イースターは日本ではまだマイナーだが、もう一つ、12月になるとサン・ニコラという子供のためのお祭りがある(クリスマスの”サンタクロース話”の起源になったと言われている)。その時もたくさんのスペキュロース(生姜味のクッキー)やおもちゃを送ってきてくれる。

 

チーズやワインが入っていることに、子供達が甘やかしてもらっていると同時に、私もセットになっていつまでも甘やかしてもらっていることが表れている。

 

ジルはお姉さん二人、妹1人の中の黒一点。真ん中という位置もあってか、何か家族で話し合うべきことがあるとイニシアチブを取って、解決策を考えようとしていた。いつもアクティブな役回りを買って出ていたと思う。それだからこそ、ジルの喪失はこの家族にとって、とても大きなものだったと思う。それは計り知れない・・。

 

普段は冷静で、ジルが亡くなったときもつつがなくいろいろなことを推し進めてくれた家族だったが、あの年には「怒っている・・。すごく怒っているの。家族をdestroyして」と、ふとしたときにつぶやいていた。

私はというとジルが亡くなった時、あまりのことに怒りはすぐに湧いてこなかったのだが、初めて怒りを感じたのは、彼らの打ちひしがれた姿を目にしたときだった。

私の家族をこんなに傷つけた。ひどすぎる、と。ジルを取り戻すすべのない、取り返しのつかない家族の本音を通してやっと、私自身の中にも怒りらしい感情が湧いてきたのだった。

 

  

私にとってはたったの7年しか知り得なかったジルだけれども。

 

家族にとっては46年間、ずっとそばで見ていた頼りになるジルだったのだ。赤ん坊の時から、子供の時から、やんちゃな時代も。ずっと見てきていた立場からすると、時の重さが違うのではないかと思ってしまう。亡くなってからたった5年が経っただけで、知ったつもりでこうして動いている私は、張り切りすぎじゃないか。饒舌すぎやしないか。ジルの人生の長さに、ちゃんと見合った重さのある行動ではないのではと、心配になったりもする。

 

でも・・優しい家族は昨日のブログでアップした「追悼ビデオ」を喜んでくれた。ありがとう、と言ってくれた。「辛すぎて何度もは見られない」もしくは「とめどなく見てしまう」などの率直な言葉を寄せてくれた。

 

 

ジルは子供の頃から優しかったらしく、しばしばお義姉さんたちが語るこんなエピソードがある。ジルがオレンジを食べていたので「少しちょうだい!」と言ったら、はいどうぞ、と全部を渡してくれたということだ。ジルにはそういうところがあった。

 

私とは大人になってからの出会いでケンカも少なくはなかったけれども、いざという時は、物理的にも時間的にも、私にも家族や友達に対しても、決して何かをケチることのないのがジルだった。私が仕事で落ち込んでいるのを見て、「話を聞くから」とわざわざ通勤にそのまま寄り添って、途中駅のカフェでじっくりと話を聞いてくれたこともあった。

 

ジルが亡くなって、ひとつでもジルにとっていいことがあったとすれば・・おそらく物理的な制約なく、みんなのことを好きな時に見守っていられることだろう。魂だけになれば、瞬間移動も、同時にいくつかの場所に現れるのも、可能なのではないか。12時間もの時間をかけて、日本とヨーロッパの間を飛行機で飛ぶこともない。コロナ禍を気にすることもなく、いつでもその時々に応じて、必要な誰かのそばにいるはずだ。

せめてそう信じたい。

 

 

ジルが亡くなったのが現地時間で午前9:11。日本時間の午後5:11。

この時間をめがけて、今日は家族から続々とメッセージが届いた。

「あなたと子供達の事を考えているよ」という暖かいメッセージが。

 

いつも自分たちのことよりも、私たちのことを一番心配してくれる、優しい家族から。

 

 

最後にその「追悼ビデオ」にも挿入した姉妹3人からのメッセージをここに。

 

「この世界、そしてすべての文化に対してオープンだったジル。

正直で優しく、情熱的で寛大で、平和主義者でした。

いつも一生懸命で、愛していたのは自然、静かなひととき、みんなと楽しむパーティー・・そのどれも。好奇心が強く、ユーモアに溢れた人でした。

 家族全員・・二人の娘、妻。そして父、母、姉妹、姪。家族同然だった親友たちの元を。

彼は去ってしまいました。私たちの中に、計り知れない空白を残しながら。」

 

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2018年撮影。真ん中はホテルの3階にいたお義母さん。左はお義父さん。

私の娘たちとシルヴィーの娘、クララ(右)という3人の孫。

お義母さんは2019年の暮れに亡くなったけれども、そのお墓参りがまだできていない状態・・。

 

 

 

 

もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㊴

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2011年の夏ごろ。長女、ファーストシューズを履いて。

 

Vol.39  お彼岸と命日

 

毎年、このころになると奇妙な思いに駆られるのだった。

なぜならジルの命日は、3月22日。

そして、お彼岸はいつもの年なら3月21日と、日にちがほぼ重なるところ。死者が帰ってくる、ご先祖様をお迎えする日とイメージがまんま重なってしまうことに、不思議な思いを抱くのだ。

ところで今年は節分が2月2日だったのも珍しかったが、お彼岸も1日ずれて3月20日だったわけだ。それはそうと・・とにかく連なる、重なるのだ。

 

春分の日は、昼と夜の長さが同じになる日。そして、この日から少しずつ、昼の長さの方が長くなる。5年前にジルが亡くなった時も、唯一の救いとしてはしばらくはどんどん日の長さが長くなり、暖かさも増してくることだった。それが精神的に少しの慰めになっていたことは間違いない。

 

思えば昨年の3月もいきなり小学校が休校となり、4月に入ると緊急事態宣言で全ての社会活動が止まってしまったかのように感じられた。あの時も少しずつ日が長くなることで、家の中を充実させようと買い始めたグリーンが、成長期にもあたり、ベランダで子供達とご飯を食べることなどが、どんなに心を和ませてくれたことか。

 

 

明日で5年になってしまうなんて、本当に早いなと思う。

でもたったの5年、とも言える。

 

ジルは仕事柄、旅が多かったので、ベルギーの家族にして見ても「いま、どこかに行っているだけじゃないか」という感覚があるという。そして私にしても、やはり出張に行ったきり帰ってこなかったこと、そして最後の顔を拝していないこともあり「まだ日本に帰ってこないだけじゃないか」という感覚もある。

 

ある意味、皆に「本当はまだ亡くなっていないのじゃないか」というような、淡い淡い期待を感じさせてしまうような形で、ジルはみんなの前から姿を消した。今はただ、しばしの旅先が天国になってしまっただけなのではないかと、そんな気さえしてしまうのだ。

 

人間は皆、いつか亡くなってしまう。それはものすごい真実。

いつになるかわからないけれども、私も、そして考えたくもないけれども、私の娘たちもこの世からいなくなってしまう。現在よりも150年、200年前に生きていた人たちが誰もこの世に残っていないように。これを普段、ほとんど思い出さないのは何故だろう。

 

そう思えばある意味、ジルはあの世での”先輩”なのだ。

いつか、あの世にたどり着いたときに、”やっと会えたね! 先輩!”ときっと私は言うのだ。それはジルに限らず、私のおじいちゃんおばあちゃん、おじさんおばさん、お義母さん、そして同年代でも先に逝ってしまった何人かのお友達・・みんなが”先輩”なだけなのだ。

 

46年なんてあまりに短い生涯だけれども。

本人も周りの人間にとっても、悔いが残らないわけではないけれども、少し先に”あの世”を温めて待ってくれている。そう考えれば、心のどこかがどこかホッとするのだ。

 

あの世でまた会えた時に、「あの時、色々頑張ってくれてありがとうね、よくやったね」とジルに褒められたい。今もしもあの世から私の動きを見ていたら、細かいところではあれこれと「あー、こうしたらいいのに」とか、アドバイスしたいこともいっぱいあるだろう。何しろ、ジルよりも私はかなり雑で、面倒くさがりなタイプだから。

 

でも「よーし見てろ! 私だってど根性あるから。」と長女を産んだ時に、その一部始終をそばで見ていたジルが「玲子はすごい! こんなことをやってのけるなんて・・。本当に強い!」と言ってくれたあの特別な時のように。

ジルが亡くなった後、それこそ”火事場の馬鹿力”のようなもので、不器用で勇みすぎていたり、あまり効果をなさないようなことに力を注いだりと動き回っていた私を見続けて、総じては「玲子はよくがんばってくれた!」と言ってくれるんじゃないかと。自分を甘く見ながら期待している。

そしてきっと、こうなった以上は生前よりも点数は多めに付けてくれてるよね、と。

 

 

写真を整理していると、ジルと長女(1歳前後の時)のツーショットが多かったことに気づいた。(最初の子供の写真は多いと言うけれども。)

 

今日はそのギャラリーで締めくくりたい。

 

 

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ジルの実家の、ホテル内のレストランにて。

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旅の時はこうしたベビーキャリーを使っている人をヨーロッパではよく見かけた。

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2011年の冬、ジルの出張で一緒に行ったパリにて。

 

<映画「残されし大地」オンライン無料上映、22日まで>
日本版  https://vimeo.com/521260129     
ベルギー版(英語字幕付き) https://vimeo.com/519469354




 

 

もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㊳

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Vol. 38    追悼ビデオが完成しました

 

いよいよジルが亡くなってから5年になる節目、3月22日が近づいて来ました。

この日のために、追悼ビデオを作ってもらいました。

 

https://vimeo.com/526086387

 

音楽は、久石譲のSummer。

子供たちの音楽教室の発表会で、たまたま他の子供がマリンバで弾いていたのを耳にして、「すごくいい曲だね・・なんていう曲?」と聴き入っていたのでした。

ご存知、北野武監督の「菊次郎の夏」のテーマ曲です。全ての映画を観ている訳ではないけれども、ジブリ、キタノ、カンヌなどジルの好きだったキーワードと繋がる曲。好きだな、と思ったのは当然かもしれません。

 

動画作成をしてくれたのは私の高校時代の友人、Y君です。5年前に東京で高校の大同窓会があったときに、Y君が作ってくれる思い出ビデオなどがいつもセンスが良く、ジンとくるものがあり、今回も連絡を取りお願いしてみました。

私はほとんど素材を渡すだけだったのですが、とてもうまくまとめてくれて、大感謝です。

 

最初のパートは映画を盛り上げてくれた感謝のある出会いについて。そしてジルの生い立ち、私たち家族の思い出写真、最後には私が5年前に作った「残されし大地に陽はまた昇る」という詩を。

 

昨日、出来上がったこのビデオを娘二人と一緒に”試写”してみました。

最初は無邪気に「あ、私だ」「あ、誰々だ」という風に眺めていたのですが、ビデオの終盤で動くジルが出てくる頃には、気がつくと長女は顔をぐしゃぐしゃにして私に助けを求めて来ました。次女も、声がないまま頬から大きな涙を流していました。

パパの死について彼らの涙を見たのは、あのパパの死について知らせた日以来。5年ぶりです。

 

奇跡的なくらいに元気な二人で、いまはもう10歳と9歳。でも5歳と4歳の頃から、ずっと胸の中ではパパのことを忘れずにいたことを改めて感じて、嬉しさと悲しさでいっぱいになりました。改めて3人で抱き合って泣けたことに、改めて癒されました。

 

いよいよ映画のオンライン上映も22日までとなりますが、併せてこの追悼ビデオもご覧いただき、ジルというかけがえのない個性を持った人物のことを覚えていていただけると嬉しいです。

 

 

<オンライン無料上映、3月22日まで>
日本版  https://vimeo.com/521260129     
ベルギー版(英語字幕付き) https://vimeo.com/519469354
 

 

もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㊲

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2017年の夏、ベルギーはブイヨンにて。二匹のチワワを散歩する娘たち。

後方がおーちゃん、前方が甥っ子のタオ。

Vol. 37 犬のおーちゃん  〜後編〜

 

㊱のお話の続きです。

 

おーちゃんを預かるうちに、この小型犬の魅力にハマった義両親は・・「私たちもチワワが欲しい」と言い始めた。

そして「できれば、おーちゃんと血が繋がっているといいな」と。

これにはジルも仰天していた。



おーちゃんを元々くれた友人に聞いてみると、たまたま甥っ子にあたる仔犬が、ちょうど2011年の7月に生まれたタイミングだということだった。

その子の名前は、タオ。

ちょうど我々は2011年の12月に一時帰国する予定があったため、その時点で生後五ヶ月のタオを日本からピックアップし、両親に渡すことになった。

チワワの場合、小さいのでおとなしい子であれば座席にもそのまま連れて入れる(!)。タオはソフトバッグの中に入り、日本からの12時間もの長い機中、私の手もとにいた。
ずっとずっと、存在感を隠しているかのように静かだった。

トイレシーツをバッグの中に敷いていたにもかかわらず、緊張したのかずっと我慢していたようだ。成田を立ち、ブリュッセルに向かう途中の経由地、フランクフルトの空港に着いたとき、一瞬だけ空港内の通路に置くと、大量のおもらしをした。でもずっと元気で居てくれた。


無事にベルギーに着いたタオ。

広島に生まれ、東京で幼少期を過ごし、おーちゃんの後を追うようにベルギーの南部、ブイヨンまではるばるやってきて、無事に義両親の犬となった。

 

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右がおーちゃん、左がタオ。


おーちゃんは相変わらず基本的には私たちの犬ではあったのだが、やはり留守をするときに両親に預けることが続き、ジルの実家では、賑やかな”2匹体制”になることもしばしばだった。

 

ジルは「うちの一家が、チワワでこんなに盛り上がるなんてね・・。思っても見なかった新しい風、吹かせたね君は」と苦笑いをしていた。

 

まさにチワワ革命。


ジルのような若い男性どころか、落ち着いた風貌の老齢のビジネスマン(ジルのお父さん)が、2匹のチワワを連れ歩くことになるのだから。



しかしそのうち、難しい選択に迫られることになる。我々の2013年夏の本帰国だ。

 

おーちゃんをどうするかはとても迷ったのだが、今回はまず、ジルが出張中で私が娘二人(当時3歳と1歳)を単独で日本に連れ帰らなければならない。犬も一緒に、というのはかなりハードルが高かった。それでとりあえず、両親の家に預けたままとすることにした。


とりあえず、のつもりでいつかはまた迎えにいけたらと思ってはいた。

 

ジルが亡くなってからも毎年、夏にはベルギーに子供達を連れていっていたが、そのたび、おーちゃんはもちろん、タオも私を見るなり、大急ぎで駆け寄ってきていた。

こう言うと猫には失礼だし真偽のほどは確かではないが、一説には「猫は3年の恩を3日で忘れる。犬は3日の恩を3年忘れない」という。私を元祖・ご主人様とするおーちゃんはともかく、タオもまさに、それを地で行った。日本からベルギーへと大事に連れてきた私への、「3日の恩」をずっと忘れないでいてくれた。

おーちゃんのことは、離れてからも心の片隅にあった。

それでもやはり、子育ての一番大変な時期には、正直言って忘れてしまうこともあった。


だがそれでも大丈夫なくらい、おーちゃんはベルギーでタオともども大層可愛がられているのが分かっていたので、安心だったのもある。何せ、ローラン家に革命を起こしたくらいなのだから。


けれどもそのおーちゃん、ついに私の手元には戻らないまま、ベルギーで命を終えることになってしまった。2019年の5月、その日はふいにやってきた。11歳だった。お義父さんのメールに「病気が悪化して、ついに亡くなってしまった。僕の腕の中で静かに息を引き取った」とあり、しばし呆然としてしまった。


ジルがテロで亡くなってしまったとき、お義母さんはすでに施設に入っていた。お義父さんの日常のかけがえのないバディは、おーちゃんとタオのペアだった。そして、チワワ2匹どうしも仲良しで、おーちゃんだけを引き取ってしまっては、二匹にとってもショックになってしまうだろうなとも感じていた。


そんなことを考えて続けているうちに、「いつか」は2度とやってこなかった。

私のせいでやはり移動が激しく、波乱の一生を終わらせてしまったおーちゃん。


でも救いになるのは、今は天国ではジルと一緒だねということ。きっと彼が散歩してくれているだろう。天国ではなおのこと、男が大型犬を連れているべきだとか、女に小型犬が似合うなどのイメージも関係ないだろう。


"Mon gros !"と呼びかけられて、ニコニコと尻尾を振っているはずだ。
(フランス語では、可愛がっている対象に、小さいものならmon gros、大きいものへは逆にmon petit、と話しかける傾向があるような気がする)

 

そして、誰かや何かが亡くなった時は、さみしいけれども「あちら(天国)チーム」で楽しく再会を喜んでくれているかな、と思えることがひとつの救いになるように思う。

おーちゃんをものすごく可愛がってくれていたお義母さんも、実は一昨年の12月に亡くなった。けれども今、虹の向こうのチームは2人と1匹。そう考えたときに、心が少しホッとするのだ。

 

ところで同時に、こちらの世界では、ますます大きくなる娘たちが犬を飼いたいと言い始めてもいた。生まれた時からそばに犬がいた二人にとっては、刷り込み効果でそもそも犬は一番大好きな動物だ。

そもそも幼いころからもそうは言ってはいたのだが、おーちゃんのことも気にかかっていた私は、「じゃあ自分で散歩もできて、世話も自分たちで一通りできるようになったら考えようね」と、とりあえず保留にしていたのだ。

 

「何年生から?」

「4年生くらいかなー。」

「じゃあ、3年生のうちの、1月からっていうのはどう?」などと、長女はしばしば細かく交渉を挑んで来ていた(笑)。


そして2020年の2月ごろ。「犬が欲しい欲しいコール」は抑えがたく高まっていた。

 次の4月になれば長女は4年生、そして次女は3年生というタイミングでもあった。


でも、おーちゃんは許してくれるだろうか。私が最後にヨシヨシすることも叶わず、天国に行かせてしまったのに。

 


そんなある日、近所のバス停から不意に空を見上げた時、本当に不思議なくらいにおーちゃんの形をした大きな雲を見た。耳もあって、しっぽも見えて、ライオンみたいに寝そべる形。口元がニコニコと笑っている。

そのとき、「あ、おーちゃんがいいよと言っている・・」と直感的に思った。


その日のうちに、思い切って昔おーちゃんをくれた(そしてタオもくれた)友人に電話をすると、何とその2週間ほど前におーちゃんの妹の孫(ややこしいが、タオの甥っ子にも当たる)が二匹、生まれているではないか。

おーちゃんへの悔恨の念も包み隠さず伝えながら、その上で「ぜひください」とお願いをした。

  

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ソラの写真撮影は、もう私ではなくて娘たち専門だ。

自分たちのタブレットで日々、バシバシ撮っている。

 

生後二ヶ月余りが過ぎた頃、その子は我が家へやって来た。

4月はまだ緊急事態宣言中ではあったが、学校に行きたくても行けずにややもすると沈みがちだった子供達にとって、格好の慰めとなり、家の中が一気に賑やかになった。

 

長女が考えた名前、「ソラ(SOLA)」をつけた。
私が空を見上げた時に・・という話をしたのもあるが、ソラのお母さん(タオの妹にあたる)の名前は、「LA(ラー)」(太陽神の意味)だったのもあり、ちょうどいいということに。

 


おーちゃんの魂は、ソラの中にも入っているのだろうか。

それはわからないけれども、今、子供達にとって最愛の犬になっていることは間違いない。

もしかしたら生まれ変わりの形をとって、また私と私の家族を助けに来てくれたのかもしれないな、とも思う。

 

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2009年撮影 by Gilles おーちゃんと私。