故ジル・ローランを偲んで

A blog to remember Gilles Laurent, who died in Brussels Attack in the middle of making his film about Fukushima / this blog is organized by his wife Reiko Udo

もうすぐ10年。そしてもうすぐ5年。②

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2017年3月11日、渋谷にて。映画「残されし大地」の初公開日、

シアターフォーラムのそばのレストランで、高校の時の同級生たちがお祝いの会を催してくれた。この日は次女の5歳の誕生日でもあり、なんとそのお祝いも用意してくれていて感激だった。

 

Vol.2 悲しみよりも、感謝があれば

 

毎日ニュースを見ていて、なんて痛ましい事件・事故だろうと思うことは今もよくある。まさか自分がその”遺族”というものになるとはそれまでは考えたことがなかったけれども、それは我ながら想像を絶する経験ではあったと思うし、ニュースを見るたびに、当時の自分の衝撃をなぞらえる。

約5年前にもなろうとしているあの時は、身体が大きな大砲で撃ち抜かれたような感覚で、そのまま空洞になってしまったような大きな穴を抱えて、どうしていいかわからなかった。

 

けれども、そう思ったのは束の間。これまたおそらく、それに続く忘れられない経験となったのだが、その大きな穴に比例するように、もしくはそこから溢れ出してしまうくらいふんだんに、大きな大きな愛情が、形を変えたあらゆる愛情表現が洪水のように各方面から流れ込んできたことだった。

 

家に飛んできてくれた友達。会うなり無言でこれまでこんなハグしたことがない、というくらいの勢いで抱きしめあったジルの友達。私の顔をみるなりハラハラと涙を流してくれた同僚。そしてその後も、あらゆる場所に飛んできてくれた友人たちがいた。

 

私だけじゃなかった。私とつながる人たちは、見えない形で身体が地続きだったかのように一様に傷つき、一様に言葉を失った。

そしれそれらの人々から、様々な形をした愛が怒涛のようにすごいスピードで流れ込んできた。

 

・・毎日ひどいニュースを見ていると、被害者であるこの人たちは今後、どう立ち直っていけるのだろうと話されるのが世の常だ。そして、「こんなひどい加害者がいて、世の中はどうなってしまうのだろう」とも思ってしまいがちだ。

 

でも、私の経験からする最終的な感覚では、この世界は99.9パーセントの人が(数字は未確認です。あくまでも感覚的なもの)愛溢れる存在。普段はそこまで表現しなくても、何かあった時に、一気にそのバルブを緩めて他人に「何かできないか」という思いを向けることができる人々。

 

時々残り0.1パーセント弱の、何かに乗っ取られてしまったどうしようもない悪に衝撃的に引っ張られることがあったとしても、必ず多勢の愛の方がゆくゆくは勝っていってしまうのではないかな、ということを感じている。

 

亡くなった人など、失われたものそのものは戻ってこないけれども、あの時に感じた大波のような各方面からの愛情をもってして確信したことは、一方で私にとって決して忘れられない経験となった

 

だから、テレビで泣いている人たちにも、きっと同時にいろいろな場所から怒涛のような愛情が届いている・・ことを信じたいし、そうなのではないかなと確信をしているところもある。人間同士の自然治癒力の渡し合いで、早く元気を取り戻してくれたらなとその度に心から願う。

 

そんな確信を持てるようになったことは、この経験があったからこそで、自分の世界観を押し広げてくれることになったジルには、悲しみよりも感謝が強い。

そしてそれは、皆の暖かさがなければ到達しない考え方だったので、あのころ私の大きな穴に次々と愛情を注ぎ込んでくれた周囲の方達には、言葉に表せない感謝を感じている。

 

 

ジルには、心の中でしかもうありがとうは言えないけれども、あの時もこの時も、いろいろな形で私たちに愛を向けてくださった皆さんに、心からもう一度、ありがとうと言わせてください。お礼をしっかり言えていないままだったとしても、ひとつひとつ、忘れていることは決してないと誓えます。

 

時々、そのスピードは頼りにならないけれども。

「世界には、”善”へと自ずと向かっていく力がある」ことを、何よりも信じています。