故ジル・ローランを偲んで

A blog to remember Gilles Laurent, who died in Brussels Attack in the middle of making his film about Fukushima / this blog is organized by his wife Reiko Udo

もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ⑬

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2011年3月。長女の初めてのひな祭りはベルギーで迎えた。

これはどなたか日本人家庭のお家にあったものを拝させていただいたんだと思う。

Vol. 13   10年前のあの日、3月11日

 

⑫のお話のベルリンを経て、無事に2009年の10月にベルギー入りしたあとアパートも無事に見つかり、最初の冬を超え、年が明けた3月。

 

ついにあの日を迎えることになる。

 

ベルギーでは現在にも続く、とても良いママ友がたくさん出来た。幼児、または小学生くらいの子供がいる日本人ママの集まりがいくつかあり、それらの行事に参加させてもらい、ママどうし、子供どうしの楽しいひと時を数知れず過ごさせてもらったように思う。

 

日本語の絵本を集めた小さな文庫・・。ベルギーに数多ある公園を毎週のように巡って遊ばせる企画、そして日本にいないからこそ、日本での習慣を大事にするイベントも。ここでの交流があったからこそ、子育ての最初の段階でつまずかずに済んだし、ホームシックにも全くならずに過ごせたのではないかと思うほど、感謝でいっぱいだ。

 

特に同じ保育園、幼稚園、地域・・という属性はないわけで、共通項は「ママ日本人、そして子供がいます」ということだけ。なので自由に交流できる。それでいて異国の地で頑張る身どうしとして、なんとなく絆も強い、という素敵なコミュニティーだった。

 

そして10年前の3月11日。

そのコミュニティーで、ちょっと遅れた「ひな祭り」イベントが開催されていた。

 

みんなで集まってちらし寿司を食べようというものなのだが、「1人一つ、なんでもいいのでちらし寿司の”具材”を持ってくる」ということだった。不思議なことに、結果として具材はそれほど被らず、皆がバイキング的にピックアップすることで、最終的に見た目鮮やかなちらし寿司が出来るのだった。

 

この時集まったのがベルギー時間の昼の12時ごろだったと思う。日本とベルギーは8時間の時差がある(サマータイムでは7時間だが、この時は冬期時間)ので、日本ではもう午後8時くらいになっていたことになるか。

 

実は、出かける直前にジルが「日本で地震があったらしいよ」と声をかけて来た。けれどもその時点では、東京在住歴20年以上だった私は、地震に免疫を持ちすぎていた。「そうなの・・? こっちでもニュースになるくらいだから、ちょっと大きいのかな? 帰って来てからまた教えてね」と言って、娘と一緒に家を出た。

 

この集まりでも、その地震の話題は何度か出て来た。「海のほうだったみたいよ・・」と誰かが言っていたが、まさかその「海のほう」ということが要因となり、いつもとは違う甚大な被害がもたらされていたことを、この時は知るよしもなかった。誰もあれほどのことは想像していなかった。

 

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9ヶ月の長女。この日彼女が、”黄色い服を着ていた”ということだけはなぜかとてもよく覚えている。何もない日であれば、そのうち忘れてしまったかも知れないけれども、後で知ったとはいえ、この日は振り返ると”特別すぎる日”になり、忘れられない日付になったからかも知れない。

 

ところでベルギーにはほとんど地震がないらしい。ジルによると、生まれてから1度だけ、それらしいものを体験したことがあるという。南国に雪が降るのと同じくらい、レアな現象なのだ。

 

「ひな祭り」の会場から家に帰ってきたところ、ジルがちょっといつもと違う様子で、私に声をかけてきた。「さっきラジオで言っててたんだけど・・。ちょっとこっち来て。」手招きされてキッチンにあったラジオにともに耳を済ますと、日本でのその地震で1000人以上の犠牲者が出ている模様だという。(おそらく日本時間では、11日から12日に日付が移ろうとしていたタイミングくらいだと思う。)

 

1000人・・・!! 後からすればこれはまだ最初の段階であり、これどころではない被害になっていくわけだが、この時点ですら「こんな話、聞いたことがない!!!」と叫んで、瞬間的に思わず涙がボロボロとこぼれ落ちて身体が崩れていったのを覚えている。

 

その後はすぐに家族や友人、同僚を中心に連絡を試みて、情報収集のためにインターネットやテレビの情報に釘付けになった。日に日に悪くなる被害情報に絶句するとともに、そこから遠く離れたベルギーという場所に居ることに、違和感を覚えた。自分がいる場所と、みんながいる場所が、頭の中で混じってしまうような妙な感覚がしばらく続いていた。

 

逆に海外メディアの方が早い情報もいくつかあった。

特に原子力発電所の爆発については、その映像を把握して私に最初にリポートして来たのはジルだった。「これはおおごとになるかもしれないよ。」と。

また、本当は映してはならないものだったのではないかと思うのだが・・。こちらのテレビではほんの一瞬だったが、体育館のような場所に数多くの遺体が何かに包まれて整然と並ぶシーンも映し出された。

 

あとで尋ねてみれば、誰もにこの当日、自身の「ストーリー」がある。私の場合は特に東京の知り合いが多いのだが、仕事場で、運転中に、家にいて・・。多くの人が大きな恐怖を感じ、何らかのいつにないイレギュラーな行動を余儀なくされていた。その後も大規模な節電などで苦労をしている。

 

けれども外国に居た私は、この日の”大きな揺れ”を共有していない。

 

これはいささか衝撃を受けたセリフだが、その後友人に「あの日に東京に居なかったなんて。握力が強い・・。」と言われたことがある。災害に遭わなかったから幸運、というものだろうか。むしろ私は、その”大きな揺れ”を共有しなかったことに申し訳ない気持ちや、そして体験していないことに後ろめたさを感じてもいた。何れにしても、それらも変な感情だなと思う。

 

しかし私は、その”大きな揺れ”を随分後になって、違う形で共有をすることになるのだ。

 

詳しい話はまた後に送るものの、2年半後に日本に帰って来て、ジルが3.11をモチーフにしたドキュメンタリー映画を作ることになった。そしてその編集仕上げのために一時帰国して居たベルギーで、たまたま乗った電車で、たまたま犯人と同じ車両に乗り込み、テロにあって一瞬で亡くなってしまったのだから。

 

人生に「もしも」はないけれども、3.11がなければ、ジルは亡くなっていないことになる。

もっと遡るならば、9.11がなければその後の世界のテロリズムの行方も変わっていたと考えると。その時は影響が限定的だと思っていた事が、あとで思わぬ巡り方をするのだと思う。だからすべてのことは繋がっていて、世界のあらゆるニュースに自分が無関係なことなど、ないのではないかなと思っている。

 

それでも何かの予防線を張りながら生きることはできないし、私たちは日々を精一杯過ごしていくしかない。明日、その時、何が起こるか分からないけれども、お正月、節分やひな祭りなど、形は変わっても命のお祭りを毎年続けていく。

 

もうすぐあの日から10年。

 

こうして私は思い出の写真をあらゆるところから引っ張り出して記憶を紡ぐことができるけれども、あの10年前の3月11日。自分以外の多くの家族を亡くし、そしてその家族の思い出を大事にしたくとも、家もろともアルバムも携帯電話もすべて流されてしまった方々も、大勢いる。自分だけに起きた災害ではなかったから、注目も思いやりも、それほど届かなかったかもしれない方々が、大勢いるのではないかと思っている。

 

一緒に頑張りましょうなんて、なかなか言えない。けれども自分がおかれた立場から、それがどこまで辛いことになるのだろうか、という”想像”だけはできる。

 

10年という区切りはひとつの区切りでしかないけれども、「これからもずっと忘れない」という誓いを改めて強くするために、その日を迎えたい。