もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ⑯
Vol. 16 メキシコ編 その3
2011年の夏。当時、ベルギーに住んでいたこと自体が私自身にとってすでに”旅”。そしてそのさなかに、メキシコという異国へ家族共々やって来たのが、”旅のなかの旅”。それでもアウェイ感は十分なのだが、またまたそこからメキシコ国内を、飛行機に乗って一箇所だけひとり旅することになった。まさにそれは、”旅の中の旅の中の旅”だった。
そのせいか、今でもよく覚えているにも関わらず、身近な誰とも共有していない、私の頭の中で”入れ子状態”になっている記憶だ。
それはオアハカ。2泊3日の旅。
いま、位置関係を調べようとして改めて検索をしていたら、アニメ映画「リメンバー・ミー」の舞台でもある、と書かれていた。そんな・・。なんだか切なさが増してくる。繰り返しになるが、映画「リメンバー・ミー」の主人公は亡霊。芸術家だったパパが、出先で不意に殺されてしまって、残された妻や娘と2度と会えなくなってしまい、その後彼らに会いたい気持ちを抱えたまま、黄泉の国から形を変えて子孫を守ろうとする話だ。そんなストーリーと個人的にリンクしてしまうとは、この時は思いもしなかった。
なぜここへ一人旅をしたかというと、それはひとえにジルの計らい。せっかくメキシコに来たのに、同じ場所にずっといたんではつまらないんじゃないかと、ある日の一言。「なんとかやりくりするから、ひとりでどこかに行って見てもいいんだよ。」と。メキシコはその地域によって全く表情が違うということは持参したガイドブックなどでもしげしげ眺めて知っていたので、確かに興味津々ではあった。ジルはそんなメキシコの多面性を(おそらく若い時の旅などで)知っていたので、お勧めしたかったのもあると思う。
その後もこのことに限らずだけれども、もっとこうしていいんだよ、もっとこうしてみたいと思わないの?などと、色々と生活の幅を広げるための、ある意味で”欲張りな”サジェスチョンをしてくれる人だった。普通なら「でも・・(今回の場合なら、小さい子もいるし置いていけないし)」で終わってしまうところを、「いやいや、何とかなるから」と言って、何とか「アレンジ」もしくは「マネージ」してしまうのだった。その手法は時に強引なところもあったけれども、決して無謀でもなく現実的な解決策があった。
幸い常駐していたクエルナバカ近郊の邸宅には、お手伝いファミリーがそばにいてくれた。ついでにと言っては何だが、そのお家にも小さな子供がいることから、まるっと長女を預けてしまってもいいのではないかと。この旅の最中、日中はそちらで面倒を見てもらうことにした。夜はジルがお迎えに行ってくれたのだと思う。それにしても、そのこと自体も私にとっては冒険だった。なにせ、子供が生まれてから、実質的に”離れた”ことがなかったのだから。抱っこ紐もベビーカーもない状態に、とてもソワソワして不思議な感覚になったのを覚えている。
さて、そのオアハカ。なぜジルがここを提案したのか、ジルからの明確な推薦の辞の方は忘れてしまったが、当時Facebookを通して昔アメリカに住んでいた日本の知人に伝えたところ、「それは良いチョイス。オアハカは、メキシコ初心者にはとっても良いところなのよ。」と言われたことは覚えている。
それはなぜかというと、日本人が思う「メキシコっぽいカラフルさ」「可愛い服と小物」がたくさんあるからだ。伝統衣装然り。オアハカの街中にも雑多な屋台から、ちょっと洗練されたセレクトショップまでその幅はいろいろなのだが、どこでも何かしらの”これ欲しい!”を見つけることができた。バスに乗って、郊外のマーケットにも足を伸ばしたのを覚えている。
また、ちょっとおしゃれなカフェやレストランも見つけることは難しくなかった。”メキシコで食べたもの”の詳細な写真があまり残っていないなぁ、と思っていたのだが、このオアハカ編ではいくつか残っていた。
今回、いろいろと写真を発掘していると、出所不明の”可愛い”写真もいくつか・・。おそらく、泊まっていた宿に飾っていたものか、セレクトショップの店先にあったものなどだと思う。
しかし、この旅で私にとって一番印象的だったこと。それは、着いてみたらホテル代をジルがすでに払ってくれていたこと。私が本を見てリクエストした宿を代わりに予約してくれていたのだが、なんと支払いも済ませてくれていた。後で聞いたら、具体的なセリフは覚えていないのだが、「いつもお疲れ様」「(メキシコまで)ついて来てくれた労い」「たまには息抜き、ご褒美」のような気持ちがあったようなことをさらっと言っていたような・・。記憶が美化されていなければなのだけど(笑)。このとき私は一時的に専業主婦だったので、そんな計らいは有難かった。
そうして私はここで”可愛い”と”美味しい”を楽しんでもいたわけだが、決してそれはウキウキばかりの旅でもなかった。クエルナバカの邸宅や、そのほかのお家の様子を見てもそうなのだが、ここは明確ではないものの、過去を踏まえた上での”階級社会”のようなもの。現地の人がお手伝いをする立場にあって、いわゆる西洋系の住民はそれを雇用する立場にあるということが、どこへ行っても透けて見えてしまったことは忘れられない。
そして、各地に残る過去の帝国時代の遺跡を訪れると、どうしてここが滅びなければならなかったかなどの顛末を想像するだけでも、「それで良かったのだろうか」という複雑な気持ちがになる。そしてそれが、その場を去った後でも、ポツンと取り残されたように存在する。どんなに美しく偉大なものでも、それより強大なものに駆逐されてしまうという歴史が繰り返した時期があることを、遺跡は別の側面から語りかけてきてしまう。時に素直に楽しめなくなる私は、純粋なエキピュリアンではないのかもしれない。
オアハカの街でも、数多くの貧困を目にした。この写真のモンテ・アルバン遺跡に向かうバスの窓からも、トタン屋根の集落をいくつも目にした。そして賑やかな街には常に、そこかしこに訳ありの人たちが腰をおろしていた。コインを入れる箱を置いてじっと施しを待つ、破れたサンダルの無表情な小さな女の子もいたし、一応”働いている”ということになるのかもしれないが、ガムやキャンディーを山のように背中にしょって、移動ショップをやっている親子はそこかしこに居た。
一度買ったものの、お腹いっぱいになってしまったために、持て余していたハンバーガーをそれらの親子に差し出したことがある。でも私の行動に驚くというよりは、「あ、はいはい」という感じで、ニヤッとした軽い笑みだけをくれて受け取った母親。それは感謝が足りないなどというものではなく、そうしたやりとりが想定内なのだ。
ところで私にはずっと寄付をし続けている、世界の貧困地域のこどもとそのコミュニティーの向上を図る団体がある。この時目にした光景がとても気になり、メキシコへの支援ってどうなっているんだろう、と調べてみた。そうすると驚いたことに、メキシコは支援地図に含まれていなかった・・。それはきっと、街全体として見たときは、インフラも整い文化的にも整備されている国だからなのか。支援の対象は、国もしくは村そのもの全体が目に見えて”まだまだ”に見える場合ではないと、届かないのだなと知った。
当時はそれほどではなかったけれども、もしかしたら、最近になって日本でも叫ばれるようになった貧困の問題も、近い構造を持っているのかもしれないなと思う。メキシコ以上に、俯瞰で見たときに、貧困が見えにくいのだ。とはいえもう、あれから10年だ。私が見た光景は今もあまり変わらないのだろうか。それとも私がどこか心を残した立場の人々は、減っているのだろうか。
独特の歴史と文化を持つメキシコ。生と死についての観念がユーモラスで色彩豊かなのも、その複雑な歴史によるところもあるのかな、などと思った。いまだに前時代から変わらない社会構造も引きずりつつ・・それでいて、どこか良い意味での鈍感さと、強さを持っている人たちに出会った。
ジルはメキシコの舗装されていない道路でさえ好きだった。ところどころボコボコと意味不明に陥没している場所があるのだ! でも、このくらい大丈夫でしょと問題にしない人が多い場所。
それにしても、ジルのおかげで自分1人ではずっと行くこともなかったかもしれない場所を旅し、心の窓が広く開いていったように思う。
改めてありがとうと言いたい。