もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ⑰
Vol. 17 ボーナスがやって来た
実はメキシコに行く直前、分かっていたことがひとつあった。それは第二子がお腹の中に宿っていたこと。メキシコに飛んだ時は、実は妊娠2ヶ月くらいであった。
第一子の妊娠が分かった時は慎重に慎重を期して、予定していた海外出張もキャンセルさせてもらったというのに・・。本当にごめんなさい。なんだか肝が座るというと聞こえはいいけれども、2回目には「大丈夫なのではないか」という気持ちの方が強くなる。もちろん、メキシコに行く前にベルギーでかかりつけとなる病院と助産師さんを決め、よく相談はして行ったのだけれども。
無事にメキシコから帰って来てからすぐ、今度はジルと一緒に病院へ行き、それから毎月のように検査に通う日々が始まる。今回もいくつか難問が降りかかった来たけれども、とにかく”甲斐甲斐しい”タイプのジルは、それをともに乗り越えて行ってくれたことを思い出す。
特に印象的だったことのひとつ目は、胃を決して受けた羊水検査について。出産予定日の私の年齢は42歳。第一子の時もすでに40代に突入していたけれども、さらにいろいろな可能性について考えざるを得なかった。検査は時に流産を誘発してしまうこともあるので慎重を期するのだが、2人でよく考えた上で、結果がどうあれ、今後の準備になるのだからと受けることにした。
ただ、この検査の後は1〜2日、私は絶対に家で安静にしなければならない。ただ寝ていなければいけないのは、ラクなところもあるが退屈なもの。この間、長女の面倒を見ながら炊事もし、そして私の枕元にどっさりと雑誌を買って来てくれた(笑)。私はもちろん仕事柄、もともと雑誌が大好きなので(匂いや手触りも好き。ましてや洋雑誌だと、ちょっと違うのがたまらない)それはそれは嬉しかったな。
そしてもうひとつ印象に残っているのが、私が”妊娠糖尿病”であると判断された時のジルの協力。もともと妊娠しているのだから、アルコールはダメ。(はい、現地で豊富なベルギービールもフランスワインもダメです) そこへ加えて、甘いものと白っぽい炭水化物もダメとなってしまったのだ!(はい、現地で有名なチョコレートもダメ。クロワッサンもNGです!) これはかなりがっかりしてしまったが、ここは頑張りどころ。私が気を緩めてしまえば、お腹の子が生まれながらにして糖尿病になって生まれて来てしまうのだ。
食べるおやつがない・・となった私のために、ジルはヨーグルトを手作りしてくれた。ナッツやチーズもたくさん用意してくれた。(それらはOKなんです) しかしある日の失敗。うっかり「野菜ならいいんだよね」とベルギー名物のじゃがいもでマッシュドポテトをたっぷり作ってくれたのはいいのだが、それを食べた後の私の血糖値は急上昇。「炭水化物だった! これはダメだったよね、そうだよね〜〜」などとと、一緒に一喜一憂してくれていた。
無事出産をした翌日には、お互いにとって開放感が待っていた。ジルはベルギーで人気のオーガニック・カフェ、ル・パン・コティディアンのクロワッサンをどっさりと買い、カゴに盛り持って来てくれた。
次女の顔を見て、2人で大きくうなずきながら同意したのは、「この子はボーナスだよね!!」ということ。40歳で不意に親になれたことに奇跡を感じ、その幸運を噛み締めていたわけれだけれども、まさかもう1人に恵まれるなんて。しかもなんか可愛いぞ。まさかのまさかだった。だから、本当にボーナスなのだ。
そんなこんなで生まれて来た次女だが、長女の時と同じように、ジルは生まれてくる瞬間には病室に付き添ってすべてのプロセスを見ている。私自身は決して見ることのできない光景だけれども、その時のこの世への誕生の瞬間のすごさを、後で本人たちに語って聞かせてあげられるのはジルだけだったのに・・と思うと、それはとても残念に思う。
さて、彼女がボーナスだったもう一つの理由は、とにかく機嫌のよいん坊だったこと。
それはお腹の中にいた時からそうだったのだが、同じ親から生まれて来たのに、違いがあって面白いものだなぁと。長女の場合、私のお腹をよくエイエイっと元気よく蹴り上げており、その動きは常に直線的だった。ある朝ジルが、「昨晩、赤ちゃんがお腹の中で1人でダンスパーティーしていたよ」と言ったくらい。(私は熟睡しているのに、お腹だけがボコボコ動いているなんて・・まさにエイリアン状態。想像するとちょっと怖いなぁ。)
しかし次女の場合は、お腹の中でもふわっ、ヌメッとした柔らかな動きしかしていなかった。お腹を蹴るというよりは、お腹の内側を、スーッと柔らかく撫でているような。
そうしたら、2人とも出て来た後のその後の動きも、そのままだった。そして性格も、そのような動きに即したものだった。同じ親から生まれて来たのに、不思議なものだ。
こうしてこの一家は父、母、娘、そしてボーナス娘、の4人家族となった。
今思うと、本当に私の場合はだけれども、娘が2人居て良かった。ジルが亡きあと、3人チームだったのがよかった。誰かがくじけていても、怒っていても、なんとなく後の2人がフォローに回るなり、客観的に引く1人が居たりと、シーンに融通が効くようなところがある。
ジルが亡くなってからしばらくは、何かを思い出して、ジワーッと泣いてしまったこともあったが、そんな時も2人で私をニヤニヤと見ていた。私の方も、ジルが居なくてさみしい?などと質問をすることがあっても、それぞれの感じ方や表現が違うので、なるほど、とその”違い”に救われたりする。そこにハマりきらないで済むところがある。
2人だと「コンビ」だが、3人だと「チーム」になるのだ。人が集う時、2人でいることと3人以上でいることの意味の違いは、それなりにあるのだなと思う。
言うまでもないことだけれども、ジルへの最大の感謝は、私に2人を残してくれたことだ。ただ、今でも本当に思わぬ時に、涙がブワッと溢れて来そうになることがある。それは街中で、妊娠してお腹の大きな女性を見たり、小さい子供2人を連れた夫婦などとお喋りをする時。あの頃、必死に小さい子供たちの世話に一生懸命だったころ・・試行錯誤しながらもジルと行動していたころの記憶が、その場に被さるように降りて来てしまうからだ。
「可愛いですね」とか「楽しみですね〜」とか言いながら、すでに涙ぐんでいる、変な”通りかかりのオバチャン”になってしまっている時がある。
今ではもう子供達が小学生で、学校への往復含め、個人として自立できている部分も多くなった。昔以上に私も含めて(?)この集団はかしましい”ガールズ”の様相を呈しているが、ジルが生きていた頃は、常に常に、見ていなければならない小さな2人だったんだ。
でも考えてみると、逆を言えば、一番大変な時まではジルは居てくれたのだとも言える。人の寿命はどうなっているかわらかないものだけれども、「ギリギリまで踏ん張って生きてくれていた」とも言えるのだ。
本当にありがとう。