故ジル・ローランを偲んで

A blog to remember Gilles Laurent, who died in Brussels Attack in the middle of making his film about Fukushima / this blog is organized by his wife Reiko Udo

もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ⑳

f:id:Gillesfilm:20210302203237j:plain

日本式ママチャリで、日本式パパ! 保育園の送りとお迎えと・・何度も頑張りました。

ところでこの自転車、ヨーロッパでは見ない。(みんな車で送ったりするのが一般的なのかな)

 

Vol. 20  ジルの主夫生活  in Japan

 

さて、時系列の話にまた戻ります。お話としては⑱の後です。

 

2013年の夏の終わり。いよいよ私の前代未聞に長い長〜い育児休暇も期限切れを迎え、家族で日本へ戻ってきた。子ども2人分で合計3年半もの間、会社を留守にしてしまっていた。

 

最初はそこまで長くなるつもりなかったものの、第一子の育休中に第二子の妊娠がわかり、本来ならその二つの育児休業の間に、3ヶ月は復帰していなければならない時期が(制度的には)あったのだが・・あまりにも短い出社期間になってしまうため・・そして海外にいたこともあり、例外的に”連続取得”を許してもらっていたのだった。(当時の関係者の方々、ご迷惑をおかけしました、すみません・・。)

 

私の育休明けは2013年の9月10日くらいだったと思う。

その日を目指して、まずは8月末に私と娘たちだけで日本に戻ってきた。というのも、ジルは前回のブログで書いた、世界各地に出張する映画撮影のまだ真っ最中だったからだ。そしてジルが日本へ合流できるのは、なんと11月の予定だった。

 

ジルの到着を待つまでのブランク、3ヶ月近くをどうやって切り抜けたかというと・・。

 

まず私はKLMオランダ航空でベルギー→アムステルダム→福岡へ。(この時はまだ、オランダと福岡の直行便があった。) 実家のある福岡県北九州市に入り、当時すでに70歳代だった高齢の両親2人に、なんと当時3歳と1歳の娘両方を預けてひとり上京した。

両親には先に2人の幼稚園と保育園を探しておいてもらったので、彼らは私の育った実家で、数ヶ月を過ごすことになる。そして私は、1〜2週間おきの週末に飛行機で実家に帰り、子供達に会う、という計画だった。

 

両親の家で10日間ほど過ごしたあと、私はひとり上京し復職。友人宅に間借りさせてもらいながら、東京での我々の新しい住まい選定と、仕事に慣れてゆく手はずを整えた。

 

いつものことでもあるが、今思い返してみると、なんやかんやの手段を考え・・周囲の手をアクロバット的に借りながら、移動に次ぐ移動をしていく私たち家族の、これまた象徴的なハードな3ヶ月だったなと思う。

 

すべては順調、のはずだった。

澄んだ青空が美しかったある秋晴れの日。幸先がいいな、と思っていた。久しぶりに東京へ帰ってきた私は、羽田空港から乗ったリムジンバスから見えるレインボーブリッジを始めとする東京湾岸の近未来的な光景に思わずときめき、「よっしゃ! これからまた東京ライフ、頑張るぞ!」と意を新たにしていた。

 

ところがその同じ日。

東京で待ち合わせた友人とお茶をした後、様子伺いに実家に電話をかけた時。ひどく遠い場所にいる長女の声を電話越しに聞いた途端、泣きそうになってしまった。両親のところにいるのだからなんの心配もないのだが、電話越しに聞こえてくる、笑みと寂しさとをミックスしたようなポツポツとしたその声に、こみ上げてくるものがあった。

考えてみると、それまで子どもたちと物理的に約1,000キロも離れたことがなかったのだ。手ぶらになって大きく不安になったのは私の方だった。

 

そしていざ、久しぶりの出社。復帰してすぐはまだ担当として与えられる仕事も多くなく、数日はなんということなく過ごしたのだが、きっかけなしに、やはり大きな不安が押し寄せてきた。それは今後の仕事に対する不安ではなく、恐らく長いこと住んでいた場所を離れてしまった後の、”逆ホームシック”のような状態なのだった。

 

おそらく、しばらく幼児とのみ一緒に過ごすことで、自分の一部も”幼児がえり”してしまっていたのではないかと、今になっては思う。子どもそのものや、子どもと一緒に牧歌的に過ごした場所のことが、まとめて恋しくなってしまうのだ。

戻りたい!などと、明確に思うのではない。けれども接着していたものから剥がされたときの自然な痛みのようなもの。実際は何も心配はいらないと分かっているのに。その理性を超えた”本能的なもの”が、知らず知らずのうちに、再び私の中に育まれてしまっていたのかもしれない。

 

そして、会社に復帰してまだ1週間経つか経たないかぐらいの頃だったと思う。

私が電話をしたのか、たまたまジルからかかってきたのか忘れたが、勤務の休憩中に、当時まだ海外にいるジルと話したことがある。その時、この自分の複雑な感情を、涙声で切々と訴えた。人目に付きにくい喫茶コーナーの片隅に移動しながら。

 

ただ、この時のジルがとても優しく語ってくれたのを覚えている。明確には覚えていないのだが、「でも日本でもまた、将来に向かって新たに得られるものがあるのかもしれないんだよ。」とか何とか、そんなことを言ってくれたような気がする。

あとでこのことを自分の母に話したところ、「ジルさん、やっぱり立派な人ねぇ。」と言われたのは覚えているので、きっと何か、私を安心させるに足るひと言を言ってくれたのだろう。

 

 

さて、そして11月には無事に家族4人がまた勢ぞろいすることになるのだが・・

この時から、ジルは基本的に”主夫生活”に入ることになる。

 

日本に来てしまうと、言葉の問題もある上に人脈もなく、今までの映画仲間からの依頼を受けるのは難しい。さらには私がフルタイム勤務だ。ベルギーにいた時とはやや逆の立場になるのだが、平日はジルが食事などの面倒を見てくれることに。

 

f:id:Gillesfilm:20210302203242j:plain

日本での仮住まいは、昭和の文化住宅だった。子どもたちのお絵描きに付き合って。

 

ジルは料理が上手く、人をもてなすことも好きだった。ベルギーに住んでいた頃から友人家族と招んだり招ばれたりを繰り返していた。もともと得意なのはキッシュ、パスタ、クレープなど。気合いが入った時は、ガイドブックなんかにも載っているベルギーの伝統料理、「シコン・グラタン」(チコリとハムをホワイトクリームで煮込んだもの)を作ってくれたこともあった。

日本に来てからは、”簡単にできる家庭料理”ということで日本式のカレーと鍋料理を覚え、たびたび作っていた。そしてなぜか鍋の時は、サーモンやマグロなどのお刺身も一緒に買って来ており、鍋の直前に、アペリティフのように食べた。

 

ジルが亡くなって最初の命日、2017年の3月22日。彼を偲んで私が作り、子どもたちと一緒に食べたメニューは、鍋とお刺身だった。そのくらい、日本にいたジルと結びつく記憶。

 

f:id:Gillesfilm:20210302203251j:plain

ベルギーに帰国中のジルとスカイプで話す子どもたち。

 

基本的には主夫をしてくれてはいたが、ジルの実家の都合や、ひとつだけ大きな仕事が入った時などにベルギーへ帰ることもあった。そんな時も、必ず週に何回かはスカイプ電話をかけて来て、私とももちろんだけれども、子どもたちの顔を見てなんやかんやとフランス語で、自分も言語も忘れてもらってはならず、と話しかけていた。

 

f:id:Gillesfilm:20210302203256j:plain

日本に着いて間もない頃、私が手持ちカメラで撮ったジルの証明写真。

確か、保育園に提出する書類に貼らなくてはいけないのだったか・・。

 

とはいえ毎日ほのぼのとばかり過ごしていたわけではない。お互いにのんびりしているようで、思考がアクティブなので、ケンカもいろいろした。そのケンカの勢いや、顛末などは覚えていたりするのだが、それぞれ何が原因だったのかはよく覚えていない。

お互いに向かって投げたわけではないが、ヒートアップする口調とともに、強く手を離したお皿がシンクの中で割れたとか。怒ったジルがうちで食事をせずに、近所のレストランに行ってしまったとか。朝、出かける間際に何かでジルに文句を言われ、「それは今言うことじゃないでしょ!」と捨て台詞のように言い放ち、プンプン怒った気持ちを抑えきれず駅に着いたころ、「ゴメンネ。」(日本語で)と電話がかかって来て、スーッと気が晴れたことなど・・。

 

セリフも原因も明確でないのに、そういう映像や気持ちだけは覚えているのが不思議だ。

 

笑ったり泣いたり怒ったり。なんだかえらく感情が揺さぶられる年月を過ごしていたなと思う。今でももちろん、いろいろな感情とともに日々を生きているけれども、この時期のことについては、こんなにしみじみとしてしまうのは何故だろうか。

 

今だったら少しは器が大きくなっていて、同じようにケンカでヒートアップしそうな時があってもフワッと躱せそうなのになぁ、と思う。今だったら、ジルとお茶でも飲みながら、あのときは私も未熟だったからゴメンネ、などと話せそうな気もする。

 

もちろんそれは叶わない。

でも、届いているかどうかはわからないけれども、「今だったらそう思うよ」という強いメッセージを、心の中で念じるようにして送ってはいる。

 

f:id:Gillesfilm:20210302203259j:plain

長女が当時、公園の砂地に描いた、家族4人の肖像。右からジル、自分、私、妹。

なぜかジルの顔を描く時は、必ずタテ長の輪郭で、アゴを長めに表現するのだった(笑)。