もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉔
Vol. 24 映画「残されし大地」への道 〜その3
㉒のお話の続きです。
全力を尽くして書いた企画書をもとに、「松村直登さん」についての映画撮影が進行して行くはずだったのだが・・。
2015年の初春だったか。ある日、松村さんについての映画がすでに他の人の手によって撮影され、間も無く公開されるという驚きのニュースが入ってきた。なぜ知ったのかというと、当の松村さんから、わたしのFacebookアカウントにその映画の「いいね」リクエストがやって来たからだった。
え? えぇ!?
題名は「ナオトひとりっきり」。中村真夕さんという女性監督が撮影・編集・監督をすべて1人で手がけたドキュメンタリー映画だった。
ジルに報告をすると、特に顔色を変えるでもなく「・・・・。じゃぁちょっと見に行ってみてくる。」とのことだった。
しかし戻ってくるなり、少し肩を落とした様子で「玲子も見て意見を聞かせて欲しい。どうしようかなぁ。だって、僕がやろうとしていたことと内容は同じかもしれない・・。」と言い出し、後日私も渋谷のアップリンクへ一緒に出かけて行った。
当日は松村さん自身もトークショーで来ており、しかもそのトークの相手は震災当時の元首相・菅直人さんだった。ナオト✖︎ナオトという企画で、詳細については忘れてしまったのだが、あの事故当時の”何が良くて何がいけなかったのか”などを壇上で話していたように思う。監督の中村さんが間合いでテキパキと動く姿が印象的だった。
映画の内容はというと、すべてをほぼ1人で担っての制作ということもあり、荒削りといえばそうかもしれないが、「この題材を絶対に出したかった」という熱意とスピード感とを大きく感じるもので、松村さんの独特な存在感とリアルストーリーとが相まって、心を打つものがあった。
これがニュースであれば、いろいろな局や新聞が、同じ人を扱うのもおかしくはないのかもしれない。けれども”作品”としての”ドキュメンタリー映画”で、しかも全く同じ人物の、同じ時期にフォーカスを当てたものが存在することはどうなのだろうか・・。しかもジルは”後発”となってしまうのである。
「先をこされてしまった」という思いに、実はジルは大きく落胆していた。私も意見を求められたものの、正直なんと言って良いかわからなかった。友達ならば「大丈夫! 別のものが出来るよ」とでもポジティブに言えるのかもしれないが、そう無責任にも言葉を発せられず、一緒になって困った顔をしていた。
松村さんを責めることはできない。なぜなら彼はただ自身の生き方に沿って生きて、来るもの拒まず、オープンに「いいですよ」と出来る限りを受け入れながら、自分のテリトリーを公開しているだけだ。よく業界でいうところの”競合”というようなことを気にしなければいけない立場ではない。
しかし、このことがある意味での「ケガの功名」とでもいうべきか。
この映画「残されし大地」の、独特の方向性を形づけることとなったのだった。
先に完成していた映画には、松村さんをメインに、そのご近所に住む友達夫婦、半谷さんらも登場していた。彼らまで含めたかったことまでは、ジルも同じだ。
だがジルは、この事件の前後(どちらだったか明確な時期は忘れたのだが)、偶然にもとある別の女性にも出会っていた。福島の街を案内する通訳ボランティアをしていた、「佐藤としえさん」。原発事故後、小高の自宅から避難を余儀なくされて色々な避難所を転々としていたが、このほど戻って来れそうなタイミングということだった。
別の人物を投入していくことで、いわばオムニバス的な味わいを持つ映画にできないか、ということをジルは考えた。最初の企画書とは内容が違ってしまうけれども。そんなことの一つ一つについても、(前回のブログで書いたように)夜になると、ベルギーのプロデューサーにスカイプで相談しては、判断を固めていった。
早速、連絡係の私は佐藤さんに電話をかけ打診。ジルも「映画に出て欲しいんです」ということを直接話すために、何度か福島に赴いた。ついには佐藤さんの旦那様も含め、このご夫婦のストーリーも織り交ぜることとなった。
あまりこれ以上書くと、まだ映画をご覧になっていない方にはネタバレになってしまうのでこれくらいにしておくが、結果としてこれが良い判断になったと思う。映像は男性の世界から徐々に女性の世界へと移り、見る者の中に、何か呼吸をすることのバランスが取れたような、不思議な味わいを持たせて終わることが出来る映画になったのだ。
たとえ同じ人物を撮ることになったとしても。何か自分なりの手法、アレンジというものを加えて、押し出していけばいいんだということ。作品を作るときの基本的な姿勢のようなものかもしれないが、そこに目覚めたジルは、もうその後はほとんど迷っていなかった。
実はジルが2015年の夏に撮影そのものを開始した時に、もうひとつ驚きの事件があった。
なんと、スイスから来た映画クルーもいたのだ。
松村さんのドキュメンタリー映画を撮影しに・・はるばると・・。私たちの知る範囲だけでも、この世の中には松村さんに題材をとった「ドキュメンタリー映画」が3本、存在することになる。(いまは4本だ。というのも、先の「ナオトひとりっきり」の続編、「ナオト、いまもひとりっきり」が昨年公開されていたようなので。)
しかしこのとき、そのスイスからのクルーを発見したことを話すジルの顔にはもう暗い影は一切なかった。ちょっとした笑い話として(というと、相手チームもこちらを見て大いに驚いたであろうから失礼なのだが)、私に披露してくれた。
本番の撮影は2015年の夏と秋、2回に分けてそれぞれ1週間〜10日間ずつくらいだったか。
スタッフは監督本人であるジルと、フランスからやって来たカメラマンと、サウンドエンジニア。(ジルはこのとき、サウンドエンジニアは兼ねなかった。一念発起のプロジェクトゆえ、監督に専念したかったのだ。) そして日本人の通訳兼コーディネーターひとりで、合計4人のチーム。
これはこれで、映画制作としては小さなチームだけれども、ジルにとっては初めてのマイ・クルー。私自身は撮影について行っていないので、写真を見たりエピソードをかいつまんで聞くだけ。帰って来たときに、彼のパソコンで松村さんや佐藤さんの表情を見せてもらって「いいね〜」と話したことを覚えている。
ところが、この映画の完成品を見ることになるのが、ジルが命を落とした後になるとはこの時は露ほども考えていなかった。
2016年の5月。
ベルギーのプロダクションから送られて来た編集済みの映画をスマホで最初に受信し、恐る恐る・・・でも待ちきれなくて、その場、外出先ですぐに再生ボタンを押した。
これは私にとって、思い出に苦しくなるパンドラの箱か。
それともジルの思いのたくさん詰まった、本物の宝箱か。
私にとっては、このあと時間をかけて、完全に後者の存在になってゆく映画だった。