もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉘
Vol. 28 あの日のことを、書かねばならない
〜その2
㉖のお話の続きです。
もちろん出会った当初の、拠点が別々だった時も。結婚してベルギーで、そしてその後日本で一緒に住みはじめてからも。
ジルは私の目の前に現れたり、居なくなったり。仕事柄、数週間家を空けてまた戻ってくるということも多かった。だから今回もその繰り返しの一環のように最初は思っていた。
2016年初頭。
それにしても、今回は「長い・・」とすでに感じはじめていた。
自分が初監督した映像を携え、編集作業のためにベルギーに発ったのが2015年12月8日。
しかし年が明けて1月になり、2月になり。そして作業は3月にも入りそうだということを聞いた時、何となく胸騒ぎがしないでもなかった。
ある日長女に、「パパいつ帰ってくるの?」と聞かれて答えると、「(不満そうな顔で)え〜〜!?」と一丁前に頬杖をつき、ため息をつかれたのを覚えている。
その間、相変わらず週に2、3度のスカイプ電話はかかってきた。ベルギーを離れて以来、子供たちのフランス語が簡単に危うくなることを身に染みて知っていたジルは、何とかコンタクトを持ち続けようと、まめに連絡をしてきていた。
3月11日(当時で震災から5年後)は、次女の4歳の誕生日だった。
そこに合わせてベルギーのジルからプレゼントも送られてきていた。
バースデーカードには「おおおお、ついに4歳!!(Quatre ans !!)」というメッセージと、可愛いボーダー柄のワンピース、そしてお姉ちゃんと遊びなさいということで怪獣の顔のついた指人形が二つ、入っていた。
長めの不在ながらに、それをなんとか点で埋めようと頑張っているジルがいた。
そんな折、小さくも不穏なニュースが入ってきた。
3月15日。ブリュッセルのフォレ地区で銃撃戦があり、警官が負傷したとのことだった。どうやら前年の11月にパリで起きた大規模テロの犯人グループと関連がありそうだと。
フォレ地区はもともとそんなに物騒な場所ではない。私たちが住んでいたのがまさにそのフォレだったのだが、当時は銃声のようなものを、仮にも近所で聞いたことはなかった。
その知らせに、モワッとした小さな嫌な空気を吸い込んでしまったような気はしていた。
そしてついに、あの日がやってきてしまった。
3月22日。日本時間の夕方5時過ぎだった。
私は仕事でファッションの撮影スタジオに居た。遅いスタート時間だったことと、その時分はまだ本番前で、ややゆっくりとした空気が流れていた。そんな中、スマホのニュースサイトに何気無く目をやると、
「ベルギーのブリュッセルの空港で爆発があったようだ」という速報が飛び込んできた。
え・・・。
まさか、危険だったあの空気に。ついに導火線に、火がついてしまったの?
この時は、夫が巻き込まれているとは思っていない。ただ、自分にとって第二の故郷のようになっていたベルギーに、爆発が起きてしまった。その単純な事実そのものに、不意に脳天を突かれたようにショックを受けてしまったのだ。
気のおけない仕事仲間に囲まれてはいたので、「今こんなニュースがね・・」と説明をしながら、一瞬だが机に突っ伏させてもらった。
とはいえまだ仕事中ではあるし、とりあえずメールを一本入れておこうと思い、ジルに短いメッセージを送った。「今、ベルギー、大変なことになってる? 試練が起きたね・・」と。
しかしジルからの返事はすぐに来なかった。
後から考えてみると、この時間はちょうど亡くなった瞬間くらいだったのだ。
空港で爆発が起きたのが、ベルギー時間の7:58(日本時間の午後3:58)。
そしてジルが亡くなった、地下鉄の方での爆発が、9:11(日本時間の午後5:11)だったのだから。
仕事が終わり、どこか重い気持ちを抱えながら帰路についた。
家にたどり着いたのは、おそらく午後9時くらいになっていたと思う。
この日は私の仕事時間が遅かったので、友人に来てもらっており、今から寝ようとする娘たちとすれ違う格好になった。
この時、次女が途中まで描いていて、テーブルの上に置きっぱなしにした絵が、今も妙に心に引っかかっている。
そうして、ここでようやく、落ち着いてジルに電話をかけて見た。
ところが呼び出し音も鳴らず、電源が切られた状態のメッセージが流れるだけだ。ただその時も私は焦ってはいなかった。よく忘れ物をすることもあったジルだから、充電が切れてしまったままなのかもしれないな、と思った。
パソコンを開いてメールを見てみると、様々な友人たちから、メッセージが届いていた。もしくは国内であればスマホのショートメールで。
その主なものは、夫が今出張中であることを知らない場合は「ベルギーのご家族は大丈夫?」であったし、夫が帰省していることを知っている場合も「旦那さんは大丈夫ですか?」というものだった。けれどもそれは、地震などが起きたときに、ふと思い出した顔をお互いに気遣う、穏やかさが混じった、かつてから知るトーンの中にあった。
そんなメッセージのひとつひとつに「うん、まだ連絡取れてないけど、きっと多分大丈夫だと思う」などと返事をしながら、同時に自分からは、ベルギーにいる他の義姉妹たち家族や友人たちなどに「大丈夫?」とメールを打っていた。
ところが、ジルから、そして義姉妹からだけ。
家族からに限って、返事が来ないまま時間が過ぎてゆくのだ。
これは何かあるのではないか・・。落ち着かない気持ちに包まれつつあったが、とりあえずは一晩寝てみよう、と思った。
その晩の夢はこうだった。
何故か、天皇陛下と皇太子さま(当時)が国用ジェットで外国に行くところに、私も居合わせている。そして、私も乗せて行ってくれようとするものだった。皇太子さまはなんと、私にどうぞどうぞと、着席を促してくれていた。
不思議な夢を見たな・・と思いつつ、嬉しいというよりも、これは何か重大なことが起こりかけているのではないか、という予感がした。
早朝、そうして寝室のある2階から階下に降り、早速パソコンを開いてみると、義妹から1行だけのメールが入っていた。
「玲子、スカイプして。」
恐る恐るスカイプを立ち上げてコールをすると、義姉と義妹の二人が出て来た。
そして、二人が憔悴した顔で、
「ジルがあの地下鉄に乗っていたと思う。今、連絡がつかなくて探している。」と私に告げた。
え・・・? 何を言っているんだろう。
自分の心が、まるっと薄暗い雲の中に入り込んでしまったような気持ちになった。
でも、心当たりがなくはない。その後、地下鉄でも爆発があったというニュースを見てはいたが、その駅名が「マルベーク」。義姉の住まいがあるのが、その隣の「メロード」という駅なのだ。そこに間借りしていたジルにとっては、十分に通り道になるだろう。
ジルが向かっていた先は、映画製作プロダクションだった。
しかしプロダクションにももちろん、ジルは現れていなかった。
その日から2〜3日をかけて、皆で彼の無事を祈りながらの必死の捜索が始まることになる。
後になって知ることになるのだが、その22日・当日は、映画の編集作業がほぼ終わったこともあり、スタッフだけで”仮の試写会”を行おうとしていたそうだ。それなのにジルだけが姿を見せず、プロダクションのスタッフたちも混乱に包まれていた。
ジルが命を落としたのは、映画「残されし大地」が98%完成したところだったのだ。
<つづく>