故ジル・ローランを偲んで

A blog to remember Gilles Laurent, who died in Brussels Attack in the middle of making his film about Fukushima / this blog is organized by his wife Reiko Udo

もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉙

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映画「残されし大地」のワンシーンより。


昨日のお話の続きに入る、その前に。

 

ついに今日で東日本大震災から10年。

今も行方不明の家族を探している人が居る、ということがニュースなどで伝えられる。今はどこに、海の中なのか、土地の中なのだろうか・・と必死に。

そんな人々の悲しみを思うと、私のあの時の衝撃は、軽いものだとすら思ってしまう。

私が夫の行方不明から、生死を発見するまでは5日間だった。

 

もちろん、悲しみに”偏差値”なんてない。どちらの方が、ということは言えない。

でも、自分の思い出をもとに想像をすると、その痛みのほどがどれほどかということが、想像の範囲でしかないのだが、手繰り寄せられるような気がするのだ。

 

決して忘れられない人がいて、もう会えないことが辛い。

でも、もう会えないことがこんなに辛いと、感じることのできる誰かに出会えたこと、そのことが幸せなんだと思う。そして、辛さと幸せを感じることのできる”人間”という存在に生まれてよかったとも思う。

 

悲しみを分かち合うことのできるのが”人間”だ。

そしてもしも、十分に分かち合えていなかったとしたらごめんなさいと、心の中で謝ることもできるのが”人間”だ。

 

思い出すことだけでも繋がれる。

自分のことでも、他人のことでも。ふとした時に涙が出てくることがある、そんな”人間”という存在に生まれてよかった。

今ある命を、今ある同士で繋げて、一緒に頑張っていけたらと思う。

 

 

Vol. 29 あの日のことを、書かねばならない 

〜その3

 

㉘のお話の続きです。

 

3月23日の朝。

ベルギーでテロが起こり、ジルが巻き込まれているかもしれないということがわかった朝。私は呆然としながらも、仕事に出かけようとしていた。

 

まだ、本当には何がわかったという状況ではない。すぐに連絡がつかないのは、あくまで何かの都合で、もう少しすればひょっこりと姿を見せました、無事でした、ということもあるかもしれない。

だからまだあまり気落ちしても仕方がないのだ・・そう自分に言い聞かせていた。

 

その日の予定は、前日のファッション撮影の続き。だが、物のみの撮影だったので「なんとか参加できるはず」と思い、当時最寄りであったいつもの西武新宿線S駅へと向かった。

 

しかしふと電車が来るまでの数分。昨日から何もあえてテレビなどは見ないようにしていたのに、どうしても気になってスマホでテロについてのニュースを度調べてしまった。

すると、地下鉄での爆発によって、死者も少なくないようだ、相当な数の負傷者がいて身体もバラバラになってしまっているケースもありそうだ・・というような、推定ながらも残酷な文面が目に飛び込んできた。

 

そこでもう、崩れ落ちてしまった。気持ちを盛り上がらなければならない撮影には行けない。

スタッフに事情を話して任せることにしつつ、どうにか会社にだけは一度行って、説明をしなくてはならない。そう感じ、必死の思いで出社した。

 

上司は、本当にそんなことが起きたのかと驚愕をしつつも、力を与えてくれた。

「でも・・ あなたと結婚するくらい運のいい人だよ! どこかで助かっているかもしれないよ」 そう言ってもらえたことで、少し元気が出たように思った。

あとは大丈夫だからとにかく彼が見つかるまで、無理をせず出社しなくて良いと言ってもらえ、私は翌日から自宅待機することとなった。

 

もちろん、それならばとブリュッセルにすぐに飛んで行きたい気持ちはあった。

 

けれども手元には小さい子供二人。そしてベルギーには普段から頻繁にやりとりをしている彼の家族、そして友人たちの頼もしいチームがいる。市内には4、5つしか大きな病院はないのだ。手分けをして探す、もしくは様々なところへ電話をかけたり交渉をしたり、という作業は彼らがものすごい勢いで遂行できるということが分かっていた。私が来ても、むしろ私へのケアを増やしてしまうこととなりそうだと思った。今は実質的な加勢にはならないのだ。

 

もどかしさを抱えながらも、私がまず決めたことは、”とにかくジルの生死、所在地などが分かるまではここを動かないでいよう”ということだった。

 

そして同時に、駐日ベルギー大使館、外務省などに問い合わせの電話をかけ、いつでもスカイプでベルギーの両親と話せる態勢を準備した。

この地下鉄テロで、日本向けのニュースとして最初に明らかになったのは、「日本人の死者はなし、負傷者が重体と軽傷で二人」というものだった。誰もそこに、「日本人ではないが、日本に住んでいて日本人の家族があるベルギー人が巻き込まれている」ということには気づいていなかった。

 

ただ、ありがたいことに・・その時は偶然、私の母がそばに居てくれた。

実は前々日に、長女がインフルエンザを発症していたのだ。ジルの行方不明が分かる前だったが、そのために23日の夕方着で、九州から上京してくれ、シッター係をしてくれていた友人とバトンタッチする予定になっていたのだった。

今思うと、長女のその発症は何かの前触れだったのか、それとも、母を呼び寄せるための運命だったのかと不思議にも思う。

 

電話やパソコンに張り付いたままの私のそばで、母はその間、子供の送り迎え、そして食事の世話を請け負ってくれた。

 

しかし1日経ち、2日経ち。そして3日経ってもジルはなかなか発見されなかった。中には「でも東日本大震災の時も、あの混乱の中で、ずいぶんあとで無事がわかったというケースもあったらしいから」と言ってくれた人も居たのだが、今回の場合は時間も場所も、どうしようもなくピンポイントだ。もう、巻き込まれていることだけは疑いのない事実になってきていた。

しかし、何処にいるのかが分からない。

 

中には大火傷を覆い、意識不明で生存した人たちが集められている病院もあるという。そこでは誰が誰なのか、という細かい調査は未だにウエイティング状態であるという。

義姉妹たちにしても、私にしても。こうなったらそこに居てくれているのでもいい。とにかく命だけでも助かっていて欲しい。日を増すごとに、そのような必死な思い、いやそれを超えて決死の思いが募って行った。

 

この5日間は、私の人生の中で一番長い、5日間だったと思う。

 

 

そして28日の早朝。

あの日と同じ、短いメッセージが入っていた。

「玲子、スカイプして。」

 

恐る恐る、コンピューターを立ち上げた。

映し出されたのは、義父、義姉妹、そのパートナーたち・・薄暗いスカイプの画面に、家族全員が勢ぞろいしており、心配そうに私の顔を覗き込んでいる。

まず聞こえてきたのは、この一言だった。

 

「ジル、亡くなっていたよ・・」

 

その瞬間のことは今でも忘れられない。

天を仰ぐ、とはこういうことかと思った。反射的に両手は顔を覆い、声にならない声を出して身体が反り返ったのを覚えている。

そして同時に目の前に、黒い幕がズドン!と落とされたような気がした。

 

あなただけで来るのか、子供たちに打ち明けて、共に連れて来るのか。また、こちらにいつ来れるのか。すべてあなたが決めていいから、そして待っているからと。

家族は私に気丈に語りかけてくれた。

 

 

 

<つづく>