故ジル・ローランを偲んで

A blog to remember Gilles Laurent, who died in Brussels Attack in the middle of making his film about Fukushima / this blog is organized by his wife Reiko Udo

もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉜

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2016年4月、北九州市にて。パパの死を知った直後のころだが、こんなに元気そうな長女。

でも今見ると、表情がひとつ成長しているような気も。半円状のシーソーに乗って。

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シーソーの反対側には、次女がいた。パパの死の前後でも、

二人のそのエネルギーと無邪気さだけは、脅威と言っていいほど変わらなかった。



Vol. 32 金色のエネルギー

 

㉙の話の続きです。

 
ベルギーでの一連の葬儀などを終え、小さな位牌を抱えて日本に帰ってきた。
 
そんな私に残っていたもう一つの大仕事は、子供たちにパパの死を告げることだった。
彼女たちにとって、一生忘れられないことになるかもしれない日。
 
ただ、ベルギーで先に目にしていたほかの子供たちの反応に・・私はある意味での安堵を覚えていた。
ジルは友人も多く、その子供たちもジルに懐いていたのだが、彼らの反応が実にさまざまで、そしてどれも誠実だったからだ。ある子供はショックを受けてベッドから出られなかった。ある子供は気丈なまま、一連の葬儀に自分の意思で参列し、すべてに立ち会った。ある子供は「こんなのひどすぎる」というメッセージと共に、私を慰める絵を描きあげ、両親に渡してくれと頼み留守番をすることを選んだ。
 
年齢が一桁の子どもたち。
先に、いくつかの真心を見せてもらっていた気がした。
 
 
4月の上旬。帰国してすぐ、子供たちのいる北九州の実家に飛んだ。
 
私の両親はというと、私と義理の息子に突如襲い掛かった重い事件、そして突然託された小さな子ども2人の面倒、そしてまだ告げていないその裏にある重い事実・・二つの間をなんども往復したようで、憔悴させてしまったと思う。
 
仕事が忙しかったはずの、ママ(私)が自分たちを迎えに来た。
そう思っていた子供たち2人に、いつもの憩いの場、テレビのあるリビングルームで着いたその日に、切り出した。
 
「あのね、ママじつはベルギーに行ってたんだよ。ふだん、ママは絶対にウソはいけないよと言っているよね。でも今回、2人にウソを言っていたからそれだけはごめんね。じつは、パパが死んでしまってお葬式に行っていたんだ。」
 
続けて、考えに考えた末に用意していた説明をした。
すべてを明かすのとは違うが、嘘にはならない形で。
 
「パパ、ベルギーで地下鉄にのってたんだけど、その地下鉄がとつぜん、事故で止まってね。そのとき、パパはバーン!!って倒れちゃって、それで死んでしまったんだよ。」
 
テロという物事は、まだ説明がつかないと思ったので、言わなかった。爆発という言葉も避けた。人の生死が何を意味するのかは分かっていても、感情で人が動くことは知っていても、無差別に人を狙う「テロ」というもののコンセプトは、まだ説明が難しいと判断したからだ。
(考えてみれば、説明がつかなくて当たり前だ。もう人間ではなくなった人たちがすることなのだから。)
偶然性を伴った事故は事故、であることから、こう説明するしかなかった。
 
「だからパパからのスカイプ、ずっとなかったでしょ。突然だったから言えてなくてごめんね。夏休みになったら、こんどは2人を連れて行くから、そのときパパのお葬式、スモワ川の近くでもう一回するからね。」
 
5歳の長女は、両方の瞳からツーっと涙を流した。そしてこう言った。
 
「この話は悲しすぎる。分かった。だから私はもう、さっきの続きのDVDを見る。」
 
そう言って黒いリモコンを手に取り、濡れた瞳をさっきまで見ていたテレビに戻した。
両親がレンタルしてくれていたディズニーの「リトルマーメイド」が再開した。
私はそれを、冷たい反応だとはまったく思わなかった。
どうしようもない事実を前に、彼女なりに瞬間的な切り替えを試みたのだ。
 
4歳になったばかりだった次女は、言葉は発さず、ただただ大きく見開いた目で、私の姿そのものを全身全霊で凝視しているようだった。
パパが死んだ。そのことよりも、ママである私に重大なことが起こった。そのことを、持てる力のすべてで感じ取ろうとしているようだった。
 
この日も外はそぼ降る雨。
葬儀の時と同じような天気に、ジルがここにも私と一緒に来ており、心配でたまらないからこの決定的瞬間をに付き添っているのではないか。そんな気がした。
風も強かったのだが、時おり窓が原因不明にカタカタ、カタカタ、と音を立てていた。
 
 
ただ、私は一番重要なことを伝えるのを忘れなかった。
「でもパパは2人のことをこれからもずっと見ているから。いつでもそばにいるから。
姿が見えなくなっただけなんだよ。ぜーったいに、いるから!」
 
 
その日の晩御飯。2人ともしっかりと食べた。
その日の夜。2人ともしっかりと寝た。
 
翌日の夕方。
娘たち、私と私の母とで公園へと出かけた。
ジルにとってはこれでいいのか分からない。そう思うほどに、2人はいつもと変わりがなかった。いつものように、元気にシーソーや滑り台で遊んでいた。
 
その公園からの帰り道、たまたま足がつまずきそうな場所を見つけたた。
「おっと、ここ危ないね。パパだったら、アットンション!(フランス語でattention )って言いそうだね。」と不意に口から出て来た。
すると長女が、ハッと何かを思い出したような顔をして、私を見上げた。
 
「きのう、パパが来たんだよ。」
 
私と母は驚いて「あら、パパ夢に出てきたの?」と聞くと、長女は「ちがうよ、来たんだよ。だって私、パパのウワワ〜イ!(ジルがよく2人をふざけて驚かせていた時の声)で、おこされたんだよ。」と言う。
 
あくまでも起こされたのだ、と主張する長女が、目にしたものを説明してくれた。
 
それは金色の輪っかのようなものの中に、あぐらをかいて座っているジルだったそうだ。
ニコニコしていたそうだ。
そして、「金色の船に乗ってきたよ」とひと言、告げたそうだ。
 
 
感動というと薄っぺらすぎる。衝撃、ともちがう。信じるか信じないか、などでもない。
長女が作り話をしているのではないことは、いつもの保育園で起こったことを説明してくれている時と何ら変わらない、その姿からわかる。
 
ジル、すごく頑張って、やって来たんだな。
 
2人共は起こせなかったけど、長女の方に代表してやって来た。
あちらの世界からこちらの世界へって相当大変だったんじゃないか。
神様のご厚意を得て、金色の船、調達してもらったのか。
 
 
そしてその翌日。
私はパソコンに向かって写真整理をしていた。
私をテロ犠牲者の家族であることを発見した、在ベルギーの読売新聞社方から取材を受けることになっていた。それに伴って提供する写真を探していたのだと思う。
 
そこへふいに次女がやってきて、私の膝の上にチョコン、と乗った。
そしてパソコンの写真ライブラリーの中に入っていた一連の家族写真に目をやった。
その時、彼女の感情がずずずぅっと動くのを感じた。
というのも、私の膝のうえの体重がじんわりと、重くなるのを確かに感じ取ったのだ。
 
そして「パパの写真・・たくさんあって、よかったね。」とひと言、放った。
 
4歳の子に、こんなしみじみとしたことを言われるとは思っていなかった。何か年齢不相応な、大きめの視点でコメントをすることがある不思議な子ではあったけれども。
それと同時に、人の感情がどんな風に身体の中を動いて行くのかを感じ取った、この時の膝の上の感覚は忘れられない。
 
 
こうしてふたりともがパパの死を、彼女たちなりに受け入れるひととき・・”儀式”は終わった。
 
そして、私は2人にお願いをした。
絶対に、2人にパパが実際にいた時のことを忘れて欲しくないと。大きくなったときに「パパが死んだ時、私小さかったからあんまり覚えていなくて」なんて、寂しいことは絶対に言って欲しくないのだ。
酷かもしれないが、「今覚えていることのすべては、忘れないようにして。だってパパとの新しい思い出はできないわけだからね・・」 それだけは、以来くどい程に言い聞かせている。
 
でも、彼女たちはそれを素直に受け入れ、5年たった今もそこに意義を唱えることはない。
 
 
ところで宮部みゆきの「悲嘆の門」の中に、こんな一節がある。常人には見えないものが見えるようになった主人公が、5歳のみなしごの周囲に、キラキラの黄金色の美しい光が取り巻いているのを見る。その子のママは、彼女を一番大事に思いながらも不本意に亡くなってしまった。でもそんなママの美しい愛情のエネルギーが、言葉なくともその子の周囲を取り巻いて守っている・・ということを示す一幕だった。
 
私はそんな、金色のエネルギーの存在を信じる。
 
 
変な言い方になるし、正しくもないかもしれないが、死についての意味を受け止めるのに、4歳や5歳は、“一番いい年齢”だったのではないかと思う。
 
小さな子どもは”積もった”過去を振り返って必要以上に憂うこともないし、”見えない”未来を心配しすぎる気持ちもない。まさに「今を生きる」。それこそが、子どもなのだとも知った。
 
そんなこどもの力に、私はまず大きく支えられることとなった。
 
 
元気を増した私は、「心が落ち着くまでは休んでいてもいいから」と言ってくれていた会社に「来週にも復帰します」と電話をかけた。子どもたちの遊び声が響く、実家の裏庭から。
 
 
この年の夏。
ジルもよく送り迎えをしてくれていた、子どもたちの通っていた音楽教室の発表会があった。
長女は打楽器コースだったのだが、その年はマリンバの演奏を。
選曲は「リトルマーメイド」の「パート・オブ・ユア・ワールド」だった。
 
「リトルマーメイド」といえば、長女があの時、DVDを再開した映画。
ディズニー版は、原作の悲しい「人魚姫」よりも、父親が何とかして娘を見守ろう、サポートする姿に大きなストーリーが割かれている。
 
 
発表会当日は、我々夫婦と仲良くしてくれていたママ友が、私の代わりに舞台袖で長女の送り出しをして見守ってくれていた。(次女も出場するので、ひとり親では2人分の付き添いがタイミング的に難しかったため)
 
すると、演奏が終わるころ、気がつくとその友人が舞台袖で泣いていた。
「ジルが見にきてる・・。絶対感じた。」とのことだった。
 
 
ジルの死を2人に告げたあのとき。
 
以来、あの晩ほど明確に、ジルが私たちのうちの誰かに姿を見せてくれたことはない。
普段は小さなサインだけで、見えない彼の存在を、全身全霊で見逃さないようにしているだけだ。
 
父親の不在による悲嘆をまったくと言っていいほど感じさせない、今日までの2人の姿に、私は説明しがたい安堵を覚えている。もちろん、時々、寂しいと思わないことはないけれども。
 
きっとこの世ではなくて、あの世からでしか出来ないこともある。
 うまく連携できているかどうかは謎だが、私たちはふたつのパラレルワールドで、彼女たちをこれからも見守って行くのだろう。
 

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