故ジル・ローランを偲んで

A blog to remember Gilles Laurent, who died in Brussels Attack in the middle of making his film about Fukushima / this blog is organized by his wife Reiko Udo

もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉝

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2016年4月23日土曜日・読売新聞夕刊。これが私が初めて取材に応じた記録。

ブリュッセル支局の横堀記者には、その後も別の暖かい記事でフォロー頂いた。

この見出しからもわかるがベルギーテロから1ヶ月は、熊本地震から1週間と重なっていた。

 

 

Vol. 33  映画という名の御神輿  〜その1

 

 


それはまるで、”火事場の馬鹿力”と言われるものだったと思う。


ジルはテロで亡くなった。でも、映画を残して亡くなった。

ならば彼がある意味命をかけて完成させようとしていた映画を、どうにかして日本にも紹介することはできないものか。



実はベルギーでの葬儀中に、ジルの実家であるホテルに、1通のファックスが届いていた。それは読売新聞のベルギー支局からのもので、「今回のことについて、よければお話を聞かせていただけないでしょうか」との内容だった。

正直、その瞬間には「どこから私を見つけたんだろう。放っておいてくれればいいのに」という気持ちだった。だがしかし、このままでいいのか。ジルが日本人でなかったために、今回のテロで悲しむ日本人遺族はまったく居なかった、ということになってもいいのだろうか。

ブイヨンからブリュッセルに戻って1泊し、帰国する予定になっていたため、この記者の方にお会いする時間はある。まずは会ってみよう、そう決心した。


思いがけずこのときのインタビューの中で、呆然としながらも、ぽつぽつと喋った自分自身の打ち明け話の中に。その後の私がやるべきことが最初に明らかになったのだった。


ジルはどんな人で・・どんないきさつで・・そんなことを話しているうちに、もちろん「映画を製作していた」と言う話になる。しかも福島の・・。このとき、記者の方が「それはすごくないですか」というふうなことを言ってくださったと思う。

 

その瞬間、私の中で小さな雷が落ちるように閃いた。

 


映画をなんとか、日本に紹介する! そのための活動を私はしていくべきなんじゃないか、と。急に体の中を血が駆け巡り始めるような気がした。

ベルギー資本で製作した映画だから、完成しさえすれば、ベルギーで公開をする道筋はあるのだろう。けれども日本で公開するとなると、話はまったく別だ。どうやっていけばいいのかはわからなかったが、とにかく私が動いて、出ていけるところでは喋って、そして日本の配給会社にもなんとか声かけをしていけないだろうかと思った。


そう決めたとき、私は「やることがある」という状態に立つことができた。

 

この時から、この映画という名前の”お神輿”に乗せてもらうことになった。

 

そうしてこの一番傷ついた状態の時間を、あらゆる人々との奇跡的な出会いを通して数年に渡り、大いに癒されることになるのだった。

 


けれどもこの初期の頃、何か理想があったわけではない。正直、このころはそれ以上の目的はっきりとはしていなかった。

 

今思うと私はただ、動いていたかったのだと思う。突然の出来事に打ちのめされて、鎮まっていたのでは、自分までもが吹き消されそうな気がしていたのだと思う。

まさにそこは私にとっては火事場であり、ここから動き出して、逃げ出さなければならなかった。この部屋に居続けるのではなくて、なんとか隙間をくぐってでも、別のスペースに行かなければならなかった。そうしなければ息苦しい、燃やされてしまう。そんな切迫した感覚にも似ていたのだと思う。

 

何とかなるはずなんだから! 使命のようにそう思った。

 


周囲で映画の仕事と関連のありそうな人に、片っぱしから連絡を試みて、「ドキュメンタリー映画を配給するにはどうしたらいいのか」「映画祭に出すにはどうしたらいいのか」「配給会社ってどんなところがいいのか」など、様々なルートで調べ始めた。

そして、テロに関する取材も来るものは全て受けよう、と思った。そのたびにジルのことだけではなくて、この話題に欠かせない、映画のことをしゃべればいい。


そして転機となったのが、NHKの取材だった。

その後、2016年の8月末に「おはよう日本で放送されることとなった内容だ。

当時、ブリュッセル支局にいた長尾かおり記者(のちにニュースチェック11のキャスターもされていたので、ご存知の方も多いと思う)が、ジルとこの映画について発見してくれていた。そしてブリュッセルで映画編集の最終段階だったプロダクションの様子、この映画の初の映画祭への出品(フランス南部のマルセイユ)の様子を取材。そして日本にいる私にも、スカイプで話を聞いてくれた。


放送内容の核をなした、当時住んでいた東京都杉並区でのインタビュー。それに関しては、ベルギー在住の長尾さんが直接行うのは難しいので、長尾さんの信頼する先輩、東京本社の鴨志田郷さんが請け負ってくださった。

 

この時の、テレビカメラの前でのインタビュー収録については、とてもよく覚えている。

実際は放送されたものより、ずっとずっと長かったと思う。

 

鴨志田さん、ひいてはNHKとして導き出したい結論は、「日本のことを考えていたこんな外国人がいたということを、知ってほしい」ということだった(と思う)し、私は最終的にそう言っている。

だが実は、私はしばらくは何を質問されても、「それはどうしてもこの状況で、こう動かないと私がダメになりそうだったから」というような、”火事場の馬鹿力理論”を、要領を得ず繰り返し語っていたように思う。でも、そんなポエティックなことではダメなのだ。いや、ダメなわけではないけれども、それでは凝縮されたニュース番組の中では伝わらないものだ。

 

求められている結論に気づき、私の口からそれを発信しなくてはならないのだなということにも納得し、そしてようやく言ったセリフが上に書いた通り。

でも、それは誘導尋問だったわけではない。そして、そこに気づいた自分に対してあざといとも思わなかった。今から思うと、後々に思考が整理された後の”未来の私”が答えたものだった、ということで良いのだと思う。

(そして後から知ることになるのだが、長尾さん、鴨志田さんともに、様々な場所でテロやそのほかの報道をする中に、これは是非とも伝えたいという個人的な思いもあったことを後々私も知ることになるの。長くなるので、それはまた別の機会に。)

 

とにかくも、この時の放送が状況を打破するきっかけになるのだった。

 

配給について色々と調べてみても、そのハードルは非常に高いことをすでに知っていた。

いい映画だから、監督がこんな目に遭ったからなどということだけで、するっと公開につながるほど映画業界は甘くない。日々、作られ続ける多数の映画がしのぎを削って、配給会社や映画館の枠をキープしようとしているという現状に私は次第に気がつき始め、見えない壁にぶつかり始めたような気がしていた。

 

NHKではもともと放送後に、視聴者の方からなにか映画に関する問い合わせがあれば、私のほうに回してくださるということは言ってもらえていた。


そしてその運命の放送日を迎えた。

 

放送は朝の7時台だったが、昼頃に早速、鴨志田さんから、ちょっと興奮気味に電話が入った。

「映画プロデューサーの奥山さん・・て方が。ぜひこの映画をなんとかしたいいう話があったようなんです。近く、京都の映画祭があってそこに出したいとかって・・ということは、あの奥山さんなんじゃないかと思うんですが、お電話が欲しいみたいなので、今日のうちにぜひ、折り返してみてください。」そう言って、連絡先を教えてくれた。

 

鴨志田さんの話の中に入っていたのか、私の頭の中の拙いウイキペディアからだったか。

それは忘れたけれども”北野武”とか”よしもと”とか、関連するいくつかのワードが私の頭の中を駆け巡った。

 

奥山さんって・・えぇ!?

 

 <つづく>

 

 

★3月22日まで、オンライン無料上映中!★

日本版  https://vimeo.com/521260129     

ベルギー版(英語字幕付き) https://vimeo.com/519469354