もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉝
Vol. 33 映画という名の御神輿 〜その1
それはまるで、”火事場の馬鹿力”と言われるものだったと思う。
ジルはテロで亡くなった。でも、映画を残して亡くなった。
実はベルギーでの葬儀中に、ジルの実家であるホテルに、
正直、その瞬間には「どこから私を見つけたんだろう。
ブイヨンからブリュッセルに戻って1泊し、
思いがけずこのときのインタビューの中で、呆然としながらも、ぽつぽつと喋った自分自身の打ち明け話の中に。その後の私がやるべきことが最初に明らかになったのだった。
ジルはどんな人で・・どんないきさつで・・
その瞬間、私の中で小さな雷が落ちるように閃いた。
映画をなんとか、日本に紹介する! そのための活動を私はしていくべきなんじゃないか、と。急に体の中を血が駆け巡り始めるような気がした。
ベルギー資本で製作した映画だから、完成しさえすれば、
そう決めたとき、私は「やることがある」
この時から、この映画という名前の”お神輿”に乗せてもらうことになった。
そうしてこの一番傷ついた状態の時間を、あらゆる人々との奇跡的な出会いを通して数年に渡り、大いに癒されることになるのだった。
けれどもこの初期の頃、何か理想があったわけではない。正直、
今思うと私はただ、動いていたかったのだと思う。
まさにそこは私にとっては火事場であり、ここから動き出して、
何とかなるはずなんだから! 使命のようにそう思った。
周囲で映画の仕事と関連のありそうな人に、
そして、テロに関する取材も来るものは全て受けよう、
そして転機となったのが、NHKの取材だった。
当時、ブリュッセル支局にいた長尾かおり記者(のちにニュースチェック11のキャスターもされていたので、
放送内容の核をなした、当時住んでいた東京都杉並区でのインタビュー。それに関しては、ベルギー在住の長尾さんが直接行うのは難しいので、長尾さんの信頼する先輩、東京本社の鴨志田郷さんが請け負ってくださった。
この時の、テレビカメラの前でのインタビュー収録については、とてもよく覚えている。
実際は放送されたものより、ずっとずっと長かったと思う。
鴨志田さん、ひいてはNHKとして導き出したい結論は、「
だが実は、私はしばらくは何を質問されても、「それはどうしてもこの状況で、こう動かないと私がダメになりそうだったから」というような、”火事場の馬鹿力理論”を、要領を得ず繰り返し語っていたように思う。でも、そんなポエティックなことではダメなのだ。いや、ダメなわけではないけれども、それでは凝縮されたニュース番組の中では伝わらないものだ。
求められている結論に気づき、私の口からそれを発信しなくてはなら
でも、それは誘導尋問だったわけではない。そして、そこに気づいた自分に対してあざといとも思わなかった。今から思うと、後々に思考が整理された後の”未来の私”が答えたものだった、ということで良いのだと思う。
(そして後から知ることになるのだが、長尾さん、鴨志田さんともに、様々な場所でテロやそのほかの報道をする中に、これは是非とも伝えたいという個人的な思いもあったことを後々私も知ることになるの。長くなるので、それはまた別の機会に。)
とにかくも、この時の放送が状況を打破するきっかけになるのだった。
配給について色々と調べてみても、そのハードルは非常に高いことをすでに知っていた。
いい映画だから、監督がこんな目に遭ったからなどということだけで、するっと公開につながるほど映画業界は甘くない。日々、作られ続ける多数の映画がしのぎを削って、配給会社や映画館の枠をキープしようとしているという現状に私は次第に気がつき始め、見えない壁にぶつかり始めたような気がしていた。
NHKではもともと放送後に、視聴者の方からなにか映画に関する問い合わせがあれば、
そしてその運命の放送日を迎えた。
放送は朝の7時台だったが、昼頃に早速、鴨志田さんから、ちょっと興奮気味に電話が入った。
「映画プロデューサーの奥山さん・・て方が。ぜひこの映画をなんとかしたいいう話があったようなんです。近く、京都の映画祭があってそこに出したいとかって・・ということは、あの奥山さんなんじゃないかと思うんですが、お電話が欲しいみたいなので、今日のうちにぜひ、折り返してみてください。」そう言って、連絡先を教えてくれた。
鴨志田さんの話の中に入っていたのか、私の頭の中の拙いウイキペディアからだったか。
それは忘れたけれども”北野武”とか”よしもと”とか、関連するいくつかのワードが私の頭の中を駆け巡った。
奥山さんって・・えぇ!?
<つづく>
★3月22日まで、オンライン無料上映中!★
日本版 https://vimeo.com/521260129
ベルギー版(英語字幕付き) https://vimeo.com/519469354