もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉟
Vol. 35 「残されし大地」と名付けた理由
いろいろと資料整理をしていたら、これがポン、と出てきた。
不思議だ。ジルがこれ出していいよ、とメッセージしているのかもしれない。
前回のブログの冒頭写真にも使った、2016年9月末に群馬県高崎市で行われた「コミュニティシネマ会議 2016」で用意していたスピーチの原稿。
映画上映の前に登壇することになっていたため、その時に用意していた舞台挨拶だ。
ジルが亡くなってから初めて、この映画について公の場で喋る機会だったので、前日までに一生懸命、原稿を書き思いの丈を綴っている。
実際は原稿用紙は持たず、直前になって、その場で思うままに出てくる言葉だけで喋ってみようと決めて立ったので、部分的には幻の原稿。
けれども、当時の溢れ出る思いを詰め込んでいるので、その原稿を改めてここに出したい。
いろいろと偉そうなことを書いているが・・。実際はこの映画の上映の後、私は泣いてしまった。それもそうだ。初めてこの映画が、大きなスクリーンに映し出されるのを観たのだから。
(ネタバレになってしまうが)映画のラストシーンで、スゥーーっと音もなくフェイドアウトしていく映像に、この映画の完成をほぼ見届けながら、やがて命を亡くしていったジルとシンクロするものを感じて胸が潰されたのだった。
その後何度もお客さんと一緒に、スクリーンで見ることになるのだが、この記念すべき第一回目の上映で、劇場で。喜びと悲しみがどこからともなく押し寄せてきた、あの瞬間のことを私はずっと忘れない。
<舞台挨拶>
今日はお集まり頂きありがとうございます。
故人に代わって、心からお礼申し上げます。
まず今日は初の一般公開でもあるということで、日本語版のタイトルについてのご説明をさせてください。原題はLa Terre Abandonneでしばらく実は「見捨てられた大地」という仮タイトルが付いていました。アバンドンド・ハウス=空き家、つまりアバンドンドは人が居たけど、いなくなってしまった、くらいの意味ですが、見捨てられた、では嘆きが入ってしまいます。それでいて、なかなか他にそれに代わる強いタイトルを思いつきませんでした。
けれども、「そこには変わらず大地がある」という事実に気がつくと、「残された」「残っている」という言葉がぴったりなのではないかという感覚に至りました。翻って私には、ジル・ローランという人間がテロによって居なくなるという悲劇が起きたわけですが、私たちも「残されて」います。けれども生きている。生きていこうと思えば新たな道はあるし、地平線が用意されていて、そこには太陽が毎日ちゃんと登ってくるし、旅は続いていく。また、別の大きな愛を呼び起こしたり、新たな喜びや笑いも生まれてくる。
そう考えた時に、福島で被害にあった方たちの状況と、犠牲者家族の状況、というのはとても似ていたのです。私自身や子供達も“残されし”大地なのだと思います。取り去られても、残されて続いていくものがある。大げさに言うと、焼け野原からも新たな命が育っていくのと似ているかもしれません。そう考えると、全ての悲劇から人間というものは立ち直れる力があるんだ、新たな道を見つけられるんじゃないか、という確信があります。
福島で起きたこと、それからテロという災難の二つを通じて、夫がはっきりと教えてくれる希望を、映画がここで上映される、私がここに立つという事実に見ていただければと思います。
彼がこの映画の取材やロケハンを最初に始めたのは今から2年前のことでした。当時、まだJR富岡の駅は形としては残っていました。まさに駅もアバンダンド。人が居たけど居なくなっている。そこに縦横無尽に雑草が生えまくり、柱にツタが絡まりまくる様を、彼は映画にも登場する松村さんを据えながら写真を撮り持ち帰り、ある意味喜びにも満ちた表情で私に見せてくれました。それは、「こんな風になってしまって」という嘆きだけではなくて、「(これはこれで)美しい、と思わないか」と。変わらず命をつなぎ続け、むしろはびこるほどに勢いのある植物の力。実際に映画撮影が始まった時にはもうその自然が一部撤去されてしまったことを少し残念がっていたくらいです。現地の実情からすると、まずはいらないものを取り払って次へ行こう、ということなのでしょうが、彼は「命の輝きを感じるもの」ひいては「絵になるもの」をどこまでも追い求めようとする、そんな映画人としてのワガママも持っていたのだと思います。劇中に出てくる蜘蛛の巣などもそうで、人が居なくなったことを表すためだけではなくて、同時に、蜘蛛の巣自体が光を受けて輝き美しい、ということを心から愛してフィルムに残していることを感じます。
内容は福島のことですから、ヒューマニストだった夫には、もちろん理不尽さに対する怒りやメッセージもベースにはあります。けれども、そのメッセージと同じくらい、彼が大事にしたのが絵や音の美しさです。この部分はなかなかメディアだけでは伝わりにくいことで、メッセージ性と夫の亡くなった状況とを伝え切ることで、紙面や画面はいっぱいになってしまうわけですけれども、あえてこの舞台上では私が言いたいのは、この映画は彼の、“映画人としてのワガママ”もいっぱい詰まっているということです。決して正義やエコロジーを主張するためだけに、怒りだけを持ってこの映画を撮ったのではないのです。出会った頃に、I like nature and culture,ネイチャーとカルチャーが好きだ、と常々言っていましたが、自然と文化、って、人間にとって一番大事なもの二つだなあ、と思います。自然や文化への愛があり、小津安二郎など敬愛する先人たちへの愛があリます。彼は映画を見るたびに口すっぱく、シネマトグラフィーが、シネマトグラフィーが・・と盛んに言っていました。私もそんな英語あったんだ、とそれで覚えましたが、映画撮影方法、つまり映像美がどうか、というようなことだったんだと思います。ネイチャーとカルチャーが好き。そんなジルらしさを思い切り結びつけたのがこの映画だと思います。
私のあるベルギー在住の友人が、「福島のことだけでなく家族や自分の人生、自然、動物、共存、私たちのしていること・・たくさん考える機会をくれる映画だと思う」と言ってくれました。そんなひとくくりにはできないメッセージ性とともに、ジルの映画人としてのワガママ、映画という文化への愛情を、一緒に味わっていただければと思います。