もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㊵
Vol. 40 世界で一番、恵まれた嫁
ジルの命日である今日、3月22日。
私が一番、その心情を気がかりにするのがベルギーの家族だ。
ジルにはブイヨンに住む両親と、ブリュッセルやナミュールに住む姉妹がいる。みんなが車で1〜2時間の範囲に住んでいるという、コンパクトなベルギーならではの地理的な条件もあるけれども、家族はしょっちゅう集まっていた。それぞれのパートナーも含めて。
クリスマスなどはもちろんだが、普段も誰かの家でホームパーティー、一緒にワイワイご飯を食べたりワインを飲んだり、ということがしばしばあった。
みんな誰かの人生に口を出すような野暮なことはしないが、連絡を密にとっていて、何かあるとそのたびチーム力を発揮して協力し合っていた。ベルギーに住んでいた当時、小さな子供のいる家庭は私のところだけだったが、預かってもらったり、可愛がってもらったりとそれはそれは助けてもらった。
こう言うと自慢にしか聞こえないかもしれないが、本当のこと。
私は世界一幸せな嫁なんじゃないかと思っていた。いや、今もそう思っている。
お舅さん、お姑さん、小姑・・そんな呼び名はいろいろあれど、ここでは伝統的な確執に悩まされることなど皆無だった。私が外国人であることや小さな子供がいることなどのハンディもあったのかもしれないが、常にみんなから優しくされた記憶しかない。嫌な思いをしたことなどは、一度もなかった。
むしろジルが一番私に手厳しい(?)ところがあり、「ジル以外、みんな優しいのにな〜」なんて勝手なことを思ったりしていたくらいだ。忌憚なくぶつかり合う夫婦だからそれは仕方がないのだが。
そもそも実家が「ホテルである」、その事実が”嫁”という立場をとても恵まれたものにしていた。
ジルの両親は30室足らずのホテルのオーナーであり、その一番上の階をマンションのように改造して住んでいた。職場と一体になっている住居、というわけだ。
それについてジルは「便利なようで、いつも何かあるとすぐ降りてこられてしまう。24時間、365日働くことになるから、そうしないほうがいいのに」と言っていた。けれども私が思うには、両親はシンプルに仕事が好きだったのではと思う。ただ、ワークライフバランスを気にするジルとしては、そこがずっと気にかかっていたようだ。
それはともかく、私たちにとって「実家へ帰る」=「ホテルの一室を滞提供してもらう」ということだった。
朝ご飯はホテル1階のビュッフェ。
昼ごはんはホテルのカフェ&レストランで自家製ハンバーガー、カルボナーラなど。食欲があるときは、メニューにあるベルギー名物の「ムール貝とフリット」を頼むこともできた。昼からワインがついてくることも。
午後はちょっと喉が乾いたなと思ったら、シュエップス&トニックを頼んだり、気が向くとチェリービールを頼む時も。ビールについてはさすがにベルギーのレストランだけあって、ほぼ全種類のビールとそれに対応した専用のグラスがずらりとバーカウンターの後ろに並んでいた・・。この道が好きな人だったら、圧巻の光景だったと思う。
夜ご飯は専属シェフのコース・・。アルコールに詳しいお義父さんのお見立てでとっておきのシャンパンやワインが出てくる。でも料理上手のお義母さんがまだ健在なときは、お義母さんの手料理が一部出てくることもあった。
こう書くと、改めてなんだかすごい。
ジルの出張が長い時などには、何日もまるっと我々母子だけでお世話になることもあった。
日中は散歩に出かけて名物のアイスクリームを食べたり、スモワ川のペダロー(足漕ぎスワンなどのボート)で遊んだり・・。小さい子供がいればそうそう気は抜けないけれども、眠くなったら、タイミングを見て勝手に部屋で昼寝もできた。シャワーもお風呂も、専用だから好きな時に入れた。洗濯など何か頼みたいときは、すでに顔見知りで名前で呼び合う従業員のみんなにお願いできた。
ちょっと、ふざけてない!? そう言われそうな幸運な状況だ。
これが伝統的な日本の里帰りだったら、ましてや嫁だったら。お食事づくりをどう手伝うかと言う事、お風呂に入る順番なども、かなり気を遣うことになるだろう。ところがここにおいては、それが皆無なのである。こんなに制約なしでお客さん然としていていいのだろうかと、としばしば思った。
甘やかされすぎだろう。でも、いつもいつも、親切にしてもらった。その記憶しかない。
ジルが亡くなった年(2016年)の7月。改めて子供達を連れて行き、ジルのお墓参りをしたのを皮切りに、それ以降2017年、2018年、2019年と連続して夏には必ずベルギーに帰っている。
というのもジルがいない今、それが以前にも増して本当に大事なのだ。
子供たちにとっての「私たちはベルギー人でもあるんだ」「家族がベルギーにいるんだ」と言う認識を、絶対に途絶えさせたくないからである。加えて家族にしても、ジルの面影がくっきりと残る娘たちの成長を見ることが、少しでもジルの不存在を埋めること、慰めにならないだろうか、と思っているから。
ところが残念ながら昨年の2020年はコロナ禍で渡欧が叶わなかった。1年空いただけでも「大きくなったね!」となるのに、このままでは今年もそれが叶わず、次に会えるときには3年くらい空いてしまうことになるのか・・。
よりによって、この”ジルが亡くなって5年”と言う節目にそれが叶わなかったのは本当に残念だ。
ただ、日本のLINEのようにあちらでポピュラーなWhatsupアプリを使い、家族の間で何かあると頻繁に写真や短いメッセージのやりとりをしている。ごく最近では、4月4日のイースターに向けて、たくさんのチョコレートとエッグ型のおもちゃ、鬼滅の刃フランス語版の4〜6巻が送られてきた。同時に私向け(!)に、大好きなチーズとワインを送ってきてくれた。
イースターは日本ではまだマイナーだが、もう一つ、12月になるとサン・ニコラという子供のためのお祭りがある(クリスマスの”サンタクロース話”の起源になったと言われている)。その時もたくさんのスペキュロース(生姜味のクッキー)やおもちゃを送ってきてくれる。
チーズやワインが入っていることに、子供達が甘やかしてもらっていると同時に、私もセットになっていつまでも甘やかしてもらっていることが表れている。
ジルはお姉さん二人、妹1人の中の黒一点。真ん中という位置もあってか、何か家族で話し合うべきことがあるとイニシアチブを取って、解決策を考えようとしていた。いつもアクティブな役回りを買って出ていたと思う。それだからこそ、ジルの喪失はこの家族にとって、とても大きなものだったと思う。それは計り知れない・・。
普段は冷静で、ジルが亡くなったときもつつがなくいろいろなことを推し進めてくれた家族だったが、あの年には「怒っている・・。すごく怒っているの。家族をdestroyして」と、ふとしたときにつぶやいていた。
私はというとジルが亡くなった時、あまりのことに怒りはすぐに湧いてこなかったのだが、初めて怒りを感じたのは、彼らの打ちひしがれた姿を目にしたときだった。
私の家族をこんなに傷つけた。ひどすぎる、と。ジルを取り戻すすべのない、取り返しのつかない家族の本音を通してやっと、私自身の中にも怒りらしい感情が湧いてきたのだった。
私にとってはたったの7年しか知り得なかったジルだけれども。
家族にとっては46年間、ずっとそばで見ていた頼りになるジルだったのだ。赤ん坊の時から、子供の時から、やんちゃな時代も。ずっと見てきていた立場からすると、時の重さが違うのではないかと思ってしまう。亡くなってからたった5年が経っただけで、知ったつもりでこうして動いている私は、張り切りすぎじゃないか。饒舌すぎやしないか。ジルの人生の長さに、ちゃんと見合った重さのある行動ではないのではと、心配になったりもする。
でも・・優しい家族は昨日のブログでアップした「追悼ビデオ」を喜んでくれた。ありがとう、と言ってくれた。「辛すぎて何度もは見られない」もしくは「とめどなく見てしまう」などの率直な言葉を寄せてくれた。
ジルは子供の頃から優しかったらしく、しばしばお義姉さんたちが語るこんなエピソードがある。ジルがオレンジを食べていたので「少しちょうだい!」と言ったら、はいどうぞ、と全部を渡してくれたということだ。ジルにはそういうところがあった。
私とは大人になってからの出会いでケンカも少なくはなかったけれども、いざという時は、物理的にも時間的にも、私にも家族や友達に対しても、決して何かをケチることのないのがジルだった。私が仕事で落ち込んでいるのを見て、「話を聞くから」とわざわざ通勤にそのまま寄り添って、途中駅のカフェでじっくりと話を聞いてくれたこともあった。
ジルが亡くなって、ひとつでもジルにとっていいことがあったとすれば・・おそらく物理的な制約なく、みんなのことを好きな時に見守っていられることだろう。魂だけになれば、瞬間移動も、同時にいくつかの場所に現れるのも、可能なのではないか。12時間もの時間をかけて、日本とヨーロッパの間を飛行機で飛ぶこともない。コロナ禍を気にすることもなく、いつでもその時々に応じて、必要な誰かのそばにいるはずだ。
せめてそう信じたい。
ジルが亡くなったのが現地時間で午前9:11。日本時間の午後5:11。
この時間をめがけて、今日は家族から続々とメッセージが届いた。
「あなたと子供達の事を考えているよ」という暖かいメッセージが。
いつも自分たちのことよりも、私たちのことを一番心配してくれる、優しい家族から。
最後にその「追悼ビデオ」にも挿入した姉妹3人からのメッセージをここに。
「この世界、そしてすべての文化に対してオープンだったジル。
正直で優しく、情熱的で寛大で、平和主義者でした。
いつも一生懸命で、愛していたのは自然、静かなひととき、みんなと楽しむパーティー・・そのどれも。好奇心が強く、ユーモアに溢れた人でした。
家族全員・・二人の娘、妻。そして父、母、姉妹、姪。家族同然だった親友たちの元を。
彼は去ってしまいました。私たちの中に、計り知れない空白を残しながら。」