故ジル・ローランを偲んで

A blog to remember Gilles Laurent, who died in Brussels Attack in the middle of making his film about Fukushima / this blog is organized by his wife Reiko Udo

ジルとの不思議な旅 ② 好きな色はネイビー

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ある日の仕事現場で。モデルが来る前にダミーとしてカメラマンさんに撮ってもらっていた写真。

 

Vol. 2 好きな色はネイビー

 

突然のテロで夫を失くす。

想像だにしなかった出来事が振りかぶった直後、実は私は「今の仕事を続けるのは無理かもしれないな」と思った。なぜなら、私の世界が一瞬にしてモノクロームになってしまったからだ。

 

私は新卒以来、S出版社の会社員。

入社以来いくどか雑誌名が変わる異動はあったものの、一貫してファッション誌の編集をしている。テレビドラマなどで描かれる世界では随分と華やかで、ハードワークと皮肉が飛び交う職場のように描かれていることが多いが、あれはちょっと大げさ。実際はそんなにゴージャスに着飾らず、個性的だがおしなべて良識的な人が集まっている(?)職場だと思っている。

 

ただ、日々モデルさんや時にはタレントと呼ばれる方に実際にお会いし、言葉を交わすこともある現場。よく考えるとすごい場所にいるなぁ、と思うこともある。そしてそんな現場で連呼される言葉ナンバーワンは、女性誌の現場らしく、幾つになってもどの雑誌であっても、「可愛い〜!」である。

実際に“可愛い”アイテムを見た時。そしてそれが実際にまとわれた時の写真をチェックする時。地道な作業ももちろんある仕事だが、キラキラしたものを目にしたり、胸がワクワクしたりする瞬間は少なくない。

 

けれども、私の世界はあの時、一瞬でモノクロームになってしまった。

一気に夜の帳が下りた状態になってしまった。

 

こんな心の状態では色の違いも分からないだろう。ましてや無邪気に「可愛い!」なんて何かに向かって言える気持ちがまた湧いてくるのだろうか。

それにこうなってしまった私の経歴・・みんなだってもう、どう声をかけていいか分からず、扱いづらいのじゃないか。そんな風に思ってしまった。

 

 

だがとにかく、石にしがみついても「仕事だけは続けなくては」と思った。

 

というのも、私はすでにその時点で、随分と“放浪経歴”のある会社員となってしまっていたからだ。

2006年から1年と2ヶ月、「自己啓発休業」という会社の制度を使って、イギリスはロンドンへ遊学をした。そして2010年春から産休に入ってそのまま育休はベルギーで過ごすのだが、途中もう1人出産し、なんと復帰なしの連続での育休取得を許可してもらったため、会社に戻って着たのは2013年の秋だった。

すでに、合計で5年近くもの間会社を留守にしているちょっと“変わった人”なのだ。ここでまた理由が理由とはいえ、その“変わった”経歴をこじらせて「1年間休みます」と言うことはできない・・。そう思った。

 

そしてこのテロが起こった時点で、経済的に子供2人を養っていくには、とにかく働き続けるしかない、とも強く思った。

というのも、ジルはやはりどこか自由人で、生命保険なるものに未加入だった。勧めたこともあったが「そうやってすぐに人はセキュリティーを求めるんだから」と、一蹴されてしまっていた。そして彼には、映画の製作資金を少し貸していたくらいだから貯金もないと思っていた(しかしこれは、後からひょっこり出てきたりもしたのだが)。さらに当時は、ベルギー本国から何かしらの保障が出る見込みもない、と言われていた(これも後から少し覆るのだが。)

 

とにかく当時は、“ないない尽くし”じゃないかとおもった。こうなったらとにかく頑張って行かなければと。

 

 

ただ、前述のようなファッションの現場はもう無理なのではないかと思った。こんな経歴を持ったからには、何かハードボイルドな部署(なんてあるのか?)、もしくは社会問題と向き合う単行本を出す部署などに異動をさせてもらえたら、自他共にその方が良いのではないかと思ったりもした。

 

だがそんな時、尊敬するとある方から至極まっとうなアドバイスを頂く。

 

「会社は部署ごとに家族みたいになるけれども、いざ異動があるとそれも途切れたりするよね。特に日本の場合は部署が家族になることが多い。だから今の職場のままがいい。自分たちと同じように働き続けて、それなのに突然こんなことが起きてしまった、そんなあなたに思いを寄せてくれるのは今の職場。異動してしまったら、包み込んでもらえる雰囲気は逆にないと思うよ。今の場所の方が傷が癒えるのは早いと思う」と。

 

確かに、今までも何度か異動を経験してきたが、以前の居場所は、去る時ほど去りがたいものの、そのうちお互いに縁が薄くなっていき、気がつくと家族が入れ替わっているような現象が起こる。それは経験上知っていた。その言葉に何処かで納得し、私は異動の希望を出すこともなく、職場復帰をした。

 

 

ただ、確か1ヶ月近くは撮影現場には行かず、上司や同僚に代わってもらっていた。あの「可愛い」の嵐の中に飛び込める自信はまだなかったのだ。そしてそれを口に出したわけではなかったのに、それは暗黙の了解のように皆に分かってもらっていたようだ。

 

 

仕事の傍ら、ジルの残した映画を何とか世に出さなくては、と奔走していた部分もあるが、本業にもちゃんと向き合おうともがいているうちに。

 

不思議なことに、夜の帳がだんだんと薄らいでくることを知った。

 

その合図は「ネイビー」という色を着たくなったことだった。

 

「喪の色は黒」とはよく言ったもので、確かに絶望の淵にあるとき、その色は闇の色、黒だ。けれども少しだけ光が差してくると、それがネイビーという色に変わってくる。よく雑誌でも写真になった時に「これは黒ですか? ネイビーでしたか?」と紛らわしくて色校正のときに苦労することもあるくらい、隣同士にあるような色なのだが。

 

 

8月のNHKおはよう日本」での報道を契機として、10月の京都国際映画祭に夫の映画を携えて登壇することになった時。

たまたまその直前のある撮影で、スタイリストさんが集めてくれていた服に、「あ、これ着たい。」と思うものがあった。

シルク素材でボウタイのネイビーのブラウス。出過ぎてはいけない、でも暗くてもいけない。そんな自分の立場にはピッタリなような気がした。普段はこんなことを頼むことはないのだが、ブランドにお願いしてそのサンプルを映画祭用にも貸して頂いた。

 

その時はT.P.O.的にふさわしい色だから選んだ、と思っていたのだが、よくよく考えるとネイビーとは「黒に少しだけ光が差した色」。

 

心に少しずつ、光が差し込んでいたのだと思う。

 

 

そしてここから、私が素敵だと思う色は以前のようにどんどん増えていき、いつの間にか何もなかったように、現場で「可愛い!」を連発できる人間に戻っていた。

 

そして今となっては家の中で、10歳と9歳の娘と。あの頃よりもずっと趣味も審美眼も口数も増えた子供達と一緒になって、あらゆるものに対して「可愛い!」を連発している。ワクワクとともに生きている。

 

あのときそれしか選択肢がなかったとも言えるけれども、踏ん張ってここに居て、良かったと思う。

 

昔からネイビーには好感を持っていたけれども、夜の帳からの復活を示してくれたあの時以来、特に私の好きな色となった。

 

そういえばジルの好きな色でもあったな、ということを思い出す。