故ジル・ローランを偲んで

A blog to remember Gilles Laurent, who died in Brussels Attack in the middle of making his film about Fukushima / this blog is organized by his wife Reiko Udo

ジルとの不思議な旅 ④ 記憶の”引き出し”はどこに

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2013年11月、東京にて。2、3ヶ月ぶりに会った長女がフランス語を忘れており、

愕然としていたジルだが・・そのころの長女の笑顔。何となく複雑なものを感じさせる。

 

Vol. 4 記憶の”引き出し”はどこに

 

人はどうやって”バイリンガル”というものになるのだろう。

 

20歳前後になったハーフの子に聞いてみると、「頭の中に箱が二つあるんです。場面によって、もしくは相手によって、こっちの箱から言葉を出す、もしくはあっちの箱から言葉を出す・・そんな感覚」なのだそうだ。

 

面白い。

頭の中に”言葉の入った箱”が2つあるんだ!と感心した。

 

ベルギーに住んでいたころ、日本人ママの集まりで、似たような境遇(父親がヨーロッパのどこかの国出身、母親が日本人)にあるお兄ちゃん、お姉ちゃんたちをたくさん見た。

 

日本人のママが子供に何かを告げる。子供がその内容をパパに告げる時には、ちゃんとパパの母国語に自然と変換して喋っている、そんな光景を。

最初からそんな環境に生まれてしまえば、「ウチにはどうして2つの言葉があるの?」なんて、その特殊な入り口に疑問を抱くこともないのだろう。

 

子どもをバイリンガルにするには、躊躇せず、徹底的に、それぞれの親がそれぞれの母国語で話しかけることだという。でもそれは単に言語を多く覚えてもらえれば、という目的ではないと思う。それぞれの親が、自分の自然な感情を一番込められる言葉で語りかけるなら、それぞれの母国語になるのが当然だし、それを一生継続できれば素敵だからだ。

副産物として、両方を覚えることで、将来はどちらの国でも不自由しない、またそれぞれの祖父母や親戚ともうまくコミュニケーションできるようになる。何れにしても、それがベストな方法だ。

 

ベルギーに移り住んだ時、長女は0歳だった。

生まれた時から、私は徹底して日本語で話しかけた。

そしてジルも、徹底してフランス語で話しかけていた。

 

長女が3歳になるころ、確かにどんどんその先輩たちのように、2つの言葉を自然に、自在に操り始める様子が見られた。

 

 

今でも鮮明に覚えているのが、長女が3歳の頃のいくつかの場面。

 

私が保育園に迎えに行くと、日本語で「ママ、どこ行っていたの?」と聞く。私が「お仕事してたんだよ」というと、うなずいてすぐ隣にいたお友達の男の子に、'Elle avait été au travail.(ママはお仕事してたんだって) などと即座に雑談をしていた。

 

また、私が羊のことを「えっと、これはムートンだよね」とカタカナ日本語で発音すると、「ママ、違うよ。ムゥトンッだよ」と、口をすぼめて突き出しつつ、フランス語の真のou(ウー)の発音を教えてくれたりしていた。子供の耳はすごい、と思った。

 

また、さらには英語を解してるの!?と思えたこともあった。私とジルの間で話す言語は、(どちらも相手国語に自信がないことから)もっぱら英語だった。

ある日、車の後部座席で長女がぐずっていたのを目にして、私たち夫婦が英語で"She is very tired. ""Yes, she must be.. ."などと囁き合っていた。すると「わたし、つかれてないからね!! うえ~~」と泣き出し、ますます機嫌を悪くしたことがあった。長女のその反応に、思わず2人で顔を見合わせた。

夫婦の間でよく出てくる言い回しなどは、英語でも理解しているようだった。

 

しめた!

 

このまま日本語、フランス語、英語の3つ全てが分かるようになってくれたら便利だなぁ、教育費を節約できるし、と目論んでいた。

 

だがしかし、その絶妙なバランスは、日本に帰って来たときから少しずつ崩れ始めてしまっていた。

 

ベルギーでは「日本語=一番そばに居るママの言葉。大事!(さすが、母語とはよく言ったもので・・)」「フランス語=パパの言葉。加えて周りのみんなが喋ってる。大事!」ということで、両方が大事だということが、直感的に分かっていたのだろう。

 

ところが2013年の夏、ジルを除いて一足先に日本に帰って来て、数ヶ月後にジルが合流した頃。日本の幼稚園にも通い出しており、さらにはパパも不在という状況が数ヶ月続いてしまっただけで、長女の口からフランス語がいつの間にか出なくなってしまっていた。

 

ジルと数ヶ月ぶりに日本で再会した時、フランス語で言われることはなんとなくは分かっても、それに対して答える言葉は日本語になっていたのだ。

 

その時のジルのショックは大きかった。

大げさに言うと、まるで記憶喪失の恋人に会ってしまったかのように、愕然としていた。

 

なんとかフランス語を・・と以前のように話しかけてみるものの、長女自身も首を傾げながら日本語を出す。ジルにとっては、もう環境そのものが文字通りの”孤軍奮闘”となってしまっていた。

 

「なぜフランス語でしゃべらないの?」と私が聞くと、う~ん・・と一瞬考え込んだような顔をしてどこかを見つめながら「引き出しが、あかないんだよ・・」と言っていた。

 

そうか。脳の中に入っているのは、まだ小さかったからか、”引き出し”なんだ・・と思った。引き出しにネタを貯めている途中だったのだろう。まだ”箱”までにはなっていなかったのだ。

 

それでもなんとか、フランス語に接する機会を増やそうと、ジルはフランス語の歌はことあるごとに聞かせていたように思う。

語学には歌がベスト。ましてや、子供にとっては。

 

↓ そのころのビデオがこちら。撮影はジル。

youtu.be

 

 歌はともかくも、相変わらずジルが話しかけるフランス語に対して、答えは日本語ということが多かった。それでも彼らが日常的にフランス語のシャワーを浴びていること、意味を解していることは圧倒的に救いだった。

 

 

ところが本当に残念すぎることだが・・。

日本に来てから約2年ほどで、ジルは亡くなってしまう。

 

それを境に、家庭内に”自然なフランス語”が流れることはなくなった。

 

でもそれではもったいなすぎると私は焦った。

いま使わなくても、彼女たちの母国語の一つは、そして親戚の半分が話す言葉はフランス語なのだから。

以来、なんとか試行錯誤しながら、折々にフランス語を習い事として受講させている。

しかしやはり、”習うフランス語”だと、どうしても外部にあるものにはなってしまう。本人たちの発音も、最近では随分日本語訛り、カタカナ風。

成長した分、アルファベットや綴りには昔よりも対応できても、喋るとなるとほぼ使えない状態。

 

あのころ、私の「ムゥトンッ」の発音を正してくれた長女はどこに行ってしまったのかと、悔しくなってしまう。一切本人のせいではないことだから、なおさらに。

 

元気に明るく育ってくれているのだから、ほぼ日本語オンリーであろうと多くは望めないのだが、我が家には”途中で頓挫したプロジェクト”がある・・そんな風に感じてしまうのだ。

 

 

ところで1年ほど前、私自身にこんなことが起きた。

年度が変わることもあり、当時4年生と3年生になる子供たちの、入学から今までの小学校の書類や作品、宿題、教科書などを整理していた。残したいものは残し、もういらないと思うものは処分し、とより分けながら”小学校”という世界にズブズブと浸っていたからだと思う。

 

一連の作業を全て終え、「ふぅ〜っ」と、長女用と次女用の二つの箱をパタンと閉じた瞬間。唐突に、私の頭の中に、とあるメロディーが歌詞付きで流れ始めたのだ。

♪明けゆく、朝の 陽に映えて~~ くれない匂う帆柱の〜 

 

一瞬なんだろう、と訝った。帆柱?・・帆柱といえば、私の生まれだった地元にある山だ。

もしやこれは・・と奇妙な思いに駆り立てられ、歌詞をインターネットで検索して見たら、やっぱりそうだった。私が小学校4年生の途中まで在籍していた小学校(その後転校したので)の校歌だった。

 

市内でだが引っ越しもし、歌う機会も2度となかったもの。そこを離れてからは40年以上、ほぼ1度も思い出してなかった、と言っても過言ではないと思う。

 

それなのに・・唐突に、記憶の引き出しのひとつが開いたのだろう。

 

小学校に上がって何となく授業形態に馴染めず、落ち着かなかった気持ち。それでも体育館では思い切り声を張り上げて、シンコペーションのリズムを楽しみながら校歌を歌っていたこと・・そんな思いも、歌の正体を突き止めた次の瞬間から、ふわりと追いかけるようにフラッシュバックして来た。

 

”小学校”にまつわることがらに頭をかなりの時間漬け込んだことで、私の頭の中の、私も存在を知らなかった”小学校低学年時フォルダ”、その引き出しのボタンが押されて、弾みでメロディーが流れてきてしまったようだ。

 

脳の世界は面白い。

予測のつかない記憶の取り出し方をすることもあるのだな、と思った。

その存在すらも忘れていたようなものが、ある日唐突に、脳の外側へポロン、とこぼれ落ちてくることもあるのだ。

 思い出という漠然としたものではなく、歌のメロディー、一連の言葉といったピースだけが。そしてそれは、本人がコントロールしてそうなるものではないことも、不思議。

 

 

子供たちの脳の引き出しには、いまの時点でも実は開けずにとっておいてあるものが、色々とあるのではないかと想像する。

恐らく、フランス語の単語だけではなくて、パパとの小さな思い出の断片も、いろいろと。

 

もしかしたら記憶は”薄れる”などというものではなくて、単に”引き出し”に入っており、取っ手を引く機会がないだけなのであったなら。

いつかふとした瞬間に、その引き出しが開くこともあるのだろうか。

 

その時フランス語の音の響きの原体験とともに、パパの愛情も、追いかけるようにこぼれ落ちて来ればいいなと思う。

 

 

<追記>

アップしたビデオは、実はたまたま今日発見したもの。一緒に見た長女が、当時の発音の良さに「くやしい・・(自分はこんなに歌えていたのか。今は・・)」と呟いていた笑。