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故ジル・ローランを偲んで

A blog to remember Gilles Laurent, who died in Brussels Attack in the middle of making his film about Fukushima / this blog is organized by his wife Reiko Udo

2016/04/22 ベルギー誌 Le Soir の記事

彼の人生について、とても詳しく書いてくれています。Le Soirはベルギーのフランス語圏で発行している新聞です。

They depicted really well about his life.

'Le Soir' is the newspaper published in the French-speaking part in Belgium.

 (translated into Japanese by Mrs. Emi Ohara 日本語対訳:大原映美さん)

 

http://www.lesoir.be/1188637/article/actualite/belgique/2016-04-22/portraits-des-victimes-du-22-mars-gilles-laurent-il-avait-fait-sa-vie-un-voyage

 

オランダ語圏の新聞De Standaardも同じ内容で出してくれたようです。

This is in Dutch
http://www.standaard.be/cnt/dmf20160421_02251219

 

<日本語訳>

3月22日の犠牲者のポートレイト:ジル ローラン、旅で彩られた人生

死亡者リストの裏には、壊された前途、死別の悲しみにくれる家族、耐え難い虚無感、愛する人を失い、果てしない悲しみがある。そこで『Le soir』と『De Standaard』は協同して3月22日の犠牲者のポートレートを掲載する。

 

3月22日、ベルギーはその中心地で衝撃を受けた。地下鉄マールベーク駅とザベンテム空港で、我が国の歴史上最悪のテロ襲撃により、32名が命を落とした。死亡者のリストの背後で、名前、顔、そして急に立ち止まってしまった物語があった。『Le soir』は『De standaad』と共に、この襲撃での犠牲者全員のポートレートを作成することとした。思い出や中止された進行中だったプロジェクト、そして人生の断面を描写すること、つまり、単なるリストや人数ではなく、犠牲者それぞれの人間性を取り戻させるために。

 

 ジル ローランはマールベーク駅で命を落とした。3月22日、彼は自身初めての映画の編集の最終仕上げをする予定だった。だがテロリストたちは彼に別の決定を下した。

 

 いつもの朝と違っていた。今日4月22日から一ヶ月前のちょうど同じ日の朝、ジル ローランは彼の初の映画のフィルム編集を終わらせなければならなかった。20年近くサウンドエンジニアとして様々な撮影セットで活躍したのち、46歳で映画監督になったばかりだった。

 

 あの日まで、ジルは映画に関わる自分の仕事に情熱を注ぎ続けていた。

特に:メキシコ人 カルロス レイガダス(カンヌ国際映画祭の常連であり、『Japon(ハポン)』や『Post tenebras lux(闇のあとの光)』等で知られる)や、

アルゼンチン人のディエゴ マルティネス ヴィニャッティ(『La marea』、『La cantante de tango』)、パレスチナ人のカマル アルジャファリ(『Le toit』)、イラン人のマルジャン サトラピ(『Poulet aux prunes(チキンとプラム)』、中国人のワン ビン(『Le fossé(無言歌)』、フランス人のステファニー ヴァロアット(『Caricaturistes』、『fantassins de la democratie』)、ベルギー人とカナダ人カップルのドニミク アベル&フィオナ ゴルドン(日本ではアベル&ゴードン)

(『Rumba(ルンバ!)』、そしてベルギー人のナタリー ボルジェール(『Bons baisers de la colonie』)。

 ジルはその自由な魂の精神的な糧として、仏教を解し、武道や氣之道の愛好者だった。

 

 長年映画の技術者であったジル ローランは、最終的にアーティストのトップレベルにたどり着いたところで、その短い人生を終わらせることとなった:まさに詩的なアプローチをする映画監督やクリエーターとして。

 監督デビュー作として、穏やかながらも情熱的な声のこの大柄なブイヨン人は、福島の大災害後の未来を題材に選んだ。

 ジル ローランは都心にほど近く、燦々たる原子力にも影響を及ぼした津波により5年前に石化したこの「見放された土地」へ数ヶ月前撮影に赴いていた。

 

 当初は松村直登氏のポートレートを中心としたドキュメンタリーを検討していた。ジルはプロジェクト用のノートに「ありふれた一人の人間が、福島の原子力事故により、そのたぐいまれなる個性を示すこととなった」と記述している。

 

 大災害の後、松村氏は避難を断固拒否し自宅にとどまる決心をする。まるで汚染された避難場所での孤独なロビンソンクルーソーのような彼は、彼の村である富岡町をあたかも聖書の物語のノアの箱船のごとく変えたのである。その後孤独の中、見捨てられた動物達(牛、犬、猫、ダチョウなど・・・)の世話をし、餌を与え、屠殺されないようにするために、ほとんどの時間を費やした。

 

 

 自由な(※)被爆者

自由な(※):”peinard”は“のんきな、おだやかな”という意味のようですが、

カティによると松村さんの行動が、他の人の意見に惑わされず自由に行動しているということを表しているとのことです。



ジルのノートには、エコロジストとしての切望や原子力におけるロビー活動システムに対する怒り、そして自然へのあふれんばかりの敬意からくる関心が綴られており、このプロジェクトにおける彼独自の側面が明らかにされていた。

 

「土地との絆という概念は、私の根本的な関心ごとの要因の一つである。この強迫観念がすでに日本を発つ前から、ブリュッセルを離れアルデンヌにある故郷の村へと私を近づけるように促していた。」とジルは2015年に書き留めている。

 

 このドキュメンタリー映画を作成するには犠牲が伴う。ジルはそれを承知で、カメラマンとサウンドエンジニアだけを連れてこの撮影に自ら身を投じることにした。ごくわずかな予算だったにも関わらず。映画作成に関わるブリュッセルビデオセンター(CVB)のディレクター、ミシェル ステュヤールは、ジルがこの映画に自らの貯金を当てていたと打ち明けた。

「ドキュメンタリー映画の作家たちは映画を糧として生きていない。彼らにとって映画を作るということは、自らの欲望と選択に関わる問題なのだ。」

 

 人気の地区サン ジョスの中心地にあるCVBが、数週間前からジルのセカンドハウスとなっていた。2013年より、東京で日本人の妻玲子とりりとすずの二人の幼い娘たちと暮らしていたジルは、毎日スカイプで家族と話していた。昨年の冬から友人でプロデューサーのシリル ビバとマリー エレン モラとともに、月曜日から土曜日まで一日中過ごしていた。

 

 フィルム編集担当のモラは、ジルが日本から持ってきた40時間にもわたるラッシュ(未編集フィルム)をビューアーで見るところからずっと彼をアシストしてきた。今後は彼女がシリル ビバの協力のもと、このジルの映画を完成させるという繊細な仕事を担当する。彼女の話から、要求が多く、勤勉、思慮深く感じの良い、そして質問の多いジルの思い出が蘇る。

また先人たちに習い、優れた作品を世に出そうとしていた。

 「ジルは頑固でした。映画作家の中から高度な内容を参照するのが、彼の得意とするところでした。そしてジルには哲学者のようなところがありました。私はジルが自分の映画に”自由な被爆者“と名付けるんじゃなかってよく彼に言っていたんです。ジルはすごく気に入っているように見えましたけど・・・。」



 「見捨てられた土地」は見捨てられた福島の道が撮影された、長いワンカットで始まる。まるで(映像の詩人と呼ばれる)アンドレイ タルコフスキーやその作品『S.T.A.L.K.E.R』を彷彿とさせる。マリー エレーヌ モラはジルが汚染地域を人物のように描きたいと言っていたのを覚えている。そうすることで素晴らしい映像に、世界の終焉のような非現実的な雰囲気が生まれる、と。

 

 ディエゴ マルティネスは1997年にINSAS(国立高等舞台芸術学校)の音専攻でジル ローランと出会った。

 「ジルは耳だけでなく、目まで素晴らしかった!それに美への敬意まで持っていた。当時、私は彼に「君は“言いたいこと”がある。だから監督専攻に変更すべきだ。」と言い続けていた。そう言われたことにジルはとても感動していたようだ。ジルの奥底の何かが一度に受け入れたように思ったけれど、当時彼は積極的には動かなかった。」

 

 1997年、当時ジルとディエゴはそれぞれ27歳と26歳だった。特にタンゴや料理、政治討論など同じ趣味があり、すぐに仲良くなった。その後、サッカー、リオネル メッシとジョゼップ グアルディオラ時代のFCバルセロナは彼らにとって、スポーツというより美術であった。

 

 ジルがディエゴの4本の映画に協力するという形で、芸術的なコラボレーションも生まれた。ディエゴの初の長編『Nosotros』のために、ディエゴはジルをブエノス アイレスへ連れて行った。撮影は2ヶ月近く続いた。

 「僕たちは毎日がむしゃらに働き、毎晩パーティをしていた。ミロンガ(アルゼンチンタンゴのダンスパーティをする場所)で飲みながら踊る人々を眺めていた。僕たちは人生は美しいと思い、自分たちは恵まれていると気づいたんだ・・・。」

 

 パルママヨルカ中央アメリカに立ち寄りながら、ブエノス アイレスから東京へ・・・ジルは旅人だった、と旧友のブノワ ドゥ デケール。

「ジルは情熱的で、あらゆることに興味を持ち、現状に満足したがらなかった。旅好きで、時には物質的な快適さをどうでもいいと思っているところがあった。自分の理想の状態でいようとしていた。旅先で毎回深く影響されていた。だからアルゼンチンから戻ってきた時には、タンゴやアルゼンチンの小説家にとりつかれていた。そして日本に行った時には、東洋哲学に敏感になっていた。カメレオンみたいだったし、どこに行ってもくつろいで過ごすことができていた。」

 ブノワとジルは1990年代にスペイン語の授業で知り合った。

「当時、ジルHORECA(※)での仕事を志望していた。僕たちにはラテンアメリカ好きという共通点があった。ジルはラテンアメリカの歴史や文化、そして政治に興味を持っていた。」

HORECA(※):ホテル、レストラン、カフェを一つにした言葉のようです。

 

 スモア川に沿って

 

  ジルは快楽主義だった。

「懸命な楽天家。」とナタリー ボルジェール。彼女は昨年の12月、最後にあった時、ジルは幸せだったと強調する。

「ジルは映画監督を本当に楽しんでいると言っていた。きっと冒険の始まりだと思っていたのだと思う。」

 

 フレッド メールとともに映画『Rumba』の音声を担当したドミニク アベルは、ジルのプロフェッショナルとしての顔とは別に、「ジルはいつも優しく微笑んでいて、フィオナとぼくにとって彼は勇気づけられる存在でした。」

 快楽主義な微笑みの裏には、行動的な面も潜在していた。「ジルは自然保護に関して特に高い意識を持っていた。彼にとって自然はとても重要だった。ぼくからすると、いまだに自然児のままでいるようなひとだった。」とシリル ビバ。

 

 さらにディエゴ マルティネスは、「ジルは環境汚染を本当に恐れていた。自然により近い生活に憧れていた。そしてこの自然への愛情は、結局のところ故郷のブイヨンにたどり着いていた。」と。

 

 ジルはブイヨンで3人の姉たちに囲まれて育った。両親はホテルレストランを経営していた。ブイヨンに帰省するのが好きで、いつもスモア川に沿ってずっと散歩をしていた。

3月31日、ジルの家族や友人たちはブイヨンで、彼の妻玲子にならい、仏教の祈祷で哀悼の意を表した。

 

 3月22日、マールベーク駅で生涯を終えた。ジル ローランにとっては全く終わってはいないが、彼の映画は近いうちに一般上映される名誉により、知られることになるだろう。おそらく本当に映画化されるところまでたどり着くだろう。彼の娘たち、りりとすずにとってこの映画が、少なくとも彼女たちの父親の精神的であり感情的な遺言として鳴り響くことだろう。