ジルとの不思議な旅 ⑩ ”忖度”なんてしてはいけない
今ならもう、私の知っていること、ある”事実語り”を行ってもいいのだろうか。
これも、ジルと知り合ったからこそ私が見聞きすることになった、”不思議な旅”の一部だから。
(注:後半はあくまでも私の”推論”であることをお断りしておきます)
時は2016年。
映画「残されし大地」が3.11に公開されて1ヶ月あまりが経った、4月18日。
この映画にまつわる、けれどもこの映画そのものには何の影響も与えなかった、ある大事件が起きた。
当時の首相夫人、安倍昭恵さんが自身のFacebookに、この映画の公式ウエブサイトをアップしたのだった。
当時、国会で森友学園の問題が盛んに論じられており、昭恵さんが盛んに使用していたfacebookを自粛して1ヶ月ほど経った頃だったため、久しぶりの更新というか動向はニュースとしても報じられた。
この時の様子について、毎日新聞の記事を引用。
安倍昭恵夫人1カ月ぶりFB更新 文章記載はなし - 社会 : 日刊スポーツ
そもそも、なぜ昭恵さんがこの映画をいわば”おすすめ”として上げてくれたかというと、配給プロデューサーを務めてくれた奥山和由さんが、それに先立って昭恵さんをプライベート試写に招待していたからだった。
奥山さんがその数ヶ月前、とあるパーティーで昭恵さんに初めて遭遇し、熱心に誘ってくれたらしい。言わずもがな影響力のある方だから、その宣伝力を、お力を借りたかったということになる。
私自身はこの試写には居合わせていないが、当時宣伝を手伝ってくれていた配給会社のスタッフによると、昭恵さんはご友人や側近かといった方達、7〜8人と連れ立って来てくださっていたらしい。特に感想のようなものはおっしゃったのかどうか・・も分からない。
実はこの映画「残されし大地」のいわば主人公、松村直登さんと昭恵さんには、そこから遡るゆかりがあった。
松村さんの富岡町の自宅には、そこを訪れたあらゆる著名人のサインが壁のいたるところに発見できるのだが(映画の中でも、その一部は出ている)、その中に「松村さんへ 愛 安倍昭恵」という古いメッセージもあるのだ。
昭恵さんがいらした当時はまだ完全に富岡町は”ひとが残っていてはいけない場所”であり、いわば政府の指示に背いた形で、松村さんのことを聞きつけ、応援にかけつけていたという形になる。おそらく純粋に、「残された動物たちを世話してくれて、素晴らしい」という思いだけで、サインを残していかれたのかなとは思う。
松村さんはそんな昭恵さんの人柄と立場の両方に気を遣い、「ここは映さないで」と夫に頼んでいたらしい。
また、夫の代わりに私が電話で撮影についての打ち合わせをしていた時、松村さんがこの昭恵さんの一件に触れて、こんなことを言った。
「昭恵さんはいろいろなところに呼ばれると顔を出して、それはいいんだけど、その結果、中には変な団体に変なふうに名前を利用されちゃったりもしてるから。気をつけなくちゃいけないんだ」と。
首相府人らしからぬ奔放な雰囲気に、ファンもいればアンチもいる・・。それはなんとなく、全体像として浸透している部分でもあったが、そのfacebook事件の時に、その様子が改めてはっきりと見て取れた。
昭恵さんがアップしたのは、映画「残されし大地」の情報のみで、そこに付随したコメントはない。けれどもその久しぶりに”動きを見せた”ことにネット民は大きく動き、ファンからと、アンチからと、真っ二つに分かれたコメントがものすごい勢いで書き込まれてきたのである。それはまさに、嵐のようだった。
ファンの方は、「逆境にも負けず頑張って!」「わかっています、応援してます!」というものだし、アンチの方は「こんな時にシネマ情報なんていらねーんだよ!」「国会で説明責任を果たせ!」と言った論調・・。
完全に、見事なまでに、映画そのもののことは置いてけぼりにされていた。
たまに映画に言及しているコメントがあるとすれば、それは「”残された大地”って・・あの森友学園の土地のことですか!?」と揶揄するもの。そうなってしまうかぁ、と、1本取られたような悲しい脱力感があった。
そして、このfacebookの更新は、そんなファンとアンチの”戦い”に揉まれただけで、この後に映画の動員が目に見えて増えた・・ということは残念ながらなかった。
せっかくの奥山さんの努力があまり功を奏しなかったとなるので、そこのところだけ、奥山さんに申し訳ない気持ちがした。
私自身はというと、昭恵さんに対してこの経緯からして”お世話になった”という事実が残る。
松村さんのファンだったからというのもあるかもしれないが、多忙な中、映画「残されし大地」を見て「いい映画だ」と感じたから、お勧めとしてアップしてくれたのだ・・ということには、ありがたいなと思う。
しかもそろそろシェアしないと、遅きに失してしまう、という気持ちもあったのかもしれない。(コメントなしで1ヵ月ぶりにこの映画のサイト"だけ"を唐突に共有したのだから)
”呼んだら来てもらった”ということに関しては、この映画と、森友学園も、時期的にもそうだが一つのラインに並んでしまうのかなとも思い、他人のことだけを責められないなと思う。
けれどもこのことを通して、昭恵さんという人物と、そこを通して展開された先の社会問題との構造図が、推測の域は出ないけれども、一気に見えてきたというところもある。
先ごろ、ついに「赤きファイル」が公開に。
亡き夫の遺志をなんとか継いで・・と頑張る赤木さんの妻がいる。
「え? ”亡き夫の遺志を継いで・・”? このフレーズどこかで聞き覚えがある」と私の心がつぶやく。それに突き動かされて、一心に動いている姿。それも身に覚えがある。
だから余計に、このニュースを見るたびに、私も何かを書かなくてはいけないのではないかと二重に突き動かされるものがあった。余計なお世話と知りながらも・・。
ただ、「誰が真犯人か」というのは、最終的にどうしても見えにくいままなのではないかとも思っている。原因の一つは、昭恵さんの純粋だけれども時に奔放すぎる行動。それは私が見聞きしたことからも推測するに、確かなのではないかなと思う。
けれどもその先を作った真犯人は、どこの誰? その真犯人は、この世、もしくはついこの前までの(今もそうか?)日本に一部ではびこる”忖度”という名前の、ネガティブパワーのようなものだと思うから。
変なことを言うと思われるかもしれないが・・。「呪霊」のような、ネガティブな力に冒されてしまった”集団”があったからではないかと思うから。
(注:「呪霊」という言葉は、ご存じ、人気漫画「呪術廻戦」の中の用語)
自らの目的に、昭恵さんのパワーを利用したい人が当時、たくさん居た。それは純粋な目的のものもあったかもしれないし、邪な目的のものもあったかもしれないし、またはそのグレーゾーンのようなものもあっただろう。
「いい土地ですから進めてください」はもしかしたら、「いい場所ですね。頑張ってくださいね」くらいの軽い意味だったかもしれない。官僚の人事権をも政治が握っているような流れの中で、”忖度”と言う名の呪霊が働き始めた。
「これは大変だ。特例として進めなくてはならないのだろう」とある意味、大掛かりな早とちりが始まった。 昭恵さんがそこを訪れた証やともに映った記念写真なんて、当時は日本中に溢れていただろう。人物像に立ち返り、ことの本当の重要度を推し量るべきだった。”忖度”というのは何も調べず、熟慮もせず、ひいては良かれと相手に媚びへつらい、自分を無言で守るために行うことである。
まずはそれが最初のエラー。
そして当時の安倍首相は、おそらくだがその一連のことは把握しないまま「(そんなちっぽけなことに)自分が関わっていたら国会議員をやめますよ」と言ってしまった。それを聞いた理財局は、良かれと思った”忖度”がむしろ自らを滅ぼす”刃”になってしまったことを知り、それを隠す方向に動き出した。
それが2つ目のエラー。
・・・この世で最も間違っているのは、エラーの上塗りだ。
エラーは最初に発見したらそこで明らかにし「御免なさい」を言うことが実は最善の策。これを隠そうとすると、もっと事態を混乱させ、うまくいかないことだらけに。辛くても最初のエラーを陽のもとに晒す・・それが出来ずに、人間的な欲に揉まれる形で混迷を深めて言ったこの問題。”潔く”なれる人が、重要なループの中に居なかった。
そしてそのエラーの上塗りの中に、潔さを主張して、命を落とされてしまった方が居た。
改ざんの指示をしたのは”佐川氏”だと言われているし、そうなのかもしれない。けれどもその佐川氏に、言外でも「自らのエラーに落とし前をつけてくれなくちゃ困る」という暗黙の圧があったのではないか。もしかしたら言葉すらなかったかもしれない。でも、圧があったとしたら、それも見事に呪霊級のパワーだ。
エラーを起こさせた”圧”も真犯人の一人だ。ただ、それがそもそも、特定の人物の形をとりにくい、呪霊のようなものだからたちが悪い。たとえ登場人物そのものは複数居たとしても。
正義は何かということは常に難しいが、ここから得られる教訓があるとしたら、それはやっぱり、”忖度”という名の呪霊に、人間が冒されてはならないということではないだろうか。
隠したくなるエラーは勇気を持って白日のもとにいったん、一瞬でも、晒さないといけない。その方が、誰もが名誉は捨てることになっても、エラーは背負わずに生きていくことができるのに・・。
ところで私は普段、いろいろなことを思いつく中に、「もしかして正しい?」と思うことがあると、足の裏が熱くなるという不思議な習性を持っている。
今朝、赤木ファイルのことをふと考えていたら、足の裏からジェットが出てきた。
別に私が書くようなことは、”暴露”というほどのことでもなく、部分部分で、誰かに知られている話でもある。
けれども改めて、「このことについて書いてみたら」とジルが私にメッセージしてきたような気がしてならなかった。
社会問題への意識は強いほうのジルだったからか。
天国で誰かに会えたのだろうか。
ジルとの不思議な旅 ⑨ 社会でハキハキと喋るということ
今日、NHKの「首都圏ネタドリ」という番組をたまたま見ていたら、1年8ヶ月前に「山梨不明女児事件」として大きく報道された、小倉美咲さんのご家族の話が特集されていた。
次女の美咲さんがキャンプ場で行方不明になってから、もう随分経つけれども、一生懸命にテレビで露出をして娘さんを探し続けるお母さん。そのお母さんに、SNSなどで誹謗中傷が少なからずあったことなども、時折報じられているのを知っている方も多いだろう。
悲しみの中にあっても、気丈に振る舞う・・。
いや、それをむしろはるかに超える形でハキハキとテレビで話すお母さんの姿に、ネットなどでは違和感を覚えた声もあった。それは、「こんな状況にあって、こんな風に話せるわけがない」というもの。
同じような中傷は、伊藤詩織さんにも向けられていたことがあると思う。「こんな被害にあった人が、こんな風にテレビに出て堂々としゃべったり、ましてや笑顔を見せたりなんて、できるわけがない」というもの。だからこの人の被害は本物ではないのではないか、と。
事件の被害者的な立場にありながら、前へと進み出て喋る人に対して、「違和感を感じる」という感想が少なからずあること。でもそれを向けられると、本人はもっと辛い気持ちになってしまうことや、人と人がわかり合うのは結局難しいのではないかと思ってもしまうこと・・。
それは私にも、思い当たるものがあった。
2016年から2017年にかけて、私も随分といろいろなテレビや新聞で語っていた。ジルがなくなった経緯、そして残した映画の話、テロについて思うこと、これから社会がどう変わっていけばいいかと思うことなど・・。
もちろん、その言葉通りに伝えたいことがある、どこから来たのかわからない「使命」というものを感じているからというのも、ある。
でもそれ以上に、「語ること」「表現すること」が思いを吐き出すことにも繋がり、自分が救われること、つながることができることもあると感じていたから、続けていたことだ。
ひどい出来事があったときに、どんな風に社会と関わり直し始めるのがいいのか。
これは本当に、人によるものだと思う。
今日の番組でもコメンテーターの石井光太さんが言っていたが、もうそのことに触れて欲しくもない、そうっとしておいて欲しいという人もいれば、前に踏み出して社会へ提言することを選んだほうがいい人もいる。
それは、どちらがいいとか、どちらでないといけないというものではなく、その人の性格や気質によるところも大きいと思う。
私は昔から、どちらかというと普段はおとなしめでも、「これはちょっとおかしい」ということがあると、正義感などから苦情や不満を”お客様窓口”などに電話をして理路整然と話したりする方だった。いわゆる「活発」な方の部類に入る方だと思う。
実を言うと、ジルがまだ行方不明だった1週間の間に起きたことで、納得のいかないことがあり、その1ヶ月後くらいに日本の外務省や、ベルギー大使館に「どうしてちゃんと対応をしてくれなかったんでしょうか」と苦情を言うためにアポイントを取って、直談判に行った事もある・・。
(それはもうそのとき、誠実な対応をしていただいたので、詳しい経緯はブログにも何にも書いたりはしていないのだが・・。)
そんな私だから、今になって「ああ、私も”活発型”だったんだな」と思う。それと同時に、活発型であるがゆえに、違う方向に誤解されかねなかったんだな、ということを、改めて感じた。
悪気はないかもしれないのだが、私も、こんな風に聞かれたことがあるからだ。
「そんな目にあって、発狂してはいないんですか?」
「最初に姿を見たとき、そんな目に遭ったことのある人には全然見えませんでした」
・・でも、どれもこれも想像やステレオタイプな想像なのじゃないだろうか。
こうなったら、こうなるはずで、そうならない人には違和感を感じるとか、ましてやフェイクかもしれないと思うとか・・。
私の場合はそんなに有名な案件でもなかったので、積極的に中傷されるというようなことはなかったが、あるときインターネットで(やめておけばいいのに)自分の名前をいわゆる”エゴサーチ”して見たことがある。そのとき、私の名前とともに出てくる単語が、夫の名前や、映画の名前などの関連語でばかりではなくて、中にポツンと
「違和感」
という単語があったことに、衝撃を受けたことが一度、ある。
「こんなの出て来たら、気になってますますそこを掘ってしまう人がいるのでは・・」とがっくり。
もうエゴサーチなんて意味ないからやめよう、とも同時に思ったが・・。
「違和感」なら、そもそも私が私自身に対して十分すぎるくらいあるよ!とも思った。
なんの因果でか、こうして大勢の前でテレビや、新聞に向けていろんなことを必死にしゃべっているなんて。そんな自分に少し前まで普通に過ごしていた自分との間に”違和感”を感じないわけがないではないかと。
でも、そんな心のピンチを乗り越えるためにも、こうしていないと私の性質では、息ができないから、活動しているのだけれどもなぁと。
でももちろん、それを避けることで生きながらえることもできる人もいる。それはもう、その人それぞれの生物的なエネルギーによるものでしかないわけだ。
強い、弱いとも関係ない。
小倉美咲さんのお母さんや、伊藤詩織さんのもともと持っていたエネルギーと、だからこその活動は結びついている。それは迷いながらでも自然なことだろうし、ましてや何かを演じているなんてことは決してない。
そしてどんなに辛い経験をした人でも、ハキハキと喋ること以外にも、時が経てばふと訪れる別の状況に、いっとき笑顔を持てることだってあるのだ。
ずっと下を向いて謙虚にしていないと(ドラマで見たような)本物じゃない、なんてことはないんだ。
ステレオタイプに「こんなことがあればこうであるはず」と人の様子を決めつけないこと。
そして、どんな場合においてもひどくマイナスな状況から、どうにかしてプラスの状況に持って行こうとしている人のエネルギーを信じること・・。
そんなことが本当に大事だと思う。
小倉美咲ちゃんの話に戻ると、実は私の次女と2ヶ月ほどしか生まれ月が違わない。
長女であるお姉ちゃんがいるところも一緒。仲良く暮らしていた家族がある日、一人、失われてしまったら、どんな気分になるだろうか。そこのところが、今日の番組では30分の特集ゆえに、胸に刺さるように伝わってくるものがあった。短いニュースで表面的に終わってしまうのとは違っていた。私も想像力が足りなかった、と思った。
1日も早く、見つかって欲しいと思う。
命さえあれば、なんとかなるのではないかと信じて。
ジルとの不思議な旅 ⑧ チワワのみかんちゃん
「みかんが死んだ」
・・そんな悲しいお知らせにフリーズしてしまった今週だった。
みかんというのは、以前、私がこのブログでも書いたチワワの「オーちゃん」
(http://gillesfilm.hatenablog.com/entry/2021/03/18/205951)
の血縁になるチワワで、私の仲良しの友人が飼っていた仔。従兄弟だった。
オーナー同士も仲良しなら、イヌ同士も本当に仲良しで、数日ぶりに会うと、もうそれこそ二匹で1個のボールになってしまうように、じゃれあって遊んでいた。
「もうすぐみかんがくるよ」
そう言うと、おーちゃんはハッとしたような顔をして、決まってドアの方まで走っていって、シルバー色の取っ手を見つめ始め、それがガチャンと動くまでじっと待っていた。実際にみかんが玄関まで到着するまで、動かずにそこにいたくらいだ。
2009年にジルが初めて日本に来たときも、オーちゃんのみならず、みかんも紹介した。私の耳元に残る不思議な発音、「Me-can(み・きゃん)」と呼ぶ独特の声は、ジルが発したものだ。それも今回、久しぶりに蘇って来た。
オーちゃんがベルギーに引っ越して、もう4、5年は経ってしまっていたころだったか。今でも本当に申し訳ない気持ちになるのだが、私はふと思い立って、ある実験をしてしまった。
場所はブイヨンのお義父さんの経営するホテルの3階、義両親のアパート。
どんな反応をするかしらと、「みかん!(が来るよ)」と一言、オーちゃんに向かって言ってみたのだ。
すると、オーちゃんは往時と変わらぬハッとした顔をして、そのアパートのドアまで走って行き、あの頃とは違う丸いクラシックな形のドアノブをじっと見つめ始めた。
犬は、”3日の縁を3年忘れない”というくらいだ。自分が1〜2歳の頃に大の仲良しだった友達のことを、忘れていなかったのも無理もない。
「ごめんね、ごめんね、オーちゃん、違うの。ここベルギーだから。言ってみただけ・・。」
オーちゃんは不思議そうな顔をして、そのうち待つことを諦めた。
犬には通じない冗談を言ってしまったことを恥じた。それと同時に、あんなに大親友だった二匹を、日本とベルギーとで引き離してしまったんだよな、ということにも申し訳なく思った。
そんなオーちゃんが一昨年、11歳で亡くなってしまったことは以前のブログにも書いたが、今度はみかんが、数日前に12歳で亡くなってしまったとの報せを受けたのだ。
白いフワフワした身体に、つぶらな瞳。今こうして何枚か昔の写真を見ても、オーちゃんと兄弟みたいだ。
私が2013年に日本に帰国して、しばらくぶりに職場復帰した頃。
ジルがまだ仕事で来日できなかったこともあり、子供二人を北九州市の実家に預け、私一人で東京で過ごした”2ヶ月”がある。
東京での定住先がまだ見つかっていなかったので、実はそのとき、居候をさせてもらっていたのが、みかんの飼い主さんである友人宅。
私がみかんと留守番をしていて、友人が夕方になって帰ってくるという日があった。
不意にみかんが玄関に向かって走り出した。私の耳にはまだなんの音も聞こえていない。すると見事にその3分後くらいに、友人が帰って来た。
一体、どこのあたりからもう、足音が聞こえていたのだろう。毎日こうやって、早いうちから走り出して、玄関で待機していたのだろうな。
尻尾を振って玄関で出迎えるみかんを、友人は「よしよし」と撫でていたが、実はそこにくるために走り出したのが数秒前ではなく、ゆうに数分前だったことを告げると、友人も驚いていた。
私も、それを目撃できたことが嬉しかった。
犬ってすごい。私たちにはない身体的能力、そしてそこ知れぬ忠誠心を持っていることに、改めて深く感じ入ってしまった瞬間だった。
みかんを思い出すと、もちろんオーちゃんのことを思い出す。そして両方をよしよししてくれていたジルのことも思い出す。
みんな、今となっては、たったの10年やそこらで虹の向こうへと旅立ってしまった。
私は今回、あらためて天国にいるオーちゃんに向かって、「みかん!(が来るよ)」と声を出して叫んだ。
今度は本当。
みかんがそっちにやってくるから、ちゃんと迎えに行って。久しぶりに合流して、また1個のボールみたいになって、遊んで。そしてジルにも、久しぶりだね、オーちゃんよかったねと言って欲しい。
私自身がみかんにもう会えないのは寂しいけれども、「あちら(天国)チーム」が増えて、きっと再会を喜んでくれているのではと思うと、少しだけだが、心が救われる。
みかん、今まで生きていてくれてありがとう。
ジルとの不思議な旅 ⑦ ちょっとクスッとなる10年前の写真たち
Vol. 7
ちょっとクスッとなる10年前の写真たち
Funny photos of 10 years ago
本日は短いけれども閑話休題で、10年前の写真を3枚。
まだ子供がたった一人、長女だけだった頃。
ジルと長女のツーショット、自ずと私がカメラマンで。
(3枚をアルバムから抜粋。)
当時住んでいたブリュッセルのアパートの部屋にて。
おそらくサウンドエンジニアとしての仕事を自宅で行っていたときかな。
ジルの実家のあるホテルにて。定宿にさせてもらっていたお部屋にて。
親指をかじかじ。ロンパース着ぐるみの頃が懐かしい!
フランスを廻った旅行。ノルマンディー地方の、オンフルールにて。
アイスクリーム、何味だったっけ・・。ヨーロッパでは比較的、おじさんも街中で堂々とアイス。
港町らしい街並み、夢みたいで本当に好きで、ずっと忘れない景色。
一連の写真を見てそういえばと思い出すことといえば、このころの長女は、会う人ごとに「お母さんにそっくり!」と言われていた。
ジルなんて、ある見知らぬおばさんに'Tu n'as rien. (You have nothing.)' 、つまり、あなたには全然似ていないわね、なんて言われていたくらいだ。
最初は私の”畑から出てきた”という印象が強かった長女。でもこの後、少しずつ少しずつ、洋風味が増してきて、だんだんとそんな風に言われることもなくなっていったっけ。
でも似ていようがいまいが、本当にジルにとっては宝だった長女。いろんなファニーな場面があったことを改めて思い出す。
写真はつくづく不思議。
発見すると、その時その時の空気と光と、音をふんわりと蘇らせる。
ジルとの不思議な旅 ⑥ はじめての”母の日”
若くてびっくり! 撮影はほぼジャスト10年前、2011年5月22日。
私のカメラに残っていたので、勝手に使えたとすると撮影はジルなのだろうか・・。
Vol. 6 はじめての母の日
「マミィ(私にとっての義母)の母の日を祝おう」と集まった、10年前のある日の母の日のことを、先日ふと思い出した。たった今、街なかやダイレクトメールなどで”母の日のプレゼントにいかがですか”などの宣伝文句を目にすることが多いせいだろう。
ジルの家族は皆仲良しで、季節の行事など何かことあるごとに集まっていたが、母の日も例外ではなかった。この日も義両親が経営すると同時に住む実家でもある、ブイヨンのホテルに集合していた。
ベルギーでの母の日は、なぜか5月の"第3"日曜日。日本とは1週間ずれる。
(一方で父の日は日本と同じく、6月の第3日曜日。)
ホテルの陽光さすカフェテラス席にて。
誰かが代表で買ってきてくれた、お義母さんへの大きな花束が贈呈された。
するとお義母さんからも、「はい、お母さんたちへ」と言って、私の義姉であるシルヴィー(ひとり娘のクララを持つ)と私とに、別途用意されていた1本ずつのカーネーションが渡された。
「え?」と単純に驚いた。
するとほぼ間をおかず、ジルからもプレゼントを渡された。プチバトーの船のマークのついた紙袋の中に、入っていたのはノースリーブのカットソー。濃いめのピンクと白のボーダーでまさに当時の私好みのアイテムだった。完全なサプライズ。
「??」ともっと驚いた。
何に驚いたのかというと、「私もお母さんだったんだ!!」ということにだ。
2010年の6月に長女が生まれたので、まだ0歳。その日が私が母になってから迎える、「はじめての母の日」だったのだ。しかしそれまで、ひとつ上の世代に感謝し祝う行事としか捉えていなかったので、まったく自覚がなかった。この日も、お義母さんのために集まったとしか思っていなかった。
ジルからのプレゼントは、いわば長女に代わってということだ。
この時の奇妙な驚きの感覚。あれからもう10年。いや、あれからたったの10年。周囲よりひと廻りくらい遅れて母親になったので、今もまだ新米感が抜けていないような気がする。
ところでこの時もうひとつ印象的だったのが、お義母さんが用意していた花が更に2本あったこと。
もう1人の義姉であるマルレーヌと、義妹のアリスにも「はい、ゴッドマザーたちにも」とカーネーションが渡された。
2人には直接の子供はいないけれども、マルレーヌはクララのゴッドマザーであり、アリスは私の長女のゴッドマザーだ。それぞれ、血の繋がった姪っ子の大事な後見人なのだ。ベルギーに住んでいた頃は、子どもを預けたりと何度お世話になったことか。
そういえば "Fête des mères"という「母の日」を表すフランス語は、お母さんという単語が複数形になっている。
そして”祭り(fête)”という言葉が使われているのも面白い。日本語や英語だとただの"日”という言葉があてがわれているだけだが、いわば”お母さんたちの祭り”。
そう考えると、なんだか世界中の母親が踊っていそう(笑)なイメージが湧いてしまうのは、私だけだろうか。
昨年の母の日は、2人の子供達から初めてお小遣いで買った本当のお花をもらった。
「どうやって買いに行けばいいか分からない」と訴えられ、なぜかもらう張本人である私が近所のお花屋さんに連れて行った。
でも中には一緒に入らないで、と言われたのでちょっと離れて見守っていた。1束300円くらいに小分けされた花束を、ひとり2束ずつ抱えてレジに向かっていた。ところが長女が持っていたのは1000円札でも、次女の手持ちは500円玉だったらしく、1束を戻して、また走ってレジに戻っていた。
その右往左往する姿に、なんだか泣けてきた。
せっかくの可愛いくて純粋な動機に対して、「なんでママが連れてこなくちゃいけないのかなぁ」なんて、ブツブツ言いながら付き添ってきたことを反省して、心の中で謝った。
2束買えなかった次女は傷ついているだろうかと心配だったが、2人とも達成感を感じたらしく、ハッピーな顔で私のところに戻ってきた。そして、もちろんバレバレであるわけだが、「一応家に着いてから」と強調されその場では渡されず、リビングルームで贈呈式とあいなった。
実を言うとあの10年前も、昨年も。
これをもらうに見合う自分だろうか、と自信がないままである。母親であるけれども、”である”以上のことが出来ているかとつい自問自答してしまう。でも、「自信がない」ことに開き直っていること、そして自覚していることが、強くいられる唯一の方法なのではと勝手に考えたりもしている。
お義母さんは一昨年亡くなってしまい、私の母は存命だがもう寝たきりでも話をすることが出来ない。とても寂しいな、と思う。
でも周りには新たに生まれた同世代のお母さんたちと、さらりと子どもたちのことを気にかけてくれる素敵な"ゴッドマザーたち"がいっぱいいるんだ。
受け取りながらも、当たり前と感じて知らないうちに薄めてしまっているかもしれない愛情、優しさ。少しでも思い出して大事にしながら、人生というステージをあたふたしつつ踊って行けたらと願う。
ジルとの不思議な旅 ⑤ 最後のまなざし
ジルの遺品のカメラに残っていた最後の写真は、
日本を発つ直前に撮影した、子供たちがひたすらお絵かきをしていた姿、86枚だった。
Vol. 5 最後のまなざし
5年前のちょうど今くらいの頃のお話。
ジルが亡くなり、故郷ブイヨンでの葬儀を終えた後。
ブリュッセルに戻ってきて私が一泊したのは、義姉シルヴィーの家だった。
そこには当時、ジルが間借りをしていた部屋が3階の片隅にあった。(この部屋を出て最寄りの駅から地下鉄に乗り、事故に遭遇している。)辛くないわけでないけれども、私が1泊だけするにはうってつけの場所。
一時滞在ながら洋服やスーツケース、ノートなどを始め、様々な私物が残されていて、本人のオーラというか、纏っていたであろう空気をまだ色濃く感じさせるスペースだった。
葬儀参列やご挨拶など、一連の仕事を終え、少しホッとしていたのもあると思う。寂しいのに、悲しいのに、何故だかそこには包み込まれるような、不思議な暖かい感覚があったのを覚えている。
3月でまだ肌寒い時期だったのもあり、日常よく着ていたであろうジルのお気に入りの紺白ボーダーのセーターが、部屋のよく目立つ場所に、まるで本人のシンボルように掛けられていた。(事故当日は着ていなかったんだな。)
部屋を案内してくれたシルヴィーが、「そうそう、このセーター、(形見として)クララが欲しがっていた。」と呟いた。
クララとはシルヴィーの娘で、ジルにとって姪っ子にあたる存在。
それも単に姪っ子であるだけでなく、ジルは彼女のゴッドファザーを務めていた。ヨーロッパでは、万が一両親に何かあったときのために、その子供の「ゴッドマザー」「ゴッドファザー」、いわば後見人を決めておく習慣が根強くある。
その役割を引き受けたからには、折に触れて例えばその子の誕生日パーティーに呼ばれて出かけて行ったり、人生の節目でメッセージを渡したりと、その子との交流は生涯を通じてかなり厚いものになる。子供にとっては、家族同然の存在になるのだ。
日本には特にそういう習慣がないからピンとこないかもしれないが、とても重要な存在。
このクララを含め、ジルは3人の子供のゴッドファザーになっていた。けれどもそれは、道半ばで不在ということになってしまうのだけれども・・。
ジルを象徴するような、まるで本人の一部のような、ボーダーのセーターをぼんやりと見つめていた。
ほどなくして隣の部屋から、クララ(当時15歳)がひょっこりと顔を出した。
数秒だけ迷わななくもなかったが、私にはそれでなくとも多くの遺品が残っている。日本にだってある。私はそのセーターを差し出して、「これはあなたに。」と差し出した。
クララは満面の笑みを浮かべ、ありったけの力でギュッとそのセーターを抱きしめ、飛び上がらんばかりの様子で「ありがとう!」と言って自分の部屋へ戻って行った。
その後、私の目が不意に吸い寄せられたのは、机の上に置いてあったデジタル一眼レフカメラだった。
それはジルの相棒のようなもので、私たち家族のことはもちろん、映画に向けての松村さんとの取材など、ありとあらゆるものを記録してきた、いわば「ジルの眼」そして「記憶」にあたるようなもの。
すでに日本を離れて3ヶ月以上たっていたので、その間に何を記録していたのだろう、と思い、「のぞき見をしてごめんね」とそっと心の中で謝りつつ、スイッチをONにしてみた。
すると、出てきたのは2015年12月7日。ジルが出発をする前日、我が家で撮った写真86枚だけだった。(そのうち4枚がこのブログの冒頭に抜粋したもの)
拍子抜けをした。
どれもこれも、ひたすらお絵描きに勤しむ2人の子供の姿。角度を3回ほど変えながら、飽きもせずに、と言っては本人に悪いけれども、そばで撮影し続けていたようだ。彼らの手元にあるのは、水をつけて絵の具になるタイプの簡易的なお絵かきセット。これはジルが子供の頃に親しんだタイプの商品だったらしく、ちょっと不便では?と思うものの、子供の頃のハッピーな記憶と結びつくのだろうか、推奨して使わせていた。
そして、カメラに入っていたのは、その86枚のみだった。その後の記録はゼロ。
どうして? こちらに来てからも、ほかのお友達に会ったり、映画の制作現場でもなんでも・・撮影しようと思えば、題材はあっただろうに。(後に、修復したパソコンに落としたものがないかもチェックしたが、とにかく新たにベルギーで撮影した写真はなかったようだ。)
寂しいのもあって、心がそれほど向かなかったのかな・・。本人にはもうインタビューできないからこそ、切ない気持ちになってしまった。
何かを「最後に焼き付けておきたかったから」なんてよく出てくるセリフだが、本当にこれが、ジルが最後に心に焼き付けた風景、となってしまったようだ。
このカメラには、今もこの86枚を入れたまま、遺品として取ってある。データを移行したり、カメラ本体を私が再利用することもないと思う。(フランス語で分かりにくいというのもあるけれども。)
というのも「最後のまなざし」がこれだったんだよ、と2人の娘にいつか証拠として見せたいから。
その時、あの日のクララのように跳ねて喜ぶということはないだろうし、どこまでピンと来てくれるかは分からないけれども。
”86枚ものしつこさ”には、十分に愛情を感じてもらえるのではないか。
そんな気がしている。
ジルとの不思議な旅 ④ 記憶の”引き出し”はどこに
2013年11月、東京にて。2、3ヶ月ぶりに会った長女がフランス語を忘れており、
愕然としていたジルだが・・そのころの長女の笑顔。何となく複雑なものを感じさせる。
Vol. 4 記憶の”引き出し”はどこに
人はどうやって”バイリンガル”というものになるのだろう。
20歳前後になったハーフの子に聞いてみると、「頭の中に箱が二つあるんです。場面によって、もしくは相手によって、こっちの箱から言葉を出す、もしくはあっちの箱から言葉を出す・・そんな感覚」なのだそうだ。
面白い。
頭の中に”言葉の入った箱”が2つあるんだ!と感心した。
ベルギーに住んでいたころ、日本人ママの集まりで、似たような境遇(父親がヨーロッパのどこかの国出身、母親が日本人)にあるお兄ちゃん、お姉ちゃんたちをたくさん見た。
日本人のママが子供に何かを告げる。子供がその内容をパパに告げる時には、ちゃんとパパの母国語に自然と変換して喋っている、そんな光景を。
最初からそんな環境に生まれてしまえば、「ウチにはどうして2つの言葉があるの?」なんて、その特殊な入り口に疑問を抱くこともないのだろう。
子どもをバイリンガルにするには、躊躇せず、徹底的に、それぞれの親がそれぞれの母国語で話しかけることだという。でもそれは単に言語を多く覚えてもらえれば、という目的ではないと思う。それぞれの親が、自分の自然な感情を一番込められる言葉で語りかけるなら、それぞれの母国語になるのが当然だし、それを一生継続できれば素敵だからだ。
副産物として、両方を覚えることで、将来はどちらの国でも不自由しない、またそれぞれの祖父母や親戚ともうまくコミュニケーションできるようになる。何れにしても、それがベストな方法だ。
ベルギーに移り住んだ時、長女は0歳だった。
生まれた時から、私は徹底して日本語で話しかけた。
そしてジルも、徹底してフランス語で話しかけていた。
長女が3歳になるころ、確かにどんどんその先輩たちのように、2つの言葉を自然に、自在に操り始める様子が見られた。
今でも鮮明に覚えているのが、長女が3歳の頃のいくつかの場面。
私が保育園に迎えに行くと、日本語で「ママ、どこ行っていたの?」と聞く。私が「お仕事してたんだよ」というと、うなずいてすぐ隣にいたお友達の男の子に、'Elle avait été au travail.(ママはお仕事してたんだって) などと即座に雑談をしていた。
また、私が羊のことを「えっと、これはムートンだよね」とカタカナ日本語で発音すると、「ママ、違うよ。ムゥトンッだよ」と、口をすぼめて突き出しつつ、フランス語の真のou(ウー)の発音を教えてくれたりしていた。子供の耳はすごい、と思った。
また、さらには英語を解してるの!?と思えたこともあった。私とジルの間で話す言語は、(どちらも相手国語に自信がないことから)もっぱら英語だった。
ある日、車の後部座席で長女がぐずっていたのを目にして、私たち夫婦が英語で"She is very tired. ""Yes, she must be.. ."などと囁き合っていた。すると「わたし、つかれてないからね!! うえ~~」と泣き出し、ますます機嫌を悪くしたことがあった。長女のその反応に、思わず2人で顔を見合わせた。
夫婦の間でよく出てくる言い回しなどは、英語でも理解しているようだった。
しめた!
このまま日本語、フランス語、英語の3つ全てが分かるようになってくれたら便利だなぁ、教育費を節約できるし、と目論んでいた。
だがしかし、その絶妙なバランスは、日本に帰って来たときから少しずつ崩れ始めてしまっていた。
ベルギーでは「日本語=一番そばに居るママの言葉。大事!(さすが、母語とはよく言ったもので・・)」「フランス語=パパの言葉。加えて周りのみんなが喋ってる。大事!」ということで、両方が大事だということが、直感的に分かっていたのだろう。
ところが2013年の夏、ジルを除いて一足先に日本に帰って来て、数ヶ月後にジルが合流した頃。日本の幼稚園にも通い出しており、さらにはパパも不在という状況が数ヶ月続いてしまっただけで、長女の口からフランス語がいつの間にか出なくなってしまっていた。
ジルと数ヶ月ぶりに日本で再会した時、フランス語で言われることはなんとなくは分かっても、それに対して答える言葉は日本語になっていたのだ。
その時のジルのショックは大きかった。
大げさに言うと、まるで記憶喪失の恋人に会ってしまったかのように、愕然としていた。
なんとかフランス語を・・と以前のように話しかけてみるものの、長女自身も首を傾げながら日本語を出す。ジルにとっては、もう環境そのものが文字通りの”孤軍奮闘”となってしまっていた。
「なぜフランス語でしゃべらないの?」と私が聞くと、う~ん・・と一瞬考え込んだような顔をしてどこかを見つめながら「引き出しが、あかないんだよ・・」と言っていた。
そうか。脳の中に入っているのは、まだ小さかったからか、”引き出し”なんだ・・と思った。引き出しにネタを貯めている途中だったのだろう。まだ”箱”までにはなっていなかったのだ。
それでもなんとか、フランス語に接する機会を増やそうと、ジルはフランス語の歌はことあるごとに聞かせていたように思う。
語学には歌がベスト。ましてや、子供にとっては。
↓ そのころのビデオがこちら。撮影はジル。
歌はともかくも、相変わらずジルが話しかけるフランス語に対して、答えは日本語ということが多かった。それでも彼らが日常的にフランス語のシャワーを浴びていること、意味を解していることは圧倒的に救いだった。
ところが本当に残念すぎることだが・・。
日本に来てから約2年ほどで、ジルは亡くなってしまう。
それを境に、家庭内に”自然なフランス語”が流れることはなくなった。
でもそれではもったいなすぎると私は焦った。
いま使わなくても、彼女たちの母国語の一つは、そして親戚の半分が話す言葉はフランス語なのだから。
以来、なんとか試行錯誤しながら、折々にフランス語を習い事として受講させている。
しかしやはり、”習うフランス語”だと、どうしても外部にあるものにはなってしまう。本人たちの発音も、最近では随分日本語訛り、カタカナ風。
成長した分、アルファベットや綴りには昔よりも対応できても、喋るとなるとほぼ使えない状態。
あのころ、私の「ムゥトンッ」の発音を正してくれた長女はどこに行ってしまったのかと、悔しくなってしまう。一切本人のせいではないことだから、なおさらに。
元気に明るく育ってくれているのだから、ほぼ日本語オンリーであろうと多くは望めないのだが、我が家には”途中で頓挫したプロジェクト”がある・・そんな風に感じてしまうのだ。
ところで1年ほど前、私自身にこんなことが起きた。
年度が変わることもあり、当時4年生と3年生になる子供たちの、入学から今までの小学校の書類や作品、宿題、教科書などを整理していた。残したいものは残し、もういらないと思うものは処分し、とより分けながら”小学校”という世界にズブズブと浸っていたからだと思う。
一連の作業を全て終え、「ふぅ〜っ」と、長女用と次女用の二つの箱をパタンと閉じた瞬間。唐突に、私の頭の中に、とあるメロディーが歌詞付きで流れ始めたのだ。
♪明けゆく、朝の 陽に映えて~~ くれない匂う帆柱の〜
一瞬なんだろう、と訝った。帆柱?・・帆柱といえば、私の生まれだった地元にある山だ。
もしやこれは・・と奇妙な思いに駆り立てられ、歌詞をインターネットで検索して見たら、やっぱりそうだった。私が小学校4年生の途中まで在籍していた小学校(その後転校したので)の校歌だった。
市内でだが引っ越しもし、歌う機会も2度となかったもの。そこを離れてからは40年以上、ほぼ1度も思い出してなかった、と言っても過言ではないと思う。
それなのに・・唐突に、記憶の引き出しのひとつが開いたのだろう。
小学校に上がって何となく授業形態に馴染めず、落ち着かなかった気持ち。それでも体育館では思い切り声を張り上げて、シンコペーションのリズムを楽しみながら校歌を歌っていたこと・・そんな思いも、歌の正体を突き止めた次の瞬間から、ふわりと追いかけるようにフラッシュバックして来た。
”小学校”にまつわることがらに頭をかなりの時間漬け込んだことで、私の頭の中の、私も存在を知らなかった”小学校低学年時フォルダ”、その引き出しのボタンが押されて、弾みでメロディーが流れてきてしまったようだ。
脳の世界は面白い。
予測のつかない記憶の取り出し方をすることもあるのだな、と思った。
その存在すらも忘れていたようなものが、ある日唐突に、脳の外側へポロン、とこぼれ落ちてくることもあるのだ。
思い出という漠然としたものではなく、歌のメロディー、一連の言葉といったピースだけが。そしてそれは、本人がコントロールしてそうなるものではないことも、不思議。
子供たちの脳の引き出しには、いまの時点でも実は開けずにとっておいてあるものが、色々とあるのではないかと想像する。
恐らく、フランス語の単語だけではなくて、パパとの小さな思い出の断片も、いろいろと。
もしかしたら記憶は”薄れる”などというものではなくて、単に”引き出し”に入っており、取っ手を引く機会がないだけなのであったなら。
いつかふとした瞬間に、その引き出しが開くこともあるのだろうか。
その時フランス語の音の響きの原体験とともに、パパの愛情も、追いかけるようにこぼれ落ちて来ればいいなと思う。
<追記>
アップしたビデオは、実はたまたま今日発見したもの。一緒に見た長女が、当時の発音の良さに「くやしい・・(自分はこんなに歌えていたのか。今は・・)」と呟いていた笑。