故ジル・ローランを偲んで

A blog to remember Gilles Laurent, who died in Brussels Attack in the middle of making his film about Fukushima / this blog is organized by his wife Reiko Udo

ジルとの不思議な旅 ⑨ 社会でハキハキと喋るということ

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2017年撮影。2016~2017年は、人前に出て喋ることが本当に多かった。

 

今日、NHKの「首都圏ネタドリ」という番組をたまたま見ていたら、1年8ヶ月前に「山梨不明女児事件」として大きく報道された、小倉美咲さんのご家族の話が特集されていた。

 

次女の美咲さんがキャンプ場で行方不明になってから、もう随分経つけれども、一生懸命にテレビで露出をして娘さんを探し続けるお母さん。そのお母さんに、SNSなどで誹謗中傷が少なからずあったことなども、時折報じられているのを知っている方も多いだろう。

 

悲しみの中にあっても、気丈に振る舞う・・。

いや、それをむしろはるかに超える形でハキハキとテレビで話すお母さんの姿に、ネットなどでは違和感を覚えた声もあった。それは、「こんな状況にあって、こんな風に話せるわけがない」というもの。

 

同じような中傷は、伊藤詩織さんにも向けられていたことがあると思う。「こんな被害にあった人が、こんな風にテレビに出て堂々としゃべったり、ましてや笑顔を見せたりなんて、できるわけがない」というもの。だからこの人の被害は本物ではないのではないか、と。

 

 

事件の被害者的な立場にありながら、前へと進み出て喋る人に対して、「違和感を感じる」という感想が少なからずあること。でもそれを向けられると、本人はもっと辛い気持ちになってしまうことや、人と人がわかり合うのは結局難しいのではないかと思ってもしまうこと・・。

 

それは私にも、思い当たるものがあった。

 

 

2016年から2017年にかけて、私も随分といろいろなテレビや新聞で語っていた。ジルがなくなった経緯、そして残した映画の話、テロについて思うこと、これから社会がどう変わっていけばいいかと思うことなど・・。

 

もちろん、その言葉通りに伝えたいことがある、どこから来たのかわからない「使命」というものを感じているからというのも、ある。

でもそれ以上に、「語ること」「表現すること」が思いを吐き出すことにも繋がり、自分が救われること、つながることができることもあると感じていたから、続けていたことだ。

 

 

ひどい出来事があったときに、どんな風に社会と関わり直し始めるのがいいのか。

 

これは本当に、人によるものだと思う。

今日の番組でもコメンテーターの石井光太さんが言っていたが、もうそのことに触れて欲しくもない、そうっとしておいて欲しいという人もいれば、前に踏み出して社会へ提言することを選んだほうがいい人もいる。

それは、どちらがいいとか、どちらでないといけないというものではなく、その人の性格や気質によるところも大きいと思う。

 

私は昔から、どちらかというと普段はおとなしめでも、「これはちょっとおかしい」ということがあると、正義感などから苦情や不満を”お客様窓口”などに電話をして理路整然と話したりする方だった。いわゆる「活発」な方の部類に入る方だと思う。

 

実を言うと、ジルがまだ行方不明だった1週間の間に起きたことで、納得のいかないことがあり、その1ヶ月後くらいに日本の外務省や、ベルギー大使館に「どうしてちゃんと対応をしてくれなかったんでしょうか」と苦情を言うためにアポイントを取って、直談判に行った事もある・・。

(それはもうそのとき、誠実な対応をしていただいたので、詳しい経緯はブログにも何にも書いたりはしていないのだが・・。)

 

そんな私だから、今になって「ああ、私も”活発型”だったんだな」と思う。それと同時に、活発型であるがゆえに、違う方向に誤解されかねなかったんだな、ということを、改めて感じた。

 

悪気はないかもしれないのだが、私も、こんな風に聞かれたことがあるからだ。

「そんな目にあって、発狂してはいないんですか?」

「最初に姿を見たとき、そんな目に遭ったことのある人には全然見えませんでした」

 

・・でも、どれもこれも想像やステレオタイプな想像なのじゃないだろうか。

こうなったら、こうなるはずで、そうならない人には違和感を感じるとか、ましてやフェイクかもしれないと思うとか・・。

 

 

私の場合はそんなに有名な案件でもなかったので、積極的に中傷されるというようなことはなかったが、あるときインターネットで(やめておけばいいのに)自分の名前をいわゆる”エゴサーチ”して見たことがある。そのとき、私の名前とともに出てくる単語が、夫の名前や、映画の名前などの関連語でばかりではなくて、中にポツンと

「違和感」

という単語があったことに、衝撃を受けたことが一度、ある。

 

「こんなの出て来たら、気になってますますそこを掘ってしまう人がいるのでは・・」とがっくり。

もうエゴサーチなんて意味ないからやめよう、とも同時に思ったが・・。

 

「違和感」なら、そもそも私が私自身に対して十分すぎるくらいあるよ!とも思った。

なんの因果でか、こうして大勢の前でテレビや、新聞に向けていろんなことを必死にしゃべっているなんて。そんな自分に少し前まで普通に過ごしていた自分との間に”違和感”を感じないわけがないではないかと。

でも、そんな心のピンチを乗り越えるためにも、こうしていないと私の性質では、息ができないから、活動しているのだけれどもなぁと。

 

でももちろん、それを避けることで生きながらえることもできる人もいる。それはもう、その人それぞれの生物的なエネルギーによるものでしかないわけだ。

強い、弱いとも関係ない。

 

小倉美咲さんのお母さんや、伊藤詩織さんのもともと持っていたエネルギーと、だからこその活動は結びついている。それは迷いながらでも自然なことだろうし、ましてや何かを演じているなんてことは決してない。

そしてどんなに辛い経験をした人でも、ハキハキと喋ること以外にも、時が経てばふと訪れる別の状況に、いっとき笑顔を持てることだってあるのだ。

ずっと下を向いて謙虚にしていないと(ドラマで見たような)本物じゃない、なんてことはないんだ。

 

ステレオタイプに「こんなことがあればこうであるはず」と人の様子を決めつけないこと。

そして、どんな場合においてもひどくマイナスな状況から、どうにかしてプラスの状況に持って行こうとしている人のエネルギーを信じること・・。

そんなことが本当に大事だと思う。

 

 

 

小倉美咲ちゃんの話に戻ると、実は私の次女と2ヶ月ほどしか生まれ月が違わない。

長女であるお姉ちゃんがいるところも一緒。仲良く暮らしていた家族がある日、一人、失われてしまったら、どんな気分になるだろうか。そこのところが、今日の番組では30分の特集ゆえに、胸に刺さるように伝わってくるものがあった。短いニュースで表面的に終わってしまうのとは違っていた。私も想像力が足りなかった、と思った。

 

1日も早く、見つかって欲しいと思う。

命さえあれば、なんとかなるのではないかと信じて。