故ジル・ローランを偲んで

A blog to remember Gilles Laurent, who died in Brussels Attack in the middle of making his film about Fukushima / this blog is organized by his wife Reiko Udo

マイ・タウン、浪江町。 My town, Namie

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映画「残されし大地」に出てくるゴーストタウン化した街並み。人の代わりに緑が生い茂る。

 

映画「君の名は。」と「シン・ゴジラ」が今年の大ヒット映画ですが、前者はとても美しく。そして後者はとても耐え難く「見慣れた景色がこんなにも変わってしまう」ということがキーポイントだったのではないでしょうか。

そして、どちらも描いているのは、皆のよく知る日本の景色です。前者は「普通の町」、後者は「都会の街」。

 

映画「残されし大地」も、見慣れた景色が変わってしまう姿を見る・・という点で共通しています。

福島に行ったことのない人も、そこには普遍的な「田舎」や「地方の町」の空気を感じることができるため、自分の故郷になぞらえざるを得なくて、胸に迫るものを感じたという声も多いです。それが、すでに上映の終わったベルギーで見てくれた、在住の多くの日本人や、京都国際映画祭などに駆けつけてくれた、まだ全体としては少数の友人たちの貴重な感想。

そして皆さんが異口同音に言ってくださるのは、(高島礼子さんも映画祭でそう言ってくださっていたのと同じですが)「(今までどこかで聞き慣れていた)音が丁寧に撮られていることを通して、より一層、伝わってくる」ということでした。

土を踏みしめる音、野菜を洗う水の音、何かの包みを開ける音、夜の静けさの中鳴く虫の声・・。

 

ただ、「残されし大地」が今ヒット中の2作品と決定的に違うのは、これは”実際に”「変わり果てた町」を映し出しているということ。

 

福島に行ったことのない人にはそれでも、ある意味「バーチャルな世界」になるのですが、私は最近、この映画の中に出てくる町の中で、幼少時代を過ごしたというある方の感想に出会いました。やはりベルギー在住の日本人女性です。「残されし大地」で検索をかけていたところ、たまたま引っかかりました。

しかも彼女のブログによると、富岡や南相馬の話だと思っていたところ、半ばゴーストタウン化した街並みとして出てくるのは、なんと出身の浪江町だったとのこと。(私もこの事実にはすぐに気が付かなかったので、恥ずかしく思いました。)

しかも後から分かったことですが、実は彼女は昨年の冬、「ベルギー在住で福島の言葉が分かる人」としてたまたま声がかかり、富岡のおじいちゃんが話す言葉を書き起こす作業を手伝っていたのだそう。それが縁で、10月5日のブリュッセルでのプレミア上映にプロデューサーから招かれ、初めて通しの映像を見て「私の街だ・・・」ということを発見して、改めて衝撃を受けたと言います。

 

彼女のブログから抜粋させていただいた文章をここに掲載します。

 

富岡町に原発事故の後も、ダチョウや犬や猫の世話のために残っている家族の話ということで、最初のバリケードは富岡町だったものの、次の町のシーンは私の生まれ育った浪江町で、驚いた。それも私のおばさん家族が営んでいた古い食堂(大室屋)跡が映り、その隣の、毎年、クリスマスにおばさんがおもちゃを買ってくれたおもちゃ屋さんのかなぐつやが映り、思わず、息を飲んだ。古い建物だった食堂は地震で崩れ、今は草ぼうぼうの空き地になっている。この風景を実際に見たのは、この会場にいる観客の中で私一人・・。

 

この文章を読んだ時に、衝撃を受けるとともに、私が同時にふわっと思い起こしたのは、やはり自分が北九州市八幡西区の町で、幼少の頃にお世話になった場所たちでした。

当時としては洋風で洒落た雰囲気だったパン屋さんとそのおばさんのニコニコ顔、そして本屋さんと特にその中でも好きだったコーナー。アーケードの中の魚屋さんの、桶に入っていたナマズを気持ち悪い〜と思いながらも、訪れるたびに目が離せなかったこと。・・とてもリアルな、私の小さなときの思い出のディテールです。

もしもその場所が、ある事故を境に数年を経た後、人っ子一人住めない、ゴーストタウン化したのだったとしたら・・・。そしてその場所の姿を、時間をおいて、見ることがあったのだとしたら。

単に、時が経ったから変わってしまったね、というのとは違う、ものすごいインパクトと大きな悲しみ、やるせない思いが押し寄せてくるような気がしました。

そう思った途端、私は逆に「この映画は福島の状況を伝えるので見てください」という紋切り型のおすすめ文句ではいけないような気がしました。誰にとっても、場合によっては共通するかもしれない、人間としてのなんとも言いようのない郷愁に包まれること、そのものが大切なのです。

 

今回、彼女の先ほどの文章をブログに掲載したいと思い、許可のためにお送りしたメールに対し、お返事を以下のように頂きました。

 

地元出身ということで、「残されし大地」の字幕のお手伝いをさせていただいた時、ジルさんから「ジルです」とメールをいただきました。事件の後、そのメールを読み直して、泣きました。会ったこともない私でもこうなのですから、鵜戸さんの喪失感たるや、想像を絶するものだと思います。
 
私は半谷のじっちゃんのインタビューを字幕に起こすため、何回も何回も聞いたので、半谷のじっちゃんがとても身近な人に思えてなりません。
 

プロ デューサーさんにご招待を受け、「残されし大地」のプレミア上映を見ました。
富岡町の話と聞いていたのに、バリケードを通り抜けた先の風景が私の生まれ育った浪江町だったので、びっくりしました。それも、丁度、伯母がお嫁に行った食堂跡と伯母が毎年クリスマスプレゼントを買ってくれたオモチャ屋さんが映っていました。とても懐かしくて、悲しい景色でした。

でも、福島の状況は、知ってもらいたい人にはなかなか伝わらない歯痒さがあります。
ベルギー人であるジルさんが、日本人でも見て見ぬ振りをしかねない福島の状況をドキュメンタリーにしようとして下さった気持ち。それが、とてもありがたいです。
せっかく作っても、見てもらえないのでは意味がない。本当にたくさんの人に見てもらいたいです。

 

「ジルです。」というメールの主はもう居ない。それはそれで、私が最近、ベルギーに居る義両親や義姉と会話をしようとskypeを立ち上げた時に見る、gilles laurentというアカウント名を見るときの、どうしようもない寂しさと共通してもいます。

あったものがない。あったものが変わり果てる。

悲しいことが満ち満ちているこの世の中を私たちはこれからどうやって生きていくんだろう。

 

でもそれでも、どんなことに対しても、他人事ではなく自分ごととして繋がっていこうとすること。それも、現地に行かなくてはならないという義務感ではなくて、人間としての五感と想像力を使うことだけによっても。そうして人間らしい意識と意識がつながっていくこと。その輪を大きくしていくこと・・。

それがどんな悲劇にも対する、目に見えない意識の防波堤にもなっていくのではないかと私は思っています。

 

ユア・タウン・イズ・マイ・タウン。

Your town is My town.

 

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彼女が行ってくれたベルギーのBOZARという会場で開かれたプレミア上映のチケット。10月5日。

 

瀧田さんご夫婦のこと。About another couple involved in Brussels Attack

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10月10日。ホテルニューオータニの玄関には日本とベルギー、両国の国旗が飾られていました。

 

去る9月25日。
映画「残されし大地」のfacebookページに、あるメッセージが寄せられました。
 
突然のメッセージ失礼いたします。瀧田と申します。実は、私の夫も同じマールベークでの爆発に巻き込まれ、一時は意識不明の重体でしたが幸いにも一命を取り留めました。事件後、ジルさんと奥様の玲子さんのことを知り、とても気がかりに思っていました。
 
あ・・・あの瀧田さんだ! そしてその奥様からなんだ。
私は驚くとともに、とても嬉しかったのです。
実は私の方からも、そのうちにご連絡先を知りたいなと思っていたのです。
当時、新聞でお名前が報じられていたのでもちろん覚えています。
そして何しろ貴重な、あの現場を共有した仲間であり、日本人どうしです。
 
私は今回の事件を通して、家族や友人の愛の大きさや深さ、暖かさを直に感じることができました(テロは人間の前には無力ですね)が、きっと玲子さん、ジルさんの周りにも大勢の強力な友人や家族がいて、支えてくれているのだと思います。 ジルさんの初監督作である「残されし大地」も絶対に観に行こうと思っています。
 
「テロは無力」・・この瀧田さんの言葉に全てが表されています。
そうそう、同じ! 瀧田さんもそう感じられたんだと。
私も事件直後に、「テロなんて結局は失敗だ」という思いが胸に溢れました。
極端に最悪なことが起きれば、極端に最良のものをたくさん与えられる。
渦中にいたからこそ、心から感じられたこと。
当時の私の思いと、響き合ったような気がしました。
 
けれども、ある意味こちらは死んでしまったけれども、あちらは助かっている。
・・その状況を鑑みて、私の方にご連絡するのはしばらく躊躇されていたそうです。
 
私はといえば・・正直言うとあの事件当初、被害者が日本人でなければ何も伝えられない、公式なサポートなどもないということに多少歯がゆく思ったり、日本人の”死者”が居なければ事件の重大さはすぐに忘れ去られてしまうという世の中の状況に、取り残されたような気持ちがしていたことも確かでした。
 
けれども、一人でも多くの命が助かったというのは、本当に良かった。
生還する人にもきっと、生還するからこそ語れることがある。
だからそのうちに是非お会いしてお話がしたい。素直に心からそう思っていました。
 
コミュニケーションを続けているうちに、10月のベルギー国王夫妻来日に合わせて、
2家族ともホテルニューオータニに招ばれることが判明。
それではと当日、近所にあるカフェ・オーバカナルで1時間近く前に会い、お話をすることにしました。
 
先に到着していた奥様に20分ほど遅れて現れた、瀧田さんご主人のお姿を見た時、思わず涙が溢れました。もうお仕事に復帰されていて、お元気そうではあるのですが、黒い手袋で覆われた両手と、爽やかな笑顔のある意味アンバランスなお姿に胸が痛くなったのです。
あの時、夫が命を絶った時に、同じ爆風を受けて倒れた人々のうちの、お一人・・。
 
お会いできたこと、そのものが嬉しかった、涙でもあります。
同じ場所から戻ってきた生命に触れられたからなのか、不思議な再会を果たしたような、
安堵にも似た気持ちが湧き上がってきたのです。
 
聞けばお二人とも新婚生活でベルギーに住み始め、1年経ったところであの事件に遭遇。ご本人は事件当時の記憶は全くないということで、しばらくして目覚めた病院のベッドで、「どうしてここにいるの?」と自問自答する状態だったそう。
 
痛かった、怖かった、という記憶も何もないぶん、ベルギーに対して嫌な気持ちもなく、あちらに荷物も置いたままなのでむしろ早く戻りたい・・とすらおっしゃっています。療養のために東京に一時的に戻ってきて、仮住まいしているとのことで、会社の指示さえ出ればベルギーに戻りたいと。
 
私もこうなっても、やはりベルギー贔屓です。そう言ってもらえることに驚くとともに嬉しく、はっとするほど清々しい気持ちになりました。
 
一緒にホテルニューオータニまで移動し、来日されたばかりの国王陛下夫妻にお会いしに。14階に案内されると、ずらりと並ぶ黒服のSPの列。厳重警備の中、並んで国王夫妻のいらっしゃるスイートルームへ。
 
席をご案内いただいた時には、黒い手袋を外されていた瀧田さん。
 私が持っていたジルの遺影と、それから彼の両手をじっと見つめて、国王夫妻は本当に痛みいった表情で、私たちそれぞれの家族の状況を気遣ってくださいました。
身体の他の火傷の場所は、順次、移植手術をして・・など、いろいろな質問にも笑顔で答えていらっしゃいました。ご自分たちも4人のお子さんに恵まれている国王陛下夫妻は、私や子供たち、同行した私の母の顔なども代わる代わる見ながら、
「お子さんは大丈夫?」「お仕事は何をなさっているの?」「大変過ぎない?」など優しく質問を投げかけて下さいます。
 
事件に翻弄されながらも、前向きに生きているご家族が、
私の隣に、ここにもうひと組。
 
いつかまたゆっくりお会いしたいですね・・と言いながら、
それぞれの帰路につきました。
 
そのあとしばらくして11月に入った頃、奥様の方からまたメールが。
「ベルギーに戻れることになりました」とのこと。
そして、ジルさんの映画、必ずブリュッセルで見に行きます! と。
(ブリュッセルでの公開は11月まででした。)
 
早速、それから間もない11月中旬、映画をご覧頂いたそうで、感想を送ってくださいました。
 
福島の状況と、そして自分たちの状況と。
先入観のないままに、私が感じた気持ち、そしてジルが伝えたかったことと全くシンクロするであろう形で、胸に響いたことを伝えてくださいました。
 
以下、奥様から頂いた映画の感想を、許可を得て転記させて頂きます。
 
全部ではなく、抜粋した方が失礼がないかな?・・と思い、何度も読むものの、
私には一字一句が貴重で、結局、ほとんど短縮は出来ず・・。
 
瀧田さんご夫婦とはこれからもずっと交流を続けていきたいと思っています。
この場を借りて、再度、感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。
これからも、同じ天変地異を経験した後の、
似た目線で世界を見つめ続けていく、二つの家族です。
 
 
こんにちは。今朝の地震はかなり大きかったようですが、皆様大丈夫でしたか?
最大1.4mの津波、加えて原発冷却炉の一時停止など、東日本大震災の時の恐怖がよみがえってきました。
ちょうど「残されし大地」を観た後すぐの出来事だったので、本当にびっくりしました。
 
ということで、お伝えしていた通り、昨晩無事観に行くことができました。
昨晩も本当に満員で、ひと席も空いていなかったように思います。日本人の方も何人もいらっしゃいました! 私は特に映画に詳しいわけでもなんでもない、本当のド素人で、ドキュメンタリー映画もほとんど見たことはございません。素人目線の感想でご容赦ください…。
 
一瞬で日本に帰ってきたかのような感覚になりました。空気感や温度が伝わってくるような、風の音や町の音、鳥や虫の声。一つ一つの音をこんなにも大事にするんだと、素直に驚きました。
ベルギーに来たからこそなおさら、日本に恋い焦がれる気持ちを強く感じさせられました。
きっとジルさんは、日本の自然を本当に愛してくれているんだなと思いました。
 
残られた方ひとりひとりの生活に目を向けると、大きな困難に直面し、悩み、奮闘し、揺れ動く実情をひしひしと感じます。でも福島の土地、自然自体は、何事もなかったかのように当たり前のように続いていて、以前のように魅力にあふれていて。
今回の経験で、自分たちの世界が足元から崩れ去り、時が止まったように感じても、周りの世界は平然と続くことを思い知りました。だから、映画の中で、荒廃している町と、対照的に魅力あふれる自然が共存している様子を、そんな自分達の経験に重ね合わせてしまいました。
 
先日、珍しく天気が良かったので近所のWoluwe公園まで一人で散歩したのですが、その時感じたこととすごく似ていたんです。テロでたくさんの人が傷つき、またいつ起こるかわからないテロに心のどこかで怯え、市内は軍隊が警戒して緊張感は高まるばかりで。でもちょっと公園に入れば、そんな不安とは無関係に、いつもの空気、時間が続いているんだなと思ったんです。そんな世界の常に対して感じた理不尽さや崇敬の念を、この映画からも勝手に感じ取ってしまいました。
 
感じたことをすべて、うまく伝えられないのがもどかしいです。本当に素敵な作品でした。これが最初で最後の映画になってしまったのは本当に残念でなりません。
そして、鵜戸さんとこの作品に出会わせてくれたジルさんに、改めて感謝しています。
またお会いできる日を楽しみにしています。ずっと応援しています。
 

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瀧田さんの奥様に送って頂いたその時のWoluwe公園の景色です。本当に綺麗。

11月22日は「いい夫婦の日」。The day for 'good couple' in Japan

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2010年春ごろ。長女の出産直前くらいです。二人とも若い! 肌がきれいだぞ!!

 

今日は11月22日。

ジルが亡くなった日からちょうど8ヶ月が経ちました。

毎月、22日は「祥月命日」としてスケジュール帳に書き入れています。

 

ぼーっとホームに独りで突っ立ていた時に、なぜか「心が並ぶ」・・という言葉がインスピレーションのように頭に降ってきました。

ん?・・不思議だなあ・・と思っていたら、しばらくして気が付きました。

偶然かもしれませんが。今日は「1122」で、「いい夫婦」の日なんですね。

 

そういえば映画「残されし大地」は、”夫婦愛”がテーマの映画である、なんて間違った報道も出ていました。亡き夫の映画を私が受け継いで、公開まで頑張って・・という意味では、夫婦愛っぽい。でも、それは外側のエピソードであって。

でも、何れにしても夫婦愛というと聞こえはいいけれども、そして今でこそ、頑張っていることの”意義”をちゃんと語ることは出来るけれども・・。

春から夏にかけては、しばらくはただこの案件を握りしめて、淡々と「やらなくちゃ・・」と動いていたものでした。衣食住を維持するのに近い、どこかベーシックな感覚で動いていました。というか、もがいていました。

 

生前から手伝っていたことなんだから、手伝うのであ〜る・・という、惰性にも近い感覚です。でも、どこか必死な。どうにかしなくちゃと思うので、自然と手足が動く・・しばらくはそんな感覚だったのです。

 

夏に入り、なんとかしてこの映画を日本でも世に出さなくちゃと、「福島のドキュメンタリーなんですけど、夫が亡くなって」と、ちょこちょこ話を持って行っても、なかなか動きがなかったあの頃。ちょっと辛かったあの頃。しかも世の中が夏休みモードで話が進まず。私は今のように明るくなかったかもしれません。

 

ところが今や、映画をシンボルとして、サポートしてくださる完璧な方々に囲まれています。そして、夫自身がいなくても、映画がまるでジルの”蘇り装置”のようになって、あらゆる人がジルのことを語ってくれて、メッセージを受け止めてくれて、寂しさを埋めてくれています。本当にありがたいことです。

 

ところで昨日、ジルの長年の友人が機会あってベルギーから訪ねてきました。

 

彼女と話していて腑に落ちたのは、

「あれだけよく喋って、意見がいっぱいあって、人にも影響を与えて、エネルギーが大きかったジル。そのジルが、もう亡くなって居なくて、急に静かになり、そしてもう絶対に会えないということが決まっているのである・・という、その二つの事実がマッチングしないのよね。それを考えた時に、パニック気分になる」と。

そう、そのミスマッチ感なのです。

よく仕事では旅にも出ていたから、今、静かになったのは、旅が続いているからだっけ?・・とも思う。けれども、いやいや。もう二度と帰ってこないし、会えないのだと。壁にぶち当たるような気持ちがするわけです。

 

何か重大な事件や事故をニュースなどで目にした時、家族はどんな気持ちだろう・・と思うのが当たり前なのだと思いますが、私は今回、いかに「親友たちが大打撃を受けるか」も目の当たりにしてきました。

ジルの親友たちの中には、この事実が受け入れられず、サイコセラピーに通っている友人もいます。さらに、なくなって3ヶ月後に仲間内での”見送る会”で会った友人は、「どうしても、どうしても辛すぎる」と、顔を引きつらせて私に覆いかぶさってきて、泣いていました。

 

親友とは、時に家族と同じくらいに心を分け合う存在。

 

家族にはお悔やみの言葉や補償があったとしても、(とはいえ今回のベルギーテロは政府からの金銭的補償はゼロですが)友人たちには、お悔やみの言葉も何も届かないし、痛みを癒していく形式もないし、自分自身で解決していかなくてはならないことになるのです。

とても仲の良い友人がテロで亡くなったら・・。

それも物凄い不条理です。

突然のロスに戸惑うのは、家族も家族同然に仲の良かった親友も同然です。

 

ともあれ、彼女が昨日家に来てくれて、ジルの思い出話を色々と出来たのは良かったと思います。繊細で正義感が強くて、優しいけれどもその分、思うように行かないと感情の揺れや表現も大きかったジル。あまり深く接したことのない人は、「穏やかな人だった」という印象だけの場合もあると思いますが、さすがに実はラテン系の表現系。

一緒に居て、毎日をのほほんとのんびり過ごせたわけではありません。机を拳で叩くこともあったし、不機嫌になることも、少ない(笑)髪を逆立てて怒ることもありました。「こんなことあったんだよ」「ああ、分かる分かる」と今はそんな不快だった瞬間のエピソードも、かいつまんで話しながら、笑えます。

恋愛こそなかったけれども、一時期フラットメイトだった彼女は、その辺りのことも、友人としてよく知っているわけです。色々な面があったよね、と。

 

でも、やっぱり、寂しいね・・・。その一言に尽きるね、と話しました。

 

けれども、今となっては映画を通して、ジルのメッセージは余計に雄弁でもあります。本人が亡くなって静かになってしまったことで、却ってどこか純化されて、そして拡声器で拡大されて、今・・色々な人のところに届こうとはしています。

 

数日前、フランスのアミアン国際映画祭で、最優秀ドキュメンタリー映画賞を受賞しました。ドキュメンタリー映画という立場を考えれば、カンヌで賞を取ったのと同じくらいの快挙かもしれません。そして時を同じくして、ベルギーのマルチメディア著作権者協会、という団体から、2016年の最優秀賞を受賞したよ・・というニュースも。

こ〜んなに広い日本でも(考えてみれば、ベルギー王国の10個分の面積と人口があります)、来年は全国で10~20もの映画館で一般公開してもらえる予定なわけです。

 

「信じられない展開!」と謙虚に思う気持ちももちろん、あるのですが、

でも、私自身は実を言うと完成した映画を見たときに、これはいいな、ジルの厳しかったディテールへのセンスや自然への愛と心地よさが詰まっている・・と自信を持っていました。

今でこそ不遜にも言わせてもらえれば、何かしらいい展開があってしかるべき・・と確信めいたものも持っていました。

 

「だって、ジルのセンスで作った映画だもの。」「一言で言えば”センスがいい人”だったしね。」と心の中で思い続けて。

まあ・・その分、私の服の着方とか料理とか、うまく行っていないときは随分けなされもしましたが(笑)!

 

夫を褒めてあげるのは、一番近くに居る(居た)私がしなくて

どうする、ということです。悪くないことのはずです。

今日は、「いい夫婦」の日なのでご容赦を。

 

そして、夫婦、家族に限らず、友達の愛にも大きな感謝を。

ジルの友人たちにも癒しが遠からず少しでも多く、訪れますように。

 

2017年3月公開、映画「残されし大地」Facebookページに「いいね!」をお願いします。

https://www.facebook.com/nokosareshidaichi/

 

 

 

パリでのテロから1年 One year after the terrorist attack in Paris

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1年前、パリで尊い命を犠牲にした人々の魂が救われますように。

ジルはパリが好きでした。

なかなか都市であんなに美しい街はないと。

ヨーロッパで、訪れる場所を一つしか選べないとしたら、やっぱりパリだろうとも言っていました。


私たちはパリのことを思い続けています。


May all the souls saved in the heaven, those who lost their precious lives in Paris on 13th of November, 2015. Gilles used to love Paris. A beautiful city. He used to say it is the city to visit if you can choose only one place in Europe. We keep thinking about Paris.

ジル、君も同級生だ。 Dear Gilles, now you are one of our friends from high-school, too.

先日、目が覚めた時に不思議な気持ちになりました。この7ヶ月くらいの間のことは、夢だったんじゃないかなと思ったんです。

「懸念していたテロがベルギーで起きて、ジルが巻き込まれて亡くなって、家族でびっくりして大泣きしたけど、引き継いだ映画が日本でも取り上げられて公開されることになって、有名人と一緒に映画祭で登壇しました」というところで目が覚めた。そんな、すごく長くて濃い〜夢を見てぱちっと目が覚めたものの、我に帰る。

「ほらね、ジルはまだ生きていてベルギーに居るだけだし、映画もまだ完成してないはずだし。次のスカイプはいつって言ってたっけ? それにしても今回は長い出張だなあ〜。」なんて思って、朝の支度をする・・方がしっくりきます。でも、そちらの方が私の想像であり、夢なんだなあ・・。

いつから現実と夢が半分くらい入れ替わってしまったのだろうか。そんな感覚です。

 

それにしてもこの10月は本当にすごい月でした。

高崎、京都と2つの映画イベントに登壇し、その間にベルギーから東京に帰省していたNHKブリュッセル支局の長尾さん達記者の方に会えて、来日したベルギー国王陛下夫妻と非公式なご対面があり、そのときに実は、もうひと組の犠牲者家族(同じ地下鉄内で意識不明の重体になったけれども生還された日本人男性とその奥様)のお二人にも初めて対面。この辺のことはまた機会を見て書ければ・・ですが、会いたかった方々に、次々と会えた月だったのです。

そしてこの10月29日に用意されていたもう一つの大きなイベントが、出身高校・福岡県立東筑高校の東京同窓会でした。名優・高倉健さんの母校であることが私たちの誇り! 今年は私たち86期生が幹事イヤーであり、1年前から皆があらゆる準備を進めていました。そして当日、ふたを開けてみれば、私たちの期は110名が大集合。確か1学年450名くらいでしたから、実に4人に一人が集まったという算段になります。すごい・・。首都圏在住メンバーが中心ですが、北九州市からも応援がたくさん駆けつけてくれました。

この同窓会自体は卒業生であれば老若男女、どんな年齢の人でも来れるので、お年寄りからフレッシュ大学生まで、実に全部で700名ほどが集まる大披露宴のような雰囲気のイベントです。

私はこの3月に思いがけずテロ事件で夫を亡くし、とてもではないですがお手伝いを出来なくなってしばらくが過ぎ、やっと再び準備に参加し始めたのは9月に入ってすぐのことでした。割り当てだったパンフレット制作からお手伝い。とはいえ、すでに優秀な企画&グラフィック担当の友人たちが居たので、私はちょこっとコピーや原稿をお手伝いしただけ。

そんなやり取りのために同級生の間でたくさんeメールが飛び交う中、ある日、皆が「ジルさんの映画をパンフレットの最終ページに入れよう」と言い出してくれました。

 

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それがこのページです。

タイトルに「東筑会86期は、ジル・ローランの「残されし大地」を応援しています。」とあります。映画そのものの紹介と共に、私のメッセージも掲載してくれました。

ジル、まさかこんなことになるとは思ってなかったでしょ。会ったことのない私の北九州市の故郷の同級生に「ジルさん、ジルさん」なんて呼ばれて。でも考えてみれば、君も1969年生まれで、この86期の大半と同い年。皆の人生が色んな方向に枝分かれてしていったように、46歳で亡くなった君も、同じくらいの長さの時を地球上で頑張ってついこの間まで、生きていた。皆の好意で、特等席を設けてもらいました。

それにしても、このページにも書かせてもらった私のメッセージですが、とてつもなく思うのは、「同じルーツがあるって本当にいいね」ということ。2年前からこの同窓会に参加していて、薄っすらと感じていたことですが、今年はその思いを本当に強くしました。

人生の旅をすればするほど、同じルーツを持つ仲間に会えるって、なんて素敵で心強いことなんだろうと。

東京に憧れて18歳の時に大学進学と共に上京し、その後ずっと帰省はしても、住むために戻ることはなかった故郷、北九州市。そして挙句に30代で会社を1年間休んでイギリスに留学してみたり、それが高じて(またはこじらせて!)ベルギー人と国際結婚までして、子供が二人も生まれて、そして最後にはその夫が、地球規模の事件の中で亡くなってしまった。遂には、銀河の一部に放り出されてしまったような気持ちでした。

たくさん旅をすることは、見聞が広がるということでもあります。ヨーロッパとつながるということは、中東やアフリカとも間接的につながることでもあり、世界はぐんと広がりました。一方で正直、難しいこともいっぱいありました。夫とはコミュニケーションの難しさに悩んだこともいっぱいあるし、日本人同士なら何となく私のボケっぷりを大目に見てもらえるようなことでも、うまく伝わらない場面が数多くありました。

出会った頃は、「そっか、二人ともカルチャークラブ聞いてたんだね〜!」なんて、タメ(同級生)であることに盛り上がったものの、深く付き合っていけば、やっぱり、過去40年ほどの間に育った文化的背景にはかなりの隔たりがあるし、歴史的にはもっと、交流のなかった時間の方が長かった国と国です。

 

でも、私には帰ってこれる場所があるんだなあ。

しょっちゅうボーッとしていて、本当に許してもらっていいの?という私ですが、「うっこ(私の高校生の時のニックネーム)変わってないね、いいね」と認めてもらえる、可愛がってもらえる。ものすごい安堵感があり、あの夢いっぱいだった頃に返れるような不思議な感覚があります。それと同時に、自分が来し方、足元がわかる。

打ち上げの時には、懐かしい顔が110個も並んだ光景に誰もが奇跡を感じたはず。もしかしたらもうこんなことは二度とないかもしれません。絆が強まったところで、これからもきっと散発的に集まることはあると思うけれども、今日のような”奇跡”はもう経験しないんだろうなあ。

会が終了した後も、LINEやfacebookで余韻を楽しむようにあらゆる楽しいやり取りをしていますが、パンフレットのデザインもしてくれた親友(実はなんとジルと全く同じ生年月日)が月曜日の朝に「みんな〜、間違えて会社じゃなくて、学校に行かないようにネ!」とメッセージ。本当にそうなっちゃいそうな勢いだったかもしれない。

 

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これがパンフレットの表紙のほう。キャッチコピーは「あの人に、逢える。」

 

さて、このイベントの私の割り当ては、パンフの他には(というかこちらがメインだったわけですが)壇上で司会進行を務めることでした。高校時代にバンドをやっていたので、なんとなく「ステージ度胸があるのでは??」ということで、今年の頭には抜擢??してもらっていました。でも、もう人前で歌うこともなくなって随分時が経つし・・最近では20人余りの職場の宴会で、司会進行をしたくらいです。それに、3月や4月の時点では、そこまで気持ちが戻ってこれるだろうか・・という基本的な心配も当然、ありました。最近に成ってからは、私自身が元気でも、喪中の私を見て暗〜い気分になる人は居ないかな・・などという密かな懸念もありました。でも「応援しているよ〜」という暖かい励ましに乗っかりました。

しかし思わぬ展開で、”舞台でスピーチをする”という経験が(映画祭で)二度続いた後での、この登壇。まるでいろんなことは、今日のこの日に結実するため・・だったりして・・と思ったほど。できる準備はしておくこと、でも変更になっても気にしない、そして最後は心を運ぶことだ。・・そんなモットーがごく最近出来上がっていたために、なんとなく落ち着いて臨めました。でもそれより何より、みんなの知力と労力を結集した事前準備に対して、それを最後の最後に、本番当日に、私が落としてはならぬ!という強い思いが芽生えていました。

 

でも、ここでまた不思議だったのが、今年は縁があるのですね、NHKさん!

司会進行の相棒として現れてくれたのが、86期ではなくて94期ではありますが、地元・北九州市で活躍中のNHKアナウンサー、猪原智紀さん。お会いしたのは前日だったものの、気遣い上手、プロならではの積極的な提案、役に立つアドバイスを色々と頂いて、彼と組めたことで自分が想像していたよりもずっとうまく行きました。前日と当日の準備の段階で、不安が一つ一つ消去されていって。もともと緊張しぃなのに、最後には本番が楽しみになっていたほどです。最終的には、厚かましいながらも姉弟のような、他のメンバーから言わせると「とても息が合ってたね〜!」というコンビとなることができました。「鵜戸さん、声が菅野美穂に似てますね」など、乗せる乗せる。そしてこの会の司会イメージは「紅白歌合戦で行きましょうね!」など。すっかり、厚かましい脳内イメージのミルフィーユです。

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こちらは会も終わって着替え、すっかりリラックスした時に交わした握手。猪原さんも本当にありがとうございました。

 

そしてさらに、この日の奇跡っぷりを印象付けてくれた締めくくりが、三次会として訪れた夜のイベント、同級生の男子が経営している吉祥寺にある「サーカスカフェ」というショーパブ見学。

アットホームな一室の中でめくるめく煌びやかなダンスショーが展開。ダンサーはUSJ出身の若者などハイレベル。そして、それより何より、同級生・本城トオル君の47歳にしてスレンダーなボディと艶姿、素晴らしいサービス精神で繰り広げられるショータイムに、や、やられました・・。そしてさらにそれを、一緒に貸切状態で見ている顔、顔、顔・・。暗闇の中、煌びやかな照明に照らされている弾ける笑顔が全て、大好きな同級生たちという不思議さ。

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このショーパブはこじんまりとしたスペースゆえに、本当にダンサーを文字通り目の前で見ることができる、またとない場所です。しかも半端ない練習が必要であろう、クオリティの高さをキープしながらトークも含めてどこかあったかい雰囲気。

私、今度は女子会だか子供連れでも(4歳と6歳でもきっと好きだと思う)、また行きますよ!! 久しぶりに、心から明るくなれました。ダンスってやっぱり、生きていることを謳歌する素敵な表現方法だ。

 

奇跡続きの10月はこうして終わっていきました。そして10月最後の奇跡は、奇跡でありながらも地に足をつけさせてくれる、ルーツ確認のイベントでした。

洪水のように、愛情と、ご褒美と。

いろいろなことを頂いた1か月が終了。

みなさん、ありがとう。神様、(ちょっと恨んだこともあったけど)ありがとう・・。

テロが起きた直後のfacebookにも、あの時も実感のままに書いたけれども、テロなんて結局、失敗なんだと思います。かえって彼らの敵であろう「愛情」や「友情」や「連帯」という意識を人々の心に強く目覚めさせるだけ・・なんだと。より良い世界の実現にはまだまだ時間がかかるのだろうけれども、優しい人たちが大半であるこの世の中を私は信じ続けます。

そしてこんなことを書くのは縁起でもないけれども、もしここで、私自身も不慮の事故で亡くなるようなことがあったとしても、私は悔しがらないんじゃないかと思う。一生懸命頑張れたひとときがあった! という意識がある今ならば。そうなってしまったんなら仕方ない、今度は私が皆をあの世から守る方に回るんだぞ・・と思えるような気がする。

もしかしたら、きっとジルもそんな風な思いで、あの世に行っているんじゃないか。そんな気がします。

でも、実際には私はまだまだ死にませんよ〜! この世とあの世で頑張るツインタワーです。これからも不思議な巡り合わせなどのコーディネートについては、ジルがあの世で頑張ってくれるでしょう。そして口があって喋ることのできる私は、この世でまだまだ喋り続けようと思っています。

 

我が東筑高校 の”名誉”86期、ジル・ローラン監督(1969年9月16日生まれ)の

映画「残されし大地」は2017年春、公開予定!

https://www.facebook.com/nokosareshidaichi/

 

 

奥山和由さんと映画「地雷を踏んだらサヨウナラ」 One Step On a Mine

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2000年10月28日(土)の朝日新聞・夕刊コラム。題字は奥山さんの手書きだそう。

 

映画「残されし大地」について、プロデューサーの奥山和由さんから連絡があったのは8月29日、NHK「おはよう日本」での放送後すぐのことでした。

朝、番組を取材してくれたNHKの鴨志田さんから「鵜戸さん。一本電話があったんですけど、プロデューサーの奥山さんということで下のお名前はおっしゃらなかったけど、京都の映画祭のことで、鵜戸さんとご連絡を取りたいと。」京都の映画祭で、奥山さんといえば、あの北野武を映画監督として世に送り出した人? えぇ、まさか・・。

携帯番号をもらったのは午前中だったにも関わらず、この日に限って打ち合わせラッシュ。「腰を据えて」電話をできる時間がなかなか訪れず、ついに夜の8時に。(その間、居てもたってもいられなかった奥山さんは私のことを探し回ってベルギー大使館など方々にご連絡をしていたそう。)自宅の1Fで遊んでいた子供達に「ママちょっとお仕事の電話してくるからね」と言い、2Fへ移動。

電話から聞こえてくるのは丁寧ながらも温度の高い感じの、どこかで聞いたことのある声。「こんなね、映画こそ世に出さなくては思って。普段は朝NHKを見ることもないのが、たまたま昨年亡くなった母の家で遺品整理をしていたら、画面に釘付けになって。福島について言いたいことがあったとしても、デモをやるんじゃなくて、例えばこういう表現こそが・・」と溢れんばかりの気持ちで感動を伝えてくれます。

私はといえば、はい。・・と冷静に返事を繰り返しながら耳を傾けつつも、まだちょっと狐につままれたような気持ちのまま、4日後にお会いする約束をして電話を終えました。

いざ、お会いしに行く前の日の晩、夫が夢の中でどうやら私の右側に座っているらしい。けれども顔は見せず、「ずっと隣に居るからね」と言う声だけが聞こえます。そしてその日の朝、仏壇の前で祈りながらロウソクを見ると、芯がたまたまUの字に傾いてしまったのか、赤々とした炎が2つに分かれて仲良く並ぶように燃えている珍しい光景を目にしました。

 お会いしたのは銀座の外国人記者クラブ。ビルの上階、初めて訪れる歴史あるクラブの壁には錚々たるメンバーの映画人のモノクロのパネルが並んでます。

送った試聴用のリンクで映画全編を3度もご覧になっていた奥山さんから発せられるのは、私にとってみれば「そうそう、そこをそういう風に見て欲しかったんです」というコメント。素人ながらも表情に味のある登場人物、微細な佇まい。そして何より「映画密度が高い」というコメントは、もしジルが聞いていたら、本当に喜んでいたでしょう。

「映画密度が高い。」

私が今まで聞いた映画評の中で、最短かつ最高の褒め言葉です。

しかしそれでもまだ、京都国際映画祭のクロージング上映、という華やかな提案に即答できなかった私。シリアスな映画のテーマとジルの亡くなったシチュエーション。それらが、どこか気楽にも聞こえる映画祭のキャッチコピー「上ル、上ル」にすんなりマッチするように思えず。また、よくよく考えたら私の一存で決められることではなく、ベルギーのプロダクションとも相談しなくちゃいけないんだっけ・・とここでは一旦、保留にさせてもらいました。

けれども、「東京でとにかく一周忌に合わせて映画館で上映をしたいんです」という私の希望に対して、「そしたら、映画館はここかここ、配給会社はここがいいんじゃないか」などと、出てくる提案が私の思い描いていた通り。静かな興奮状態で帰宅しました。ドキュメンタリー映画としては理想の展開です。なかなか苦労する映画も多い中、シンデレラ・フィルムです。けれども、メディア関係に勤めてはいても、映画となると全くもって、門外漢な私。この展開をどう受け止めるべきか、喜ばしいことなのだろうけれども、頭で考えてもよく分かりません。

しかし私はどこかでジルが喜んでいる、と感じていました。実際に話はできないので代わりに判断するのは難しいのですが、映画祭に関しては、京都は住みたいと言っていたほど好きな街。Kitanoも好きな監督の一人。そして、深く考えすぎないこと。なぜなら、映画祭=お祭りだからです。死者を弔うことは古来からお祭りの中でも表現されてきたこと・・。

ベルギーのプロダクションともスカイプで長電話をし、遅ればせながら映画祭に参加希望を表明。

その後は、実動部隊となってくれる配給会社の太秦の小林さんと3人でお会いしたり、時折電話で打ち合わせを続け、去る10月16日の映画祭のクロージング上映が実現したのです。この間、実にたったの1ヶ月半でした。

 

さて、そんな映画「残されし大地」についての話をなぜ、映画「地雷を踏んだらサヨウナラ」に結びつけたかったかというと・・。

このブログの冒頭に載せたコラムの中で、奥山さんが言っているのです。「独立後に初めて製作したこの映画の公開初日、それはたまたま私の46歳の誕生日でした」と。

ジルは享年、46歳です。

さらに奥山さんにとって、「自信を素直に表現できた初めての作品でした」とのこと。

言わずもがな、ジルにとって、この「残されし大地」は初監督作です。これまで続けていたサウンドエンジニアとして、スタッフとしての仕事ではなく、初めて自分を中心において思うがままに困難も楽しみながら、過去とは一線を画して自分自身の関心のあること、好きなことを詰め込んで表現した映画でした。

「地雷を踏んだらサヨウナラ」は、2000年にロングランヒットしたので記憶にある方も多いとは思いますが、カンボジアで当時26歳で亡くなった戦場カメラマン、一ノ瀬泰造さんの生涯を描いた作品。危険な旅を続けていく中で、最後に友人に向かって残した言葉が映画のタイトルになっています。最後は地雷で亡くなったのではないけれども、やりたいことに向かって突き進んでいくしかないさ、あとは天のみぞ知る、という明るい覚悟のようなものが込められています。

主演の浅野忠信さんは彼自身に生き写しということで、映像の中で実に若々しく、キラキラと輝いています。戦場とはいえどもその苦労を描くというよりは、写真を撮ることが好きで仕方がなかった、嬉々として動き回っていた一ノ瀬泰造の姿のほうが印象に残ります。私はそこにもやはり、ジルを重ねてしまいました。

ジルが撮影をした福島は戦場でこそないけれども、荒廃した信じられない光景と豊かな自然が共存するという意味では、ちょっと戦場跡のような場所でもあります。さらに、その後ジルが突き進んでいった(・・とはいえ故郷ですから、戻るだけと言えばそうなのですが)ベルギーは、昨年末、テロ危険度が今までになくアップした状態でした。パリでの11月のテロを受けて、真犯人が潜んでいると目されたブリュッセル。いつもと変わらず平穏に見えた平穏な3日間、テロ予防のためにブリュッセルの全学校、全交通機関をストップさせるという、政府による前代未聞の処置が取られた直後でした。

私の両親も「本当に今、帰らなくちゃいけないの?」と心配するし、私自身にも一抹の不安がなかったわけではありません。けれども本人は「いずれにしてもこれからは、テロの心配とずっと一緒に生きていかなくちゃいけないんだし。」と、未編集の映画を携えて故郷へと帰って行きました。12月8日。あの後ろ姿が最後にこの目で見た、最後のジルになりました。

けれどもジルは、最後は本当にやりたいことを遂げつつある最中に、亡くなったのです。問題意識を抱えながら、けれども昔からやってみたかった「映画を撮る」「映画を作り上げる」というプロセスそのものにも、嬉々としながら。

擬・戦場から擬・戦場へと移動して、散っていったジル。

私の思いはさらに、決して遠くない過去に、戦場で一ノ瀬泰造さんのように散っていったフリージャーナリストの方たちにも及びました。昨年の年明け、シリアで亡くなった後藤謙二さん。数年前にアフガニスタンで銃撃されて命を落とした山本美香さん。改めて調べてみると、後藤さんは享年47歳、山本さんは45歳でした。

この奥山さんとの出会いの大きなきっかけを作ってくれたNHKの記者、鴨志田さん(男性)は47歳、そして長尾さん(女性)は45歳。私はジルと同じ・・現在、46歳です。「テロのたびに犠牲者の数をレポートし続けるのではなくて、どこかで僕らも立ち止まりたい、と思っていたところにジルさんの存在があったから。立ち止まれてよかった」と言ってくださったお二人。

この数字の合致はなんなのでしょう。ただの偶然・・?

数字が好きな私が一人で騒ぎたがっているだけでしょうか。

亡くなった方達のいわゆる魂が、エネルギーのようなものが、どこかで時を超えたある時点でクロスして、新しい何かを生み出すことがあるのかもしれない。私にはそんな風に思えます。

ところで、映画「地雷を踏んだらサヨウナラ」を今回の奥山さんとの出会いを通して、改めて見てみたのは言うまでもありません。けれどもやはり、人が爆弾で血まみれになり死んでいくところを見るのは、私にとってヘビーでした。絵として作り込んだものということは分かっているのですが、やはり想像してしまうのです。

ジルはどんな爆撃を背中に受けたのだろう。その時は、こんな風に真っ赤になってしまったのだろうか。ベルギーに1日遅れで到着し、現場はもちろんのこと遺体を見ることが叶わなかった私はずっと想像をし続けるのでしょうか。

やっぱり映画は面白い、どんどん見たい、研究したい。今のような時期なら尚更です。ジルの代弁をしていくのなら、ジルの知識にも追いつきたい。そう思いつつも、まだまだフィクションであろうとも見るもの全てを受け止める体力が追いつかない部分もあります。徐々に・・・です。でも、見たい映画が、たくさんあるんです。

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一ノ瀬泰造さん。

www.youtube.com

「僕が生まれた日が、一ノ瀬泰造の死が日本で報じられた日。これはもう呼ばれたとしか思えない」と浅野忠信さん。

セルフ・ポートレート Self-portrait 'First Digital G'

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ジルが初めて日本を訪れたのは2009年の8月。

これはその直前、2009年7月3日が日付となった写真です。

もっぱらアナログ派だったのが、初めてデジタルカメラを購入し、鏡に向かって試し撮り・・した結果のセルフ・ポートレートだと言っていたはず。

あまり意味はなく、文字通り試し撮りだったはずの写真ですが、タイトルが'First Digital G'(Gとはつまり自分のイニシャル)となって保存されていたので、面白いなと思いアップしました。

そして、当然ながら、ちょっと若い・・。私と出会ってから苦労させてしまったかな。7年前ですものね。

 

私が今、ひとつ考えていることがあります。それはいずれ、ジル・ローランの名前でインスタグラムのアカウントを取って、写真を次々と上げていくこと。フォトグラファーとしてのジルの視点も紹介できたら、と考えてはいるのです。

もちろん、写真も大好きだったので・・。とはいえ、アナログ時代のものが大量にベルギーに残っているはずで、いずれはそれらを発掘してデジタル化していく作業も必要です。いつになることやら。

しかし、この'First Digital G'以降は、もっぱらデジタル写真になっているので、そこからまずは選んでいけばいいのでしょうね。

映画の公開が来年春ですから、その前段階でジル・ローラン自身を知ってもらうためにも、来年早々のスタートを目標にしたいです。(と、ここで宣言・・して大丈夫かしら。)