故ジル・ローランを偲んで

A blog to remember Gilles Laurent, who died in Brussels Attack in the middle of making his film about Fukushima / this blog is organized by his wife Reiko Udo

もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉓

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2014年、ジルが単独で訪ねたときの、松村さん。背後にあるのは当時まで荒廃していた富岡の駅。

線路だったはずのところは緑のジャングルに覆われて。

 

Vol. 23 映画「残されし大地」への道 〜その2

 

さて、㉑のお話の続きです。

 

それは2014年の秋ごろだったと思う。

ジルがある日、「ねぇ、この人知ってる?」と私に尋ねてきた。

見せられたのはインターネットの画面。荒野のような場所に立つブルーの作業着。白髪だけどなんだか活力ある瞳を持った男性の姿だった。

それはフランス語のニュースサイトで、「原子力発電所の事故以降も、ひとりで福島・富岡町警戒区域に残って動物の世話をしている”松村直登さん”」という男性のお話だった。

 

写真はアントニオ・パニョッタというフランス人が撮影してしたものだった。実はこのアントニオは、日本に住んでいた時期に「スクープ撮!」というとても面白い本を出しているフリージャーナリストだ。彼が福島を訪れ、松村さんについて書いた本、"Le dernnier homme de Fukushima"(福島の最後の男)をジルは早速取り寄せ、深く読みふけっていた。

 

ジルが私に強調していたのは、「この人、すごく優しいんだよ。みんなが置いていった牛や犬猫の世話をし続けているんだ。」ということだった。

 

警戒地域に残る・・ということは当時、ある意味では行政の指示に反していることだった。それゆえ松村さんのことは、日本でも口コミやインターネットサイトなどでの紹介はされていたようだが、まだまだ情報は少なかった。それよりも海外で話題になることが多かったらしく、ジルが知った時にはすでにそのアントニオの本の出版も然りだが、松村さんは様々なシンポジウムなどにも呼ばれて海外へ行くこともあったようだ。

 

たびたび松村さんのことを調べていたジルが、そのうち言い出したのが「この人にインタビューして、サウンド・ドキュメンタリーを作りたい」ということだった。そして連絡先の調査を私に依頼してきた。

 

早速探してみると、Facebookに松村直登さん本人の登録を発見し、私からメッセージを出した。「夫がこれこれこういうわけで、あなたの取材をしたいそうです。そのうちに、そちらに伺ってお話を聞かせてもらえませんか?」と。

確か、「いいですよ!」という気さくな返事がわりとすぐに来たと思う。

 

そうしてジルの福島取材が少しずつ始まったのだった。

松村さんのところへ行くには、当時は鉄道が途中から不通になっていたため、かなり手前の駅まで到達した後、そこから先はバスで行くか松村さんに車で迎えに来てもらうかしかなかった。

 

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富岡の駅、2014年。その後、私がテレビの取材で2017年に訪れたときには

もう改修の下地が出来ていた。今現在は、完全に駅はリニューアルして鉄道も通っている。

 

ジルが合計で何度、通ったかは覚えていないが、 事前の段取りは私が松村さんと電話でやりとりするものの、現地ではジルが1人で赴いた。(私は小さい子供2人と仕事があるため、常に段取り係、そして留守番を。) たどたどしい日本語で松村さんと会話をしていたようで、「今日はこんなこと、あんなことも日本語で言えたんだよ」などと報告をしてくれていた。喜びにあふれて帰ってくることもあれば、今日はあまり相手にしてもらえなかったなど、ちょっと落胆して帰ってくることもあった。

 

ちなみにここに、彼が最初に松村さんに会った後、私にメールで送るように頼んできた文章がある。つたない日本語ゆえに、その素朴さが胸を打つ。

 

〜2014/10/4

松村さん、 おとといについて ありがとう ございました。 私に ほんとう に おもしろかた。;松村さんにめんどくさくなかったとねがいます。 木曜日にあってからおもしろいことをいっしょにできるとおもうのでがんばりつづけます。Let's keep in touch. ローラン ジル 〜

  このころ、ジルが記録用に撮影した写真のかたまりが、当時の状況をとても色濃く伝えていて衝撃的なほどだったのだが(それでも松村さんからは、事故当時はもっとすごかったんだ、と言われていたらしいが)、残念ながら今それらのデータが出てこない。一部だけ発見したのが、ここに掲載している駅の写真。

 

ただ、松村さんの話を、この時の写真などを見せながらベルギーの映画仲間にしてみていたところ、何人かが「それはサウンド・ドキュメンタリーじゃなくて、映画にしないともったいない題材じゃないのか」と言って来たのだった。ジルはそんな言葉に刺激を受け、悩み考え始めた。ワクワクすることではあるけれども、それは規模が相当違うお話になってしまう。

 

しかしついに、「松村さんの映画を作る」ことを決心したのだった。

 

とはいえ監督業は初めてだ。早速ベルギーのプロダクションに連絡をした。特にそういったドキュメンタリーに強い映画制作会社の旧知のプロデューサーに、スカイプで話を持ちかけた。その後も何度か方向性などについて、相談をしていた。

時間はいつも日本では夜9時。ちょうど子供達が寝るころでもあり、ベルギーは昼の1時か2時かという好タイミングだった。この時のジルの背中と、スカイプ越しにぼんやりと見えたCVB(Centre de Video Brussels)のプロデューサー、シリルの顔とのコンビネーションは、ジルの生前によくあった光景の一つとして、今もよく覚えている。

 

ところでもちろん、映画を作るにはそれなりに予算が必要だ。

全てを自前でというわけにはなかなか行かない。そんな中、ベルギーには映画製作を公的に支援するいくつかの団体があり、いわゆる企画書での”オーディション”を受かれば、制作資金の一部を援助してもらえるという仕組みがあった。

 

2014年の暮れ、ジルはその企画書作りに没頭する。

 

年末年始は福岡県の私の実家に帰省することになっていたが、私と子供たちは2、3日先に出発し、ジルは年末ぎりぎりの31日に合流することに。とにかく、年明けには企画書を提出するんだという勢いで頑張っていた。

 

私の実家に着いてからも、企画書の練り上げ作業が続いていた。父のパソコン部屋にこもっているジルに「コーヒーどうぞ〜。」と持って行くと、あの独特の発音、「あるぃがと〜」に似た「ありがとう」で答えてくれたのを、今も思い出す。

企画書は最終的にかなり分厚いものになっており、「これはもう本ですね?」というボリュームだった。表紙にはすでに映画のタイトルと、このブログの冒頭にも置いた松村さんの写真が据えられていた。

 

そうして見事、オーディションいくつかのうち、ひとつには合格し、予算に足りない部分はあるものの、とりあえず製作準備はGOということになる。

 

しかし、この後この企画を推し進めるに当たって、思いがけない試練が舞い降りてくるのだった。

 

<つづく>