故ジル・ローランを偲んで

A blog to remember Gilles Laurent, who died in Brussels Attack in the middle of making his film about Fukushima / this blog is organized by his wife Reiko Udo

もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉑

f:id:Gillesfilm:20210303225200j:plain

映画「残されし大地」に出てくる富岡町に住む松村さんの背中。

映画の中のシーンではなく、その前段階の取材中に、ジルが撮った写真です。

 

Vol. 21   映画「残されし大地」への道 〜その1

 

2009年にジルが初めて日本に来た時、明治神宮に案内した。

都心にありながら、参道を入って行くとそこは森であることは、旅行者みんなを驚かす。

その時は既に、鳥たちが木々の間でさんざめく夕方になっていたと思う。

 

普通であれば素敵な光景を見て、カメラを取り出し、シャッターを押す。そして記念にする。

 

ところがジルがその時、「なんて素敵な音だ。」と言いながら、おもむろにリュックから取り出したのは、小型の黒い録音機器だった。小さいながら立体的なマイクがついていて、それを頭上くらいの高さに掲げながら、ジルは立ち止まっておもむろに”録音”を始めた。全然、恥ずかしそうではなかった。

 

え!? 面白いな・・!

この人は、とっておきたい素敵なものは、録音するんだな、と衝撃を受けたのを覚えている。旅の思い出に”音”を取っておこうなんて、一体どのくらいの人が普通に行う行動だろうかと。これは私が一生忘れられない、デートでの一場面だ。

 

音が好きだなんて、根っからのサウンドエンジニアなのだなと思った。

 

20代の半ばまでは特にこれといった目標がなく、レストランやバーなどでアルバイトをしていたという。(きっとそれも向いていたとは思う、彼の父がホテルを経営していて、飲食業は常に身近にあっただろうから。)

けれども20代後半頃から、何がきっかけだったのか、詳しくは忘れてしまったが、自分の好きな分野の何かで専門的な技術を身につけたいと思い、ブリュッセルの映画学校に入りサウンドエンジニアを目指したのだった。

 

その後のキャリアは順調だったようだ。以前のブログでも書いたメキシコ人監督カルロスとの出会いなどを通して、ヨーロッパではサウンドエンジニアとしてたくさんの映像プロジェクトに携わっている。

 

彼の場合、自分でも「ちょっと特徴的なんだよ」と言っていたのが、「録音」も「編集」も行うタイプのサウンドエンジニアだったことだ。「録音」の方は、たまに撮影シーンなどで私たちも見かける、大きなわた箒のようなものを持った人。腰や足元にも重そうな録音機材を従えている人たち。俳優さんたちの胸元に隠しマイクを付けたりもする。(ここは女優さんの場合はちょっとデリケートらしい。)

 

そして「編集」の方は、後でスタジオに篭り、ほぼ出来上がった映像に合わせて、改めて音をきちんとシンクロさせて行ったり、シーンごとの音量を調整したりする人だ。場合によっては、例えば映画のシーンの中で、ある人がギターを弾いているとする。そして部屋の外にカメラが移ったとする。でもその”同時感”を出すために、「そこでもギターの音が続いて小さな音で聞こえた方が素敵だ」などという”提案”を行うこともある。

 

もちろん、人によって仕事の幅は異なるのだろうけれども、「録音」と「編集」は分業であることが多いそうだ。さらには彼の場合はすべてにおいて受け身というよりは、性格的にも”提案型”であったことは間違いないだろうなぁ、と思う。

 

さて、そんなジルだけれども、私と結婚した頃から、受注する仕事だけでは移動も多すぎて大変なことなどから、何かもっと自分自身のテーマで自分のペースで仕事をできないかと考え始めていた。いきなり映画監督になろう、とまでは思っていなかったけれども、何か自分が興味を惹かれる人を見つけて、その人のインタビューを独自の方法で録音し、いわば”サウンド・ドキュメンタリー”などとして、提供することなど出来ないかと考え始めてもいた。

 

その試行錯誤はまだベルギーにいた頃から始まっており、何人かの人に丁寧な企画書を書いてオファーしては、うまく行きそうで途中で断られたりと、苦労をしていた。

 

私の覚えている範囲では、ベルギーにある、あえて誰も踏み入ることのできない国立公園(実験的に人の手を入れずに自然の成り立ちを記録しようとしている)に、特別な許可を受けて一定期間のみ入り、木々の写真を撮り続けているアーティストに、企画書を。(名前を忘れてしまった)

 

またある時は、フランスのある地域で自然と共生するコミューンを作り、様々なエコロジー活動を実践で持って提案している人・・(ピエール・ラビだったと思う。日本でも訳書がある。)に、企画書を。

 

こうしてみると、いつも関心があったのは、”自然との関わり”についてだ。何かを賭すほどに、自然との関わりに身を委ねている人たち。

 彼が常に手元に置き、手垢がつくほど何度も読んでいるらしかったのは、19世紀のアメリカ人作家デヴィッド・ソローの「ウォールデン 森の生活」だった。一貫して、自然と一体化したような暮らしに憧れていたのかもしれない。

 

けれども、作り続けたこれらの丁寧な企画書は、ご本人たちになかなか受け入れてもらえなかった。ジルはそれでもひどく落ち込むというようなことはなかったけれども、こんな流れもあり、”自然”というものに対するひと一倍の愛情をずっと持て余していたところもあったと思う。

 

その彼が、まだまだ東日本大震災の爪痕が生々しい日本にやってくることとなった。自然に対する最大のカウンターアタックが起きた福島に、関心が向かわないわけがなかった。

 

当時、本来なら誰も残っていてはいけないはずの福島県富岡町に残り、1人頑張り続ける松村直登さんという人の存在を発見し、強く強く惹かれていくことになるのは、必然だったのだと思う。

 

<つづく>