もうすぐ10年。そしてもうすぐ5年 ㉕
Vol.25 ネコが多数出演!メイキング・ビデオ
※途中で音声がない部分がほんの少しありますが、それは元々です。
皆さんのデバイスの不具合ではないので心配しないでください。
「しろ〜(ネコの名前)。 ちょっとまってください〜。」
言葉わからぬネコの背を触りつつ、演技指導するシーンが特に好き。
というか、ネコに演技指導って、世界で一番大変なことしてない!?
そして虫にも、牛にもなんとか移動を促して、いい絵を撮ろうと頑張っている。
以前のブログで「ジルの動画がなかなか見つけられなかった」と書いたが、一連の取材などが終わりしばらくたった頃、ベルギーの映画プロダクションから、この”動くジル”が入った貴重なメイキング動画が送られてきた。
映画の撮影カメラマンさんが、合間合間に撮ってくれていた映像。それを後ほどエディターさんがつなぎ合わせてくれた、いわば”思い出ビデオ”。こんなものを残してくれて、本当にありがたい。
ところどころ漏れ聞こえるフランス語。つたない日本語。
ジルの背中やら手やら、歩き方やら懐かしい。
そして、映画本編にも余すところなく捉えられていることだが、福島・富岡町の自然が本当に美しい。まるで手付かずの自然のように見える。もともと緑が多かったにせよ、当時は震災からたったの約4年半ごろ。違う意味でのワイルドさを増した状態だったのだとも思う。
でも、そこに逆に人手の入らない時の、自然や命のパワフルさを感じてしまう。
けれども私が個人的に一番好きなのは、やっぱりネコに演技指導しているところ(笑)。
ジルもカメラマンも、背中を撫でて撫でてなだめすかすけど・・なかなかうまくは行かない。でも、本編ではしっかりと別の偶然の瞬間を捉えて、ネコちゃんたちが映画にほっとする彩りを添えてくれているので、ぜひ楽しみに見て欲しい。
Special thanks to the photographer, Laurent Fénart, the editor of the film Marie-Hélène Mora, and my friend Makoto Yamashita who re-editted for me.
もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉔
Vol. 24 映画「残されし大地」への道 〜その3
㉒のお話の続きです。
全力を尽くして書いた企画書をもとに、「松村直登さん」についての映画撮影が進行して行くはずだったのだが・・。
2015年の初春だったか。ある日、松村さんについての映画がすでに他の人の手によって撮影され、間も無く公開されるという驚きのニュースが入ってきた。なぜ知ったのかというと、当の松村さんから、わたしのFacebookアカウントにその映画の「いいね」リクエストがやって来たからだった。
え? えぇ!?
題名は「ナオトひとりっきり」。中村真夕さんという女性監督が撮影・編集・監督をすべて1人で手がけたドキュメンタリー映画だった。
ジルに報告をすると、特に顔色を変えるでもなく「・・・・。じゃぁちょっと見に行ってみてくる。」とのことだった。
しかし戻ってくるなり、少し肩を落とした様子で「玲子も見て意見を聞かせて欲しい。どうしようかなぁ。だって、僕がやろうとしていたことと内容は同じかもしれない・・。」と言い出し、後日私も渋谷のアップリンクへ一緒に出かけて行った。
当日は松村さん自身もトークショーで来ており、しかもそのトークの相手は震災当時の元首相・菅直人さんだった。ナオト✖︎ナオトという企画で、詳細については忘れてしまったのだが、あの事故当時の”何が良くて何がいけなかったのか”などを壇上で話していたように思う。監督の中村さんが間合いでテキパキと動く姿が印象的だった。
映画の内容はというと、すべてをほぼ1人で担っての制作ということもあり、荒削りといえばそうかもしれないが、「この題材を絶対に出したかった」という熱意とスピード感とを大きく感じるもので、松村さんの独特な存在感とリアルストーリーとが相まって、心を打つものがあった。
これがニュースであれば、いろいろな局や新聞が、同じ人を扱うのもおかしくはないのかもしれない。けれども”作品”としての”ドキュメンタリー映画”で、しかも全く同じ人物の、同じ時期にフォーカスを当てたものが存在することはどうなのだろうか・・。しかもジルは”後発”となってしまうのである。
「先をこされてしまった」という思いに、実はジルは大きく落胆していた。私も意見を求められたものの、正直なんと言って良いかわからなかった。友達ならば「大丈夫! 別のものが出来るよ」とでもポジティブに言えるのかもしれないが、そう無責任にも言葉を発せられず、一緒になって困った顔をしていた。
松村さんを責めることはできない。なぜなら彼はただ自身の生き方に沿って生きて、来るもの拒まず、オープンに「いいですよ」と出来る限りを受け入れながら、自分のテリトリーを公開しているだけだ。よく業界でいうところの”競合”というようなことを気にしなければいけない立場ではない。
しかし、このことがある意味での「ケガの功名」とでもいうべきか。
この映画「残されし大地」の、独特の方向性を形づけることとなったのだった。
先に完成していた映画には、松村さんをメインに、そのご近所に住む友達夫婦、半谷さんらも登場していた。彼らまで含めたかったことまでは、ジルも同じだ。
だがジルは、この事件の前後(どちらだったか明確な時期は忘れたのだが)、偶然にもとある別の女性にも出会っていた。福島の街を案内する通訳ボランティアをしていた、「佐藤としえさん」。原発事故後、小高の自宅から避難を余儀なくされて色々な避難所を転々としていたが、このほど戻って来れそうなタイミングということだった。
別の人物を投入していくことで、いわばオムニバス的な味わいを持つ映画にできないか、ということをジルは考えた。最初の企画書とは内容が違ってしまうけれども。そんなことの一つ一つについても、(前回のブログで書いたように)夜になると、ベルギーのプロデューサーにスカイプで相談しては、判断を固めていった。
早速、連絡係の私は佐藤さんに電話をかけ打診。ジルも「映画に出て欲しいんです」ということを直接話すために、何度か福島に赴いた。ついには佐藤さんの旦那様も含め、このご夫婦のストーリーも織り交ぜることとなった。
あまりこれ以上書くと、まだ映画をご覧になっていない方にはネタバレになってしまうのでこれくらいにしておくが、結果としてこれが良い判断になったと思う。映像は男性の世界から徐々に女性の世界へと移り、見る者の中に、何か呼吸をすることのバランスが取れたような、不思議な味わいを持たせて終わることが出来る映画になったのだ。
たとえ同じ人物を撮ることになったとしても。何か自分なりの手法、アレンジというものを加えて、押し出していけばいいんだということ。作品を作るときの基本的な姿勢のようなものかもしれないが、そこに目覚めたジルは、もうその後はほとんど迷っていなかった。
実はジルが2015年の夏に撮影そのものを開始した時に、もうひとつ驚きの事件があった。
なんと、スイスから来た映画クルーもいたのだ。
松村さんのドキュメンタリー映画を撮影しに・・はるばると・・。私たちの知る範囲だけでも、この世の中には松村さんに題材をとった「ドキュメンタリー映画」が3本、存在することになる。(いまは4本だ。というのも、先の「ナオトひとりっきり」の続編、「ナオト、いまもひとりっきり」が昨年公開されていたようなので。)
しかしこのとき、そのスイスからのクルーを発見したことを話すジルの顔にはもう暗い影は一切なかった。ちょっとした笑い話として(というと、相手チームもこちらを見て大いに驚いたであろうから失礼なのだが)、私に披露してくれた。
本番の撮影は2015年の夏と秋、2回に分けてそれぞれ1週間〜10日間ずつくらいだったか。
スタッフは監督本人であるジルと、フランスからやって来たカメラマンと、サウンドエンジニア。(ジルはこのとき、サウンドエンジニアは兼ねなかった。一念発起のプロジェクトゆえ、監督に専念したかったのだ。) そして日本人の通訳兼コーディネーターひとりで、合計4人のチーム。
これはこれで、映画制作としては小さなチームだけれども、ジルにとっては初めてのマイ・クルー。私自身は撮影について行っていないので、写真を見たりエピソードをかいつまんで聞くだけ。帰って来たときに、彼のパソコンで松村さんや佐藤さんの表情を見せてもらって「いいね〜」と話したことを覚えている。
ところが、この映画の完成品を見ることになるのが、ジルが命を落とした後になるとはこの時は露ほども考えていなかった。
2016年の5月。
ベルギーのプロダクションから送られて来た編集済みの映画をスマホで最初に受信し、恐る恐る・・・でも待ちきれなくて、その場、外出先ですぐに再生ボタンを押した。
これは私にとって、思い出に苦しくなるパンドラの箱か。
それともジルの思いのたくさん詰まった、本物の宝箱か。
私にとっては、このあと時間をかけて、完全に後者の存在になってゆく映画だった。
もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉓
Vol. 23 映画「残されし大地」への道 〜その2
さて、㉑のお話の続きです。
それは2014年の秋ごろだったと思う。
ジルがある日、「ねぇ、この人知ってる?」と私に尋ねてきた。
見せられたのはインターネットの画面。荒野のような場所に立つブルーの作業着。白髪だけどなんだか活力ある瞳を持った男性の姿だった。
それはフランス語のニュースサイトで、「原子力発電所の事故以降も、ひとりで福島・富岡町の警戒区域に残って動物の世話をしている”松村直登さん”」という男性のお話だった。
写真はアントニオ・パニョッタというフランス人が撮影してしたものだった。実はこのアントニオは、日本に住んでいた時期に「スクープ撮!」というとても面白い本を出しているフリージャーナリストだ。彼が福島を訪れ、松村さんについて書いた本、"Le dernnier homme de Fukushima"(福島の最後の男)をジルは早速取り寄せ、深く読みふけっていた。
ジルが私に強調していたのは、「この人、すごく優しいんだよ。みんなが置いていった牛や犬猫の世話をし続けているんだ。」ということだった。
警戒地域に残る・・ということは当時、ある意味では行政の指示に反していることだった。それゆえ松村さんのことは、日本でも口コミやインターネットサイトなどでの紹介はされていたようだが、まだまだ情報は少なかった。それよりも海外で話題になることが多かったらしく、ジルが知った時にはすでにそのアントニオの本の出版も然りだが、松村さんは様々なシンポジウムなどにも呼ばれて海外へ行くこともあったようだ。
たびたび松村さんのことを調べていたジルが、そのうち言い出したのが「この人にインタビューして、サウンド・ドキュメンタリーを作りたい」ということだった。そして連絡先の調査を私に依頼してきた。
早速探してみると、Facebookに松村直登さん本人の登録を発見し、私からメッセージを出した。「夫がこれこれこういうわけで、あなたの取材をしたいそうです。そのうちに、そちらに伺ってお話を聞かせてもらえませんか?」と。
確か、「いいですよ!」という気さくな返事がわりとすぐに来たと思う。
そうしてジルの福島取材が少しずつ始まったのだった。
松村さんのところへ行くには、当時は鉄道が途中から不通になっていたため、かなり手前の駅まで到達した後、そこから先はバスで行くか松村さんに車で迎えに来てもらうかしかなかった。
ジルが合計で何度、通ったかは覚えていないが、 事前の段取りは私が松村さんと電話でやりとりするものの、現地ではジルが1人で赴いた。(私は小さい子供2人と仕事があるため、常に段取り係、そして留守番を。) たどたどしい日本語で松村さんと会話をしていたようで、「今日はこんなこと、あんなことも日本語で言えたんだよ」などと報告をしてくれていた。喜びにあふれて帰ってくることもあれば、今日はあまり相手にしてもらえなかったなど、ちょっと落胆して帰ってくることもあった。
ちなみにここに、彼が最初に松村さんに会った後、私にメールで送るように頼んできた文章がある。つたない日本語ゆえに、その素朴さが胸を打つ。
〜2014/10/4
松村さん、 おとといについて ありがとう ございました。 私に ほんとう に おもしろかた。;松村さんにめんどくさくなかったとねがいます。 木曜日にあってからおもしろいことをいっしょにできるとおもうのでがんばりつづけます。Let's keep in touch. ローラン ジル 〜
このころ、ジルが記録用に撮影した写真のかたまりが、当時の状況をとても色濃く伝えていて衝撃的なほどだったのだが(それでも松村さんからは、事故当時はもっとすごかったんだ、と言われていたらしいが)、残念ながら今それらのデータが出てこない。一部だけ発見したのが、ここに掲載している駅の写真。
ただ、松村さんの話を、この時の写真などを見せながらベルギーの映画仲間にしてみていたところ、何人かが「それはサウンド・ドキュメンタリーじゃなくて、映画にしないともったいない題材じゃないのか」と言って来たのだった。ジルはそんな言葉に刺激を受け、悩み考え始めた。ワクワクすることではあるけれども、それは規模が相当違うお話になってしまう。
しかしついに、「松村さんの映画を作る」ことを決心したのだった。
とはいえ監督業は初めてだ。早速ベルギーのプロダクションに連絡をした。特にそういったドキュメンタリーに強い映画制作会社の旧知のプロデューサーに、スカイプで話を持ちかけた。その後も何度か方向性などについて、相談をしていた。
時間はいつも日本では夜9時。ちょうど子供達が寝るころでもあり、ベルギーは昼の1時か2時かという好タイミングだった。この時のジルの背中と、スカイプ越しにぼんやりと見えたCVB(Centre de Video Brussels)のプロデューサー、シリルの顔とのコンビネーションは、ジルの生前によくあった光景の一つとして、今もよく覚えている。
ところでもちろん、映画を作るにはそれなりに予算が必要だ。
全てを自前でというわけにはなかなか行かない。そんな中、ベルギーには映画製作を公的に支援するいくつかの団体があり、いわゆる企画書での”オーディション”を受かれば、制作資金の一部を援助してもらえるという仕組みがあった。
2014年の暮れ、ジルはその企画書作りに没頭する。
年末年始は福岡県の私の実家に帰省することになっていたが、私と子供たちは2、3日先に出発し、ジルは年末ぎりぎりの31日に合流することに。とにかく、年明けには企画書を提出するんだという勢いで頑張っていた。
私の実家に着いてからも、企画書の練り上げ作業が続いていた。父のパソコン部屋にこもっているジルに「コーヒーどうぞ〜。」と持って行くと、あの独特の発音、「あるぃがと〜」に似た「ありがとう」で答えてくれたのを、今も思い出す。
企画書は最終的にかなり分厚いものになっており、「これはもう本ですね?」というボリュームだった。表紙にはすでに映画のタイトルと、このブログの冒頭にも置いた松村さんの写真が据えられていた。
そうして見事、オーディションいくつかのうち、ひとつには合格し、予算に足りない部分はあるものの、とりあえず製作準備はGOということになる。
しかし、この後この企画を推し進めるに当たって、思いがけない試練が舞い降りてくるのだった。
<つづく>
もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉒
Vol. 22 日常を切り取る
本日は閑話休題。
ジルが亡くなった時にリュックの中に持っていたパソコンのハードディスクは、復元が大変だったようだ。なにせ爆撃だったのだ。現地の支店で一度は断られた。けれどもベルギーの義兄が、アップルコンピューターのCEOのトーマス・クックさんに事情を説明するお手紙を書いてお願いをした。すると即座にがんばって対応するように現地に指示してくれて、見事に中身を取り出せた。(さらには後日談として、トーマス・クックさんは”何か新しい好きなものを1台ご家族に差し上げたい”とまで言ってくれた。だから私はそれまでもこれからも、ずっとマック派。)
そしてそのハードディスクのコピーを一部、私は譲り受けた。
ハードディスクの中を探ると、当たり前だけれどもジルが生きていた時の痕跡がその中に色濃く残っている。メールはパスワードも不明だしどちらにしてものぞけないのだが、数多くの写真や書類には、ジルの思考の足跡が、年月をかけて積み重なっているようで、タイトルを見ているるだけでも切なくなった。
中でもどうしても手が止まってしまったのは、日本に住んでいた時の様々な写真や動画が収められていた部分。ディスクを譲り受けた時は、さっと何が入っているかを確認したくらいで、なかなかじっくりと深掘りをする事は今ままで叶わなかったのだけれども、ようやく少しずつ整理を始めている。
撮ったり撮られたりしていたことを、私も忘れていたような日常のシーンがある。
ジルのちょっと風変わりなところはといえば、何かのイベントの時にカメラを出す、というよりも、日常の中でちょっとした気に入った”画角”があればそれをじっくり撮り始める、というものだった。定点観測のようなカメラワークが好きで、映画「残されし大地」も、大きく動くアクション的な映像はなく、ただただ静かに対象を見守っているようなものが多い。
ここに発見したある日の動画も、ある意味そんなジルらしさが出ているなぁとしみじみ思ったので、本人にはテレパシーで許可を得たとして、ここに一部を公開させてもらう。
(3月11日からアップする映画「残されし大地」もこれと同じvimeo形式になると思うので、その動作テストも兼ねて。)
映像リンク⇩
同じ視点からじっと我々を見ているだけなのだが、何度か見ているとそれぞれの表情のクセがじわじわっと浮き出てくるのがおもしろい。電車のアナウンスや雑音、周囲の人のおしゃべりが混じったり。ドキュメンタリーって、そういうことなのかな。
反対側にジルがいたのは知っているし、「パパ撮ってるよ」とは長女に一応囁いたものの、「だからって何」という表情の幼い白い顔。そして次女の仏頂面が次第に鼻垂れ、時々揺れる大きすぎるニット帽のとんがった先っぽ・・。
なんてことのないビデオで、他の人が見たならだからどうだ、というものかも。けれどもこの映像を通して、ジル自身の視線が降り注がれていることが手に取るようにわかり、そしてその降り注ぎがいまも続いているのかな・・? と感じさせてくれる2分ちょっとなのだ。
思いがけず、私たちにとっては違う価値を増してしまったのだけれども。大切な映像だ。
3月11日〜22日 映画「残されし大地」無料オンライン上映について
本日、朝日新聞東京版の朝刊「エンタメ!」コーナーにて、ジル・ローラン監督の映画「残されし大地」のことを紹介してくださっています。
3月11日(東日本大震災から10年)から、3月22日(ジルが亡くなったベルギー・テロから5年)の12日間、無料オンライン上映を予定しています。
リンクがUP出来次第、お知らせいたしますので、どうぞお待ちください。
ブログをご覧いただき、ありがとうございます。それまでもしよろしければ、2月11日よりこのブログ上で東日本大震災に思いを寄せるため、また故人を偲ぶために、「もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年」をシリーズで連載してしていますので、お読みいただけると嬉しいです。
5年前にこの映画にまつわるストーリーを発見していただき、様々な場所で紹介し続けてくださっている、朝日新聞社・記者の伊藤恵里奈さんに感謝いたします。
もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉑
Vol. 21 映画「残されし大地」への道 〜その1
2009年にジルが初めて日本に来た時、明治神宮に案内した。
都心にありながら、参道を入って行くとそこは森であることは、旅行者みんなを驚かす。
その時は既に、鳥たちが木々の間でさんざめく夕方になっていたと思う。
普通であれば素敵な光景を見て、カメラを取り出し、シャッターを押す。そして記念にする。
ところがジルがその時、「なんて素敵な音だ。」と言いながら、おもむろにリュックから取り出したのは、小型の黒い録音機器だった。小さいながら立体的なマイクがついていて、それを頭上くらいの高さに掲げながら、ジルは立ち止まっておもむろに”録音”を始めた。全然、恥ずかしそうではなかった。
え!? 面白いな・・!
この人は、とっておきたい素敵なものは、録音するんだな、と衝撃を受けたのを覚えている。旅の思い出に”音”を取っておこうなんて、一体どのくらいの人が普通に行う行動だろうかと。これは私が一生忘れられない、デートでの一場面だ。
音が好きだなんて、根っからのサウンドエンジニアなのだなと思った。
20代の半ばまでは特にこれといった目標がなく、レストランやバーなどでアルバイトをしていたという。(きっとそれも向いていたとは思う、彼の父がホテルを経営していて、飲食業は常に身近にあっただろうから。)
けれども20代後半頃から、何がきっかけだったのか、詳しくは忘れてしまったが、自分の好きな分野の何かで専門的な技術を身につけたいと思い、ブリュッセルの映画学校に入りサウンドエンジニアを目指したのだった。
その後のキャリアは順調だったようだ。以前のブログでも書いたメキシコ人監督カルロスとの出会いなどを通して、ヨーロッパではサウンドエンジニアとしてたくさんの映像プロジェクトに携わっている。
彼の場合、自分でも「ちょっと特徴的なんだよ」と言っていたのが、「録音」も「編集」も行うタイプのサウンドエンジニアだったことだ。「録音」の方は、たまに撮影シーンなどで私たちも見かける、大きなわた箒のようなものを持った人。腰や足元にも重そうな録音機材を従えている人たち。俳優さんたちの胸元に隠しマイクを付けたりもする。(ここは女優さんの場合はちょっとデリケートらしい。)
そして「編集」の方は、後でスタジオに篭り、ほぼ出来上がった映像に合わせて、改めて音をきちんとシンクロさせて行ったり、シーンごとの音量を調整したりする人だ。場合によっては、例えば映画のシーンの中で、ある人がギターを弾いているとする。そして部屋の外にカメラが移ったとする。でもその”同時感”を出すために、「そこでもギターの音が続いて小さな音で聞こえた方が素敵だ」などという”提案”を行うこともある。
もちろん、人によって仕事の幅は異なるのだろうけれども、「録音」と「編集」は分業であることが多いそうだ。さらには彼の場合はすべてにおいて受け身というよりは、性格的にも”提案型”であったことは間違いないだろうなぁ、と思う。
さて、そんなジルだけれども、私と結婚した頃から、受注する仕事だけでは移動も多すぎて大変なことなどから、何かもっと自分自身のテーマで自分のペースで仕事をできないかと考え始めていた。いきなり映画監督になろう、とまでは思っていなかったけれども、何か自分が興味を惹かれる人を見つけて、その人のインタビューを独自の方法で録音し、いわば”サウンド・ドキュメンタリー”などとして、提供することなど出来ないかと考え始めてもいた。
その試行錯誤はまだベルギーにいた頃から始まっており、何人かの人に丁寧な企画書を書いてオファーしては、うまく行きそうで途中で断られたりと、苦労をしていた。
私の覚えている範囲では、ベルギーにある、あえて誰も踏み入ることのできない国立公園(実験的に人の手を入れずに自然の成り立ちを記録しようとしている)に、特別な許可を受けて一定期間のみ入り、木々の写真を撮り続けているアーティストに、企画書を。(名前を忘れてしまった)
またある時は、フランスのある地域で自然と共生するコミューンを作り、様々なエコロジー活動を実践で持って提案している人・・(ピエール・ラビだったと思う。日本でも訳書がある。)に、企画書を。
こうしてみると、いつも関心があったのは、”自然との関わり”についてだ。何かを賭すほどに、自然との関わりに身を委ねている人たち。
彼が常に手元に置き、手垢がつくほど何度も読んでいるらしかったのは、19世紀のアメリカ人作家デヴィッド・ソローの「ウォールデン 森の生活」だった。一貫して、自然と一体化したような暮らしに憧れていたのかもしれない。
けれども、作り続けたこれらの丁寧な企画書は、ご本人たちになかなか受け入れてもらえなかった。ジルはそれでもひどく落ち込むというようなことはなかったけれども、こんな流れもあり、”自然”というものに対するひと一倍の愛情をずっと持て余していたところもあったと思う。
その彼が、まだまだ東日本大震災の爪痕が生々しい日本にやってくることとなった。自然に対する最大のカウンターアタックが起きた福島に、関心が向かわないわけがなかった。
当時、本来なら誰も残っていてはいけないはずの福島県の富岡町に残り、1人頑張り続ける松村直登さんという人の存在を発見し、強く強く惹かれていくことになるのは、必然だったのだと思う。
<つづく>
もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ⑳
Vol. 20 ジルの主夫生活 in Japan
さて、時系列の話にまた戻ります。お話としては⑱の後です。
2013年の夏の終わり。いよいよ私の前代未聞に長い長〜い育児休暇も期限切れを迎え、家族で日本へ戻ってきた。子ども2人分で合計3年半もの間、会社を留守にしてしまっていた。
最初はそこまで長くなるつもりなかったものの、第一子の育休中に第二子の妊娠がわかり、本来ならその二つの育児休業の間に、3ヶ月は復帰していなければならない時期が(制度的には)あったのだが・・あまりにも短い出社期間になってしまうため・・そして海外にいたこともあり、例外的に”連続取得”を許してもらっていたのだった。(当時の関係者の方々、ご迷惑をおかけしました、すみません・・。)
私の育休明けは2013年の9月10日くらいだったと思う。
その日を目指して、まずは8月末に私と娘たちだけで日本に戻ってきた。というのも、ジルは前回のブログで書いた、世界各地に出張する映画撮影のまだ真っ最中だったからだ。そしてジルが日本へ合流できるのは、なんと11月の予定だった。
ジルの到着を待つまでのブランク、3ヶ月近くをどうやって切り抜けたかというと・・。
まず私はKLMオランダ航空でベルギー→アムステルダム→福岡へ。(この時はまだ、オランダと福岡の直行便があった。) 実家のある福岡県北九州市に入り、当時すでに70歳代だった高齢の両親2人に、なんと当時3歳と1歳の娘両方を預けてひとり上京した。
両親には先に2人の幼稚園と保育園を探しておいてもらったので、彼らは私の育った実家で、数ヶ月を過ごすことになる。そして私は、1〜2週間おきの週末に飛行機で実家に帰り、子供達に会う、という計画だった。
両親の家で10日間ほど過ごしたあと、私はひとり上京し復職。友人宅に間借りさせてもらいながら、東京での我々の新しい住まい選定と、仕事に慣れてゆく手はずを整えた。
いつものことでもあるが、今思い返してみると、なんやかんやの手段を考え・・周囲の手をアクロバット的に借りながら、移動に次ぐ移動をしていく私たち家族の、これまた象徴的なハードな3ヶ月だったなと思う。
すべては順調、のはずだった。
澄んだ青空が美しかったある秋晴れの日。幸先がいいな、と思っていた。久しぶりに東京へ帰ってきた私は、羽田空港から乗ったリムジンバスから見えるレインボーブリッジを始めとする東京湾岸の近未来的な光景に思わずときめき、「よっしゃ! これからまた東京ライフ、頑張るぞ!」と意を新たにしていた。
ところがその同じ日。
東京で待ち合わせた友人とお茶をした後、様子伺いに実家に電話をかけた時。ひどく遠い場所にいる長女の声を電話越しに聞いた途端、泣きそうになってしまった。両親のところにいるのだからなんの心配もないのだが、電話越しに聞こえてくる、笑みと寂しさとをミックスしたようなポツポツとしたその声に、こみ上げてくるものがあった。
考えてみると、それまで子どもたちと物理的に約1,000キロも離れたことがなかったのだ。手ぶらになって大きく不安になったのは私の方だった。
そしていざ、久しぶりの出社。復帰してすぐはまだ担当として与えられる仕事も多くなく、数日はなんということなく過ごしたのだが、きっかけなしに、やはり大きな不安が押し寄せてきた。それは今後の仕事に対する不安ではなく、恐らく長いこと住んでいた場所を離れてしまった後の、”逆ホームシック”のような状態なのだった。
おそらく、しばらく幼児とのみ一緒に過ごすことで、自分の一部も”幼児がえり”してしまっていたのではないかと、今になっては思う。子どもそのものや、子どもと一緒に牧歌的に過ごした場所のことが、まとめて恋しくなってしまうのだ。
戻りたい!などと、明確に思うのではない。けれども接着していたものから剥がされたときの自然な痛みのようなもの。実際は何も心配はいらないと分かっているのに。その理性を超えた”本能的なもの”が、知らず知らずのうちに、再び私の中に育まれてしまっていたのかもしれない。
そして、会社に復帰してまだ1週間経つか経たないかぐらいの頃だったと思う。
私が電話をしたのか、たまたまジルからかかってきたのか忘れたが、勤務の休憩中に、当時まだ海外にいるジルと話したことがある。その時、この自分の複雑な感情を、涙声で切々と訴えた。人目に付きにくい喫茶コーナーの片隅に移動しながら。
ただ、この時のジルがとても優しく語ってくれたのを覚えている。明確には覚えていないのだが、「でも日本でもまた、将来に向かって新たに得られるものがあるのかもしれないんだよ。」とか何とか、そんなことを言ってくれたような気がする。
あとでこのことを自分の母に話したところ、「ジルさん、やっぱり立派な人ねぇ。」と言われたのは覚えているので、きっと何か、私を安心させるに足るひと言を言ってくれたのだろう。
さて、そして11月には無事に家族4人がまた勢ぞろいすることになるのだが・・
この時から、ジルは基本的に”主夫生活”に入ることになる。
日本に来てしまうと、言葉の問題もある上に人脈もなく、今までの映画仲間からの依頼を受けるのは難しい。さらには私がフルタイム勤務だ。ベルギーにいた時とはやや逆の立場になるのだが、平日はジルが食事などの面倒を見てくれることに。
ジルは料理が上手く、人をもてなすことも好きだった。ベルギーに住んでいた頃から友人家族と招んだり招ばれたりを繰り返していた。もともと得意なのはキッシュ、パスタ、クレープなど。気合いが入った時は、ガイドブックなんかにも載っているベルギーの伝統料理、「シコン・グラタン」(チコリとハムをホワイトクリームで煮込んだもの)を作ってくれたこともあった。
日本に来てからは、”簡単にできる家庭料理”ということで日本式のカレーと鍋料理を覚え、たびたび作っていた。そしてなぜか鍋の時は、サーモンやマグロなどのお刺身も一緒に買って来ており、鍋の直前に、アペリティフのように食べた。
ジルが亡くなって最初の命日、2017年の3月22日。彼を偲んで私が作り、子どもたちと一緒に食べたメニューは、鍋とお刺身だった。そのくらい、日本にいたジルと結びつく記憶。
基本的には主夫をしてくれてはいたが、ジルの実家の都合や、ひとつだけ大きな仕事が入った時などにベルギーへ帰ることもあった。そんな時も、必ず週に何回かはスカイプ電話をかけて来て、私とももちろんだけれども、子どもたちの顔を見てなんやかんやとフランス語で、自分も言語も忘れてもらってはならず、と話しかけていた。
とはいえ毎日ほのぼのとばかり過ごしていたわけではない。お互いにのんびりしているようで、思考がアクティブなので、ケンカもいろいろした。そのケンカの勢いや、顛末などは覚えていたりするのだが、それぞれ何が原因だったのかはよく覚えていない。
お互いに向かって投げたわけではないが、ヒートアップする口調とともに、強く手を離したお皿がシンクの中で割れたとか。怒ったジルがうちで食事をせずに、近所のレストランに行ってしまったとか。朝、出かける間際に何かでジルに文句を言われ、「それは今言うことじゃないでしょ!」と捨て台詞のように言い放ち、プンプン怒った気持ちを抑えきれず駅に着いたころ、「ゴメンネ。」(日本語で)と電話がかかって来て、スーッと気が晴れたことなど・・。
セリフも原因も明確でないのに、そういう映像や気持ちだけは覚えているのが不思議だ。
笑ったり泣いたり怒ったり。なんだかえらく感情が揺さぶられる年月を過ごしていたなと思う。今でももちろん、いろいろな感情とともに日々を生きているけれども、この時期のことについては、こんなにしみじみとしてしまうのは何故だろうか。
今だったら少しは器が大きくなっていて、同じようにケンカでヒートアップしそうな時があってもフワッと躱せそうなのになぁ、と思う。今だったら、ジルとお茶でも飲みながら、あのときは私も未熟だったからゴメンネ、などと話せそうな気もする。
もちろんそれは叶わない。
でも、届いているかどうかはわからないけれども、「今だったらそう思うよ」という強いメッセージを、心の中で念じるようにして送ってはいる。