もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉚
Vol.30 あの日のことを、書かねばならない
〜その3
㉙のお話の続きです。
「ジルが亡くなった」
そう聞いて打ちのめされて、泣きながらスカイプを切った。
心配そうに私を見つめていた母に、「ベルギーへ行くから、娘たちを北九州で預かって欲しい」と頼んだ。
迷ったのだが、今はまだ子供たちに告げないこととした。
ただ、「ママ、急に忙しくなることがわかったから悪いけど、ばぁばと一緒にしばらく北九州に行っといてね。あとで迎えに行くからね」とだけ言い、その日のうちに3人を押し込むように新幹線のホームまで見送りに行った。少し不思議そうな顔はしていたが、素直な5歳と4歳。ただ、長女の方は別れるときになぜか泣き出した。
私が選んだのは、翌日の夜のエールフランス。
この時、テロの起きたブリュッセルの空港は閉鎖されており、まずはパリから入って陸路、TGVでブリュッセルの南駅へと向かう算段だった。
春休み真っ只中のはずだが、不穏な空気漂うヨーロッパ行きだからか。飛行機の中は閑散としていた。こんな心理状態の中で、狭い空間に12時間も閉じ込められては息ができなくなるかもしれないと思い、私は普段だったらしない贅沢で、やや広いプレミアムエコノミーの席を予約していた。
日本を発ったのが夜だが、そのまま夜の闇がずっとずっと、暗いトンネルのように続いて行くような感じがしていた。目の前にボワっと唯一、黄色い光を放って見えたのは、座席の目の前にある個人用映画スクリーン。
わたしが思わず目を留めたのは、フランス製アニメの「リトルプリンス 星の王子さまとわたし」だった。
あ・・これはジルが子供たちを連れて、新宿ピカデリーに見に行ったやつじゃないか。
おそらく前年の11月末くらいだと思う。
私がインターネットでチケットを購入し、その引き換え番号をメモしてジルに渡した。大人であっても、異国に住んでいるならではの、ドギマギもあったのだろう。「ちゃんと機械からチケットを取れたよ」と、おつかいに行った子供のように、帰ってきた時に報告してくれた。
「すごくいい映画だったんだよ。自由って何か、について語っているんだ。これは大人こそ見るべきだね」 そう強調していた。映画の意味を一番深く感じとったのは、子供たちよりもジルのようだった。
私はこの映画を2度、飛行機の中で回すことになる。
ジルの言っていた意味はわかった。ルールに縛られたり、予定を立てすぎたり、安心を求めすぎたりすることが嫌いなジル。映画の中に出てくる、かつて星の王子さまに会ったことがあるという自由な”おじさん”はジルのようだった。それが解った時に、一体どういうシチュエーションでこの映画を見ることになったんだ私は・・と思い、ボロボロと泣いた。
3月30日の早朝にブリュッセルに着いたとき、ジルの友人、ひいては私の友人でもある二人が迎えにきてくれていた。お互いに息を切らして顔を合わせるなり、輪郭がなくなるほどグシャグシャになった瞳でただ黙ってきつく抱き合った。このあと、私は色々な人ときつくきつく、抱き合うことになる。ハグを挨拶がわりにするヨーロッパでも、普段はこんなに力のこもった抱擁に次ぐ抱擁は、しない。
ジルの身体はもう、前日のうちに故郷であるブイヨンに運ばれているということだった。
ブリュッセルから車で2時間。運転してくれたのはジルのお義姉さん、シルヴィー。私が恐る恐る質問をしたのか、それともお義姉さんから話してくれたのか忘れたが、ここで初めて私はジルの死にまつわる詳しい情報を聞くことになる。
ジルの死が判明したとき、警察はまずブリュッセルにいるシルヴィーのところに報告にやってきた。そのあと、家族はお互いに電話をするのではなく、それを言うために次の姉妹、次の姉妹、そして最後は両親のところへ、と人数を増やしながらどんどん車で移動していたのだった。誰もが泣きながら車を運転していたはずだ。
そして日本時間の早朝になるまで、私が起きる時間になるまで。全員で待っていた。だからあの時、スカイプの向こう側に勢ぞろいしていたのだった。
ジルが見つかるのに時間がかかったのは、多数の負傷者の手当や照合の方により時間が割かれていたからだったそうだ。
ジルは即死だった。
お医者さんの見立てでは、「おそらく本人は気づかないうちに、だったでしょう」ということだった。犯人と同じ車両で、5メートルほど離れたところで背中を向けて立っていたそうだ。最後に病院でジルの顔を見たい人、見たくない人・・それは家族の中でも分かれたようだ。けれども身体も部分的に失くした所などはなく、「穏やかな顔をしていた」ということだった。苦しむ瞬間がなかったのだったとしたら、それはよかったのかもしれないと、少しホッとした。
しかし・・私自身は、ついぞ顔を見ることが叶わないままになってしまったのだった。
前日のうちに棺は打ち付けられており、日本式のように小窓もない。家族が「明日、奥さんがくるから待ってもらえないか」と警察に聞いてくれたのだが、そこは事務的にNOだったのだ。
私がこの時、彼の顔を見なかったこと・・そのことの良し悪しの判断は、今もついていない。逆に見なかったことで、私の中では彼の死という事実が、どこか徹底的には、刻み付けられていないのである。
けれども見なかったことは、挨拶をしてあげられなかったということなのか・・到着が遅れてごめんなさい・・そんな気持ちも残ってしまった。
ブイヨンの彼の実家はホテル経営をしている。
そのホテルの中の、通常ならレストランとして営業をしている場所が、彼の棺の安置場所となり、そのスペースはすでに多数の花で埋め尽くされていた。
薄いベージュの大きな木の箱は、当然ながらだいたいジルと同じ大きさだ。この中に身長183センチのジルが入っているのか・・もう起きることのない姿で。そう想像すると、やりきれない気持ちで崩れ落ちるしかなかった。すでに到着していたジルの親友たちと、お互いに嗚咽しながらそこでもきつくきつく、抱き合った。
葬儀は3月31日。近くのカトリック教会だった。
ジルと仲の良かった4人の男性それぞれが、棺の端を「せーの!」と担ぎ、皆で教会までの5分ほどの道を行進した。雨がそぼ降っていたが、誰も傘をさしていなかった。
海外で葬儀に参列するのは初めてだったので、いつでもこうなのかは、わからない。けれども賛美歌や神父さんのお話の合間に、ある友人は詩を朗読し、ある友人はギターを奏でた。
決して因習的ではない、お葬式だった。
最後に教会の出口のところで参列者の一人一人と挨拶をしたが、その中に映画のプロデューサー、あのシリルがいた。私がスカイプ越しにちらりとした見ていなかった人。これが”初めまして”となった。彼は赤くなった目で「映画は完成させるからね、僕たちがやるからね」と必死の表情で告げてくれた。
その後、参列者たちにホテルで食事とワインが振る舞われた。
ベルギーに住んでいた時でさえ、細切れに、それぞれでしか会わなかった友人たち。ジルの仕事仲間。親友たち。家族とその友人。親戚。近所の人たち。私がベルギーに住んでいた時のたくさんのママ友。海外にいて間に合わない人以外は、ベルギーで縁とゆかりのあった人たちはみんな、そこに居た。
悲しみと笑いは紙一重というけれども・・。
食事とワインで笑顔も出てくる。ジルの思い出写真をスライドショーにして皆で見ていると、中にはクスッと笑えるようなやんちゃな若い頃の写真も出てくる。こんなに大きな悲劇の中にいるのに・・なぜか、笑えるときは笑えるのだった。そしてまだ、ジルもそこにいるような、不思議な気分になってしまうのだった。
本当に・・ジルが今にも、「たまたま2階にいただけだけど、降りてきたよ!」という風情で、「やっほぅ〜」と現れて来そうだった。
みんなみんないるのに、どうしてジルだけがいないんだ、と思った。
こんなことって、あるのかな。
でも、この時の賑やかさはまるで、私たちの方が天国にいるような感じがしたのも確かだ。
普段なら一同に会するはずのない人たちが、一同に会しているのだから。私にしてみれば、オールスターだ。これはどういうことなのだろう。夢なのだろうか。そうして、皆が思い出話に花を咲かせている。
そしていよいよ、ジルとも本当のお別れがやって来た。
4月1日に、火葬が執り行われたのだった。
私にとっては意外だったが、ヨーロッパも火葬を選択する人が増えて来ているようだ。それは個人の選択なのだろうが、ジルの場合は「灰をスモワ川に流して」という遺志があったので、それを尊重する形だった。
けれどもそこで全てを流してしまう予定にはせず、家族は私のために小さな遺灰入れを用意してくれてもいた。
時間をかけて棺が炎に包まれていった後、私に渡された小さなブルーグレイの巾着袋。
受け取った時、なぜか私は反射的に、それをみぞおちのあたりにぎゅっと押し付けずにはいられなかった。磁石で吸い付いていくようだった。
そこがその小さな遺灰の、最初の居場所なのだった。
もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉙
昨日のお話の続きに入る、その前に。
ついに今日で東日本大震災から10年。
今も行方不明の家族を探している人が居る、ということがニュースなどで伝えられる。今はどこに、海の中なのか、土地の中なのだろうか・・と必死に。
そんな人々の悲しみを思うと、私のあの時の衝撃は、軽いものだとすら思ってしまう。
私が夫の行方不明から、生死を発見するまでは5日間だった。
もちろん、悲しみに”偏差値”なんてない。どちらの方が、ということは言えない。
でも、自分の思い出をもとに想像をすると、その痛みのほどがどれほどかということが、想像の範囲でしかないのだが、手繰り寄せられるような気がするのだ。
決して忘れられない人がいて、もう会えないことが辛い。
でも、もう会えないことがこんなに辛いと、感じることのできる誰かに出会えたこと、そのことが幸せなんだと思う。そして、辛さと幸せを感じることのできる”人間”という存在に生まれてよかったとも思う。
悲しみを分かち合うことのできるのが”人間”だ。
そしてもしも、十分に分かち合えていなかったとしたらごめんなさいと、心の中で謝ることもできるのが”人間”だ。
思い出すことだけでも繋がれる。
自分のことでも、他人のことでも。ふとした時に涙が出てくることがある、そんな”人間”という存在に生まれてよかった。
今ある命を、今ある同士で繋げて、一緒に頑張っていけたらと思う。
Vol. 29 あの日のことを、書かねばならない
〜その3
㉘のお話の続きです。
3月23日の朝。
ベルギーでテロが起こり、ジルが巻き込まれているかもしれないということがわかった朝。私は呆然としながらも、仕事に出かけようとしていた。
まだ、本当には何がわかったという状況ではない。すぐに連絡がつかないのは、あくまで何かの都合で、もう少しすればひょっこりと姿を見せました、無事でした、ということもあるかもしれない。
だからまだあまり気落ちしても仕方がないのだ・・そう自分に言い聞かせていた。
その日の予定は、前日のファッション撮影の続き。だが、物のみの撮影だったので「なんとか参加できるはず」と思い、当時最寄りであったいつもの西武新宿線S駅へと向かった。
しかしふと電車が来るまでの数分。昨日から何もあえてテレビなどは見ないようにしていたのに、どうしても気になってスマホでテロについてのニュースを度調べてしまった。
すると、地下鉄での爆発によって、死者も少なくないようだ、相当な数の負傷者がいて身体もバラバラになってしまっているケースもありそうだ・・というような、推定ながらも残酷な文面が目に飛び込んできた。
そこでもう、崩れ落ちてしまった。気持ちを盛り上がらなければならない撮影には行けない。
スタッフに事情を話して任せることにしつつ、どうにか会社にだけは一度行って、説明をしなくてはならない。そう感じ、必死の思いで出社した。
上司は、本当にそんなことが起きたのかと驚愕をしつつも、力を与えてくれた。
「でも・・ あなたと結婚するくらい運のいい人だよ! どこかで助かっているかもしれないよ」 そう言ってもらえたことで、少し元気が出たように思った。
あとは大丈夫だからとにかく彼が見つかるまで、無理をせず出社しなくて良いと言ってもらえ、私は翌日から自宅待機することとなった。
もちろん、それならばとブリュッセルにすぐに飛んで行きたい気持ちはあった。
けれども手元には小さい子供二人。そしてベルギーには普段から頻繁にやりとりをしている彼の家族、そして友人たちの頼もしいチームがいる。市内には4、5つしか大きな病院はないのだ。手分けをして探す、もしくは様々なところへ電話をかけたり交渉をしたり、という作業は彼らがものすごい勢いで遂行できるということが分かっていた。私が来ても、むしろ私へのケアを増やしてしまうこととなりそうだと思った。今は実質的な加勢にはならないのだ。
もどかしさを抱えながらも、私がまず決めたことは、”とにかくジルの生死、所在地などが分かるまではここを動かないでいよう”ということだった。
そして同時に、駐日ベルギー大使館、外務省などに問い合わせの電話をかけ、いつでもスカイプでベルギーの両親と話せる態勢を準備した。
この地下鉄テロで、日本向けのニュースとして最初に明らかになったのは、「日本人の死者はなし、負傷者が重体と軽傷で二人」というものだった。誰もそこに、「日本人ではないが、日本に住んでいて日本人の家族があるベルギー人が巻き込まれている」ということには気づいていなかった。
ただ、ありがたいことに・・その時は偶然、私の母がそばに居てくれた。
実は前々日に、長女がインフルエンザを発症していたのだ。ジルの行方不明が分かる前だったが、そのために23日の夕方着で、九州から上京してくれ、シッター係をしてくれていた友人とバトンタッチする予定になっていたのだった。
今思うと、長女のその発症は何かの前触れだったのか、それとも、母を呼び寄せるための運命だったのかと不思議にも思う。
電話やパソコンに張り付いたままの私のそばで、母はその間、子供の送り迎え、そして食事の世話を請け負ってくれた。
しかし1日経ち、2日経ち。そして3日経ってもジルはなかなか発見されなかった。中には「でも東日本大震災の時も、あの混乱の中で、ずいぶんあとで無事がわかったというケースもあったらしいから」と言ってくれた人も居たのだが、今回の場合は時間も場所も、どうしようもなくピンポイントだ。もう、巻き込まれていることだけは疑いのない事実になってきていた。
しかし、何処にいるのかが分からない。
中には大火傷を覆い、意識不明で生存した人たちが集められている病院もあるという。そこでは誰が誰なのか、という細かい調査は未だにウエイティング状態であるという。
義姉妹たちにしても、私にしても。こうなったらそこに居てくれているのでもいい。とにかく命だけでも助かっていて欲しい。日を増すごとに、そのような必死な思い、いやそれを超えて決死の思いが募って行った。
この5日間は、私の人生の中で一番長い、5日間だったと思う。
そして28日の早朝。
あの日と同じ、短いメッセージが入っていた。
「玲子、スカイプして。」
恐る恐る、コンピューターを立ち上げた。
映し出されたのは、義父、義姉妹、そのパートナーたち・・薄暗いスカイプの画面に、家族全員が勢ぞろいしており、心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
まず聞こえてきたのは、この一言だった。
「ジル、亡くなっていたよ・・」
その瞬間のことは今でも忘れられない。
天を仰ぐ、とはこういうことかと思った。反射的に両手は顔を覆い、声にならない声を出して身体が反り返ったのを覚えている。
そして同時に目の前に、黒い幕がズドン!と落とされたような気がした。
あなただけで来るのか、子供たちに打ち明けて、共に連れて来るのか。また、こちらにいつ来れるのか。すべてあなたが決めていいから、そして待っているからと。
家族は私に気丈に語りかけてくれた。
<つづく>
もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉘
Vol. 28 あの日のことを、書かねばならない
〜その2
㉖のお話の続きです。
もちろん出会った当初の、拠点が別々だった時も。結婚してベルギーで、そしてその後日本で一緒に住みはじめてからも。
ジルは私の目の前に現れたり、居なくなったり。仕事柄、数週間家を空けてまた戻ってくるということも多かった。だから今回もその繰り返しの一環のように最初は思っていた。
2016年初頭。
それにしても、今回は「長い・・」とすでに感じはじめていた。
自分が初監督した映像を携え、編集作業のためにベルギーに発ったのが2015年12月8日。
しかし年が明けて1月になり、2月になり。そして作業は3月にも入りそうだということを聞いた時、何となく胸騒ぎがしないでもなかった。
ある日長女に、「パパいつ帰ってくるの?」と聞かれて答えると、「(不満そうな顔で)え〜〜!?」と一丁前に頬杖をつき、ため息をつかれたのを覚えている。
その間、相変わらず週に2、3度のスカイプ電話はかかってきた。ベルギーを離れて以来、子供たちのフランス語が簡単に危うくなることを身に染みて知っていたジルは、何とかコンタクトを持ち続けようと、まめに連絡をしてきていた。
3月11日(当時で震災から5年後)は、次女の4歳の誕生日だった。
そこに合わせてベルギーのジルからプレゼントも送られてきていた。
バースデーカードには「おおおお、ついに4歳!!(Quatre ans !!)」というメッセージと、可愛いボーダー柄のワンピース、そしてお姉ちゃんと遊びなさいということで怪獣の顔のついた指人形が二つ、入っていた。
長めの不在ながらに、それをなんとか点で埋めようと頑張っているジルがいた。
そんな折、小さくも不穏なニュースが入ってきた。
3月15日。ブリュッセルのフォレ地区で銃撃戦があり、警官が負傷したとのことだった。どうやら前年の11月にパリで起きた大規模テロの犯人グループと関連がありそうだと。
フォレ地区はもともとそんなに物騒な場所ではない。私たちが住んでいたのがまさにそのフォレだったのだが、当時は銃声のようなものを、仮にも近所で聞いたことはなかった。
その知らせに、モワッとした小さな嫌な空気を吸い込んでしまったような気はしていた。
そしてついに、あの日がやってきてしまった。
3月22日。日本時間の夕方5時過ぎだった。
私は仕事でファッションの撮影スタジオに居た。遅いスタート時間だったことと、その時分はまだ本番前で、ややゆっくりとした空気が流れていた。そんな中、スマホのニュースサイトに何気無く目をやると、
「ベルギーのブリュッセルの空港で爆発があったようだ」という速報が飛び込んできた。
え・・・。
まさか、危険だったあの空気に。ついに導火線に、火がついてしまったの?
この時は、夫が巻き込まれているとは思っていない。ただ、自分にとって第二の故郷のようになっていたベルギーに、爆発が起きてしまった。その単純な事実そのものに、不意に脳天を突かれたようにショックを受けてしまったのだ。
気のおけない仕事仲間に囲まれてはいたので、「今こんなニュースがね・・」と説明をしながら、一瞬だが机に突っ伏させてもらった。
とはいえまだ仕事中ではあるし、とりあえずメールを一本入れておこうと思い、ジルに短いメッセージを送った。「今、ベルギー、大変なことになってる? 試練が起きたね・・」と。
しかしジルからの返事はすぐに来なかった。
後から考えてみると、この時間はちょうど亡くなった瞬間くらいだったのだ。
空港で爆発が起きたのが、ベルギー時間の7:58(日本時間の午後3:58)。
そしてジルが亡くなった、地下鉄の方での爆発が、9:11(日本時間の午後5:11)だったのだから。
仕事が終わり、どこか重い気持ちを抱えながら帰路についた。
家にたどり着いたのは、おそらく午後9時くらいになっていたと思う。
この日は私の仕事時間が遅かったので、友人に来てもらっており、今から寝ようとする娘たちとすれ違う格好になった。
この時、次女が途中まで描いていて、テーブルの上に置きっぱなしにした絵が、今も妙に心に引っかかっている。
そうして、ここでようやく、落ち着いてジルに電話をかけて見た。
ところが呼び出し音も鳴らず、電源が切られた状態のメッセージが流れるだけだ。ただその時も私は焦ってはいなかった。よく忘れ物をすることもあったジルだから、充電が切れてしまったままなのかもしれないな、と思った。
パソコンを開いてメールを見てみると、様々な友人たちから、メッセージが届いていた。もしくは国内であればスマホのショートメールで。
その主なものは、夫が今出張中であることを知らない場合は「ベルギーのご家族は大丈夫?」であったし、夫が帰省していることを知っている場合も「旦那さんは大丈夫ですか?」というものだった。けれどもそれは、地震などが起きたときに、ふと思い出した顔をお互いに気遣う、穏やかさが混じった、かつてから知るトーンの中にあった。
そんなメッセージのひとつひとつに「うん、まだ連絡取れてないけど、きっと多分大丈夫だと思う」などと返事をしながら、同時に自分からは、ベルギーにいる他の義姉妹たち家族や友人たちなどに「大丈夫?」とメールを打っていた。
ところが、ジルから、そして義姉妹からだけ。
家族からに限って、返事が来ないまま時間が過ぎてゆくのだ。
これは何かあるのではないか・・。落ち着かない気持ちに包まれつつあったが、とりあえずは一晩寝てみよう、と思った。
その晩の夢はこうだった。
何故か、天皇陛下と皇太子さま(当時)が国用ジェットで外国に行くところに、私も居合わせている。そして、私も乗せて行ってくれようとするものだった。皇太子さまはなんと、私にどうぞどうぞと、着席を促してくれていた。
不思議な夢を見たな・・と思いつつ、嬉しいというよりも、これは何か重大なことが起こりかけているのではないか、という予感がした。
早朝、そうして寝室のある2階から階下に降り、早速パソコンを開いてみると、義妹から1行だけのメールが入っていた。
「玲子、スカイプして。」
恐る恐るスカイプを立ち上げてコールをすると、義姉と義妹の二人が出て来た。
そして、二人が憔悴した顔で、
「ジルがあの地下鉄に乗っていたと思う。今、連絡がつかなくて探している。」と私に告げた。
え・・・? 何を言っているんだろう。
自分の心が、まるっと薄暗い雲の中に入り込んでしまったような気持ちになった。
でも、心当たりがなくはない。その後、地下鉄でも爆発があったというニュースを見てはいたが、その駅名が「マルベーク」。義姉の住まいがあるのが、その隣の「メロード」という駅なのだ。そこに間借りしていたジルにとっては、十分に通り道になるだろう。
ジルが向かっていた先は、映画製作プロダクションだった。
しかしプロダクションにももちろん、ジルは現れていなかった。
その日から2〜3日をかけて、皆で彼の無事を祈りながらの必死の捜索が始まることになる。
後になって知ることになるのだが、その22日・当日は、映画の編集作業がほぼ終わったこともあり、スタッフだけで”仮の試写会”を行おうとしていたそうだ。それなのにジルだけが姿を見せず、プロダクションのスタッフたちも混乱に包まれていた。
ジルが命を落としたのは、映画「残されし大地」が98%完成したところだったのだ。
<つづく>
もうすぐ10年。そしてもうすぐ5年 ㉗
Vol. 27 オンライン上映、coming soon!
ようやく、映画をご覧いただける期間限定のリンクが出揃いました。
いよいよ明後日からです!
以下の文面をしたためたチラシをお会いした方には配っています。改めて挨拶文を書いてみました。
オンライン無料上映のお知らせ
映画「残されし大地」(73分)
(The Abandonned Land)
3月11日(木) 〜 3月22日(月)
2011年3月11日に起こった東日本大震災。その日から10年の節目を迎えます。そして原発事故後の福島に住む人々をテーマに、この映画を製作した監督ジル・ローランが、ベルギー・テロ事件に巻き込まれて亡くなった2016年3月22日からまもなく5年に。
そんなダブルの節目を迎え、この映画をふたつの象徴的な日付から日付への期間限定で、ベルギー本国や配給会社の厚意を得て、遺族主催にてオンライン無料上映を行います。
原発事故とテロ、というふたつの不条理に着目したストーリーが2016年8月にNHK「おはよう日本」で紹介されたことをきっかけに、映画プロデューサー・奥山和由氏が日本での配給を指揮。全国のミニシアターで2017年春から夏にかけて公開されました。
ベルギーでは民放テレビにて二度の全国放映。当時の福島の現実を知らせる貴重なドキュメンタリー映画として、フランスを始め世界各国のドキュメンタリー映画祭等で受賞を重ねています。
この節目に、約4年ぶりの上映となります。ぜひご覧ください。
※下記リンクが有効になるのは、2021年3月11日・日本時間午前0時〜です
日本版 https://vimeo.com/521260129
ベルギー版(英語字幕付き) https://vimeo.com/519469354
以下、映画のシーンより抜粋
リンク発表!その② 映画「残されし大地」(日本版)
2021年3月11日〜3月22日
12日間限定 無料オンライン上映
日本版 映画「残されし大地」
〜日本の配給クレジット、日本語の説明字幕付き〜
リンクはこちら↓
(上記期間のみオープン。何時でも見られます)
もうすぐ10年。そしてもうすぐ5年 ㉖
Vol. 26 あの日のことを、書かねばならない
〜その1
㉔のお話の続きです。
撮影が終わったのは10月。いよいよ編集作業だ。
そのためにジルはベルギーへ帰国することとなっていた。
この映画「残されし大地」は国籍が”ベルギー”だ。舞台は日本、出てくる人も日本。けれどもスタッフの多くも、資本もベルギー。だから映画そのもののクレジットは”ベルギー映画”となる。(いわば逆輸入。)
ジルが編集作業を頼みたかった、敏腕エディターのマリ・エレーヌというスタッフは、あいにく直近のスケジュールは詰まっているということだった。それに合わせる形で、ジルは12月になってからベルギーへひとり帰国することとなった。
映画のエディターとは・・。
私が理解したところによると、雑誌で言うなら、レイアウトをしてくれるグラフィックデザイナーのようなものだと思う。「こうしたい」という監督の(雑誌ならばその特集記事の担当者の)、目的や指示に沿ってビジュアルを仕上げてくれる。けれどもそこは、彼らのセンスと専門知識が物を言う。
どうするとより見栄えが良いか、これはもしかしたら不要ではないか、などの相談も一緒にしてくれるというわけだ。ジルが一番信頼が置けるのが彼女ということだった。
そんな流れで、日本でやや”待ち”の状態だったとき。
パリで大事件が起きた。
2015年11月13日。
コンサート会場やレストランで銃が放たれ、130人以上の人々が亡くなるという、大規模かつ筆舌に尽くしがたいショッキングなテロだった。
2015年は最初から不穏な年だったと思う。
1月7日にパリの新聞社が急襲された、シャルリ・エブド事件。
1月30日には日本人ジャーナリストの後藤健二さんがシリアで拘束の後、殺害された。
この時、恐怖を間近に感じる思いで、落ち込んだ我々日本人も多かったのではないか。
ISの動きが活発さを増し、不気味さも増し、ニュースでもこの時期は、この組織絡みの話題が非常に多かった。
しかも次第にわかってきたことに、ジルはひどくショックを受けていた。
パリでのテロ事件の首謀者の多くは、ベルギー人であるということだった。
パリとベルギーの首都、ブリュッセルの間はTGBと呼ばれるヨーロッパ式新幹線が走るが、言語も同じフランス語なのでつながりが強い。地理的な距離感で言えば、東京と名古屋のようなものだ。
ベルギー人が絡んでいたということを知った時のジルの落ち込み・・。
顔を赤くしながら「なぜこんなことが」と首を振るその姿、その表情を私は今も覚えている。
さらには、「次はベルギーかもしれない」という懸念も日増しに高まってきていた。
いつからいつまでだったかは忘れたが、懸念されるテロを予防するために、ブリュッセルでも年末や年始に地下鉄や学校がクローズするという予定も取りざたされはじめた。
「こんな時期にベルギーに戻るん? 今回はジルさんもやめとくんやないと。」と私の母が言ったのを覚えている。もしもこれが旅行だったら、取りやめただろう。
けれどもジルにとっては、何よりも大事な映画の仕上げ作業が待っていた。そして、ほかでもない母国への帰省だ。少しの迷いがないわけではなかったが、ジルは12月の出発を選んだ。
ところで、このまだ日本に残っていた時のことで、クリスマスに関して印象的なことがある。
子供たちと東急ハンズまでクリスマスツリーを買いに行ってくれた。
ベルギーではほとんどの家で生のモミの木を買い付けて飾るが、日本ではあのお馴染みの毎年使えるプラスチックが主流。「この先ずっと使うんだろうから、いいの買ってきたよ」と、暗がりでほんのりと呼吸をするように、枝先だけにライトがつくツリーを買ってきてくれた。高さは私の身長くらいだった。
そして、フランス大使館で子供のためのクリスマスパーティーが開かれるということで、ジルはやはり娘たち二人を連れて出かけて行ってくれた。そこでは、くるみ割り人形の兵隊さんみたいな真っ白な陶器のオーナメントに、アクティビティとして自分たちで色を塗るというものがあったらしい。
実は、直近の2020年のクリスマス。
そのオーナメント3個を見ながら、娘たちが「これがパパが塗ったやつ。パパが一番うまかったんだよね〜」と昨日のことのように私に伝えた。確かに、たどたどしい塗り絵のような2個と、綺麗に端の方まで色が塗り切られた1個との、合計3個がある。
さらにはツリーを見て、「パパ、これ買う時、めっちゃ迷ってたんだよね。すっごい待たされた」と言っていた。 5年も前のことなのに、よく覚えているなと驚きながら・・。これからも毎年、この記憶のリマインドをしていこうと私は密かに誓った。
そして・・当時の話に戻ると。
2015年12月8日。本当のクリスマスも近かったあの日。
早朝、薄暗い玄関で空港に向かうジルを娘たち二人とともに、「いってらっしゃい〜。」と送り出した。
その後もスカイプなどでたびたび”姿”は見ることになるのだけれども、生身のジルを見たのは、あれが最後になってしまった。
<つづく>
リンク発表! 映画「残されし大地」(英語字幕付き)
2021年3月11日〜3月22日
12日間限定 無料オンライン上映
映画「残されし大地」
〜ベルギー版 'The Abandonned Land'
(英語字幕付き)〜
リンクはこちら↓
(上記期間のみオープン。何時でも見られます)
<追伸>
明日、日本版のリンクもおしらせします。