もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㊱
Vol. 36 犬のおーちゃん 〜前編〜
今日は”スピンオフ”のお話。
私がジルと出会うより前の2008年から飼っていて、
「日本でならいいけど・・。
夫婦別姓も同性婚も。なにもかもが日本より進んでいるように思えるヨーロッパで、犬種ごとの“
そう言いながらも、とりあえず優しく責任感も強いジルは、結婚前に日本に来てくれたときには、
「今日はスーパーの前で結構長い時間待たせてたけど、
私が出産をしたのち約1か月の間、
チワワのおーちゃんは、
飼い始めてみると、犬特有のその素直に感情表現をしてくれるさまに感動し、当時いくつかの恋愛経験に疲れていた私にとっては、「こんど付き合うならちゃんと犬みたいに真っ直ぐに向かってくれる人がいいな」と思わしめるほどだった。
それがその後のジルとの出会いや付き合いに、影響しなかったとは言えないかもしれない。
一説によると、
そしてこのおーちゃんは、とりわけ性質がよかった。
常に穏やかで不満なく、ニコニコしているイメージ。(これも一説によると、
当時私が住んでいた世田谷区のマンションの近くには、
そしてとても印象に残っているのが、2009年10月。
「悲しみは半分に、喜びは2倍に。」
犬や猫を飼った経験のある方ならわかると思うが・・。
その子と自分の”間にしかない”思い出。シェアした感情などは、ペットといえども侮れず、結構、あるものだと思う。
育児休暇を使ってベルギーに行くときも、私のわがままでおーちゃんを連れていくことにした。
そして散歩が大好きなおーちゃんは、
「おーちゃんベルギーに来たら、土地の差を感じるかな? それとも変わりなく散歩するかな。いや、きっとお構いなく散歩するだろうね。」とジルが言っていたけれども、実際にその通りになった。
三度の飯より散歩好き。「O-CHAN, OSAMPO!」と言われるだけで、ジルの顔を見上げて大喜びでいつも玄関に走っていった。
当のジルは「夜ならまぁ、まだ人目につかないかな」
私もしばしばベビーカー、抱っこ紐、そして犬のリードも持ちながら買い物などへ出かけた。
3つも”小さいもの”を抱えたものすごい状態で出かける
チビ勢ぞろいの、ブリュッセルの我が家だった。
だが以前のブログにも書いたように、遠くはメキシコ、近くてもジルのちょっとした出張でパリなど、しばらく不在にすることもあった。そんなときには、ブイヨンにいるジルの両親へ、おーちゃんを幾度となく預けた。
そして私は、このローラン家に”チワワ革命”をもたらしてしまうことになる。
「チワワ可愛いけど、マダムが散歩する犬だよね」と最初こそジルと同じように言っていたお義父さんだが、お義母さんともども、おーちゃん、ひいてはチワワの大ファンになってしまい・・。
<つづく>
もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉟
Vol. 35 「残されし大地」と名付けた理由
いろいろと資料整理をしていたら、これがポン、と出てきた。
不思議だ。ジルがこれ出していいよ、とメッセージしているのかもしれない。
前回のブログの冒頭写真にも使った、2016年9月末に群馬県高崎市で行われた「コミュニティシネマ会議 2016」で用意していたスピーチの原稿。
映画上映の前に登壇することになっていたため、その時に用意していた舞台挨拶だ。
ジルが亡くなってから初めて、この映画について公の場で喋る機会だったので、前日までに一生懸命、原稿を書き思いの丈を綴っている。
実際は原稿用紙は持たず、直前になって、その場で思うままに出てくる言葉だけで喋ってみようと決めて立ったので、部分的には幻の原稿。
けれども、当時の溢れ出る思いを詰め込んでいるので、その原稿を改めてここに出したい。
いろいろと偉そうなことを書いているが・・。実際はこの映画の上映の後、私は泣いてしまった。それもそうだ。初めてこの映画が、大きなスクリーンに映し出されるのを観たのだから。
(ネタバレになってしまうが)映画のラストシーンで、スゥーーっと音もなくフェイドアウトしていく映像に、この映画の完成をほぼ見届けながら、やがて命を亡くしていったジルとシンクロするものを感じて胸が潰されたのだった。
その後何度もお客さんと一緒に、スクリーンで見ることになるのだが、この記念すべき第一回目の上映で、劇場で。喜びと悲しみがどこからともなく押し寄せてきた、あの瞬間のことを私はずっと忘れない。
<舞台挨拶>
今日はお集まり頂きありがとうございます。
故人に代わって、心からお礼申し上げます。
まず今日は初の一般公開でもあるということで、日本語版のタイトルについてのご説明をさせてください。原題はLa Terre Abandonneでしばらく実は「見捨てられた大地」という仮タイトルが付いていました。アバンドンド・ハウス=空き家、つまりアバンドンドは人が居たけど、いなくなってしまった、くらいの意味ですが、見捨てられた、では嘆きが入ってしまいます。それでいて、なかなか他にそれに代わる強いタイトルを思いつきませんでした。
けれども、「そこには変わらず大地がある」という事実に気がつくと、「残された」「残っている」という言葉がぴったりなのではないかという感覚に至りました。翻って私には、ジル・ローランという人間がテロによって居なくなるという悲劇が起きたわけですが、私たちも「残されて」います。けれども生きている。生きていこうと思えば新たな道はあるし、地平線が用意されていて、そこには太陽が毎日ちゃんと登ってくるし、旅は続いていく。また、別の大きな愛を呼び起こしたり、新たな喜びや笑いも生まれてくる。
そう考えた時に、福島で被害にあった方たちの状況と、犠牲者家族の状況、というのはとても似ていたのです。私自身や子供達も“残されし”大地なのだと思います。取り去られても、残されて続いていくものがある。大げさに言うと、焼け野原からも新たな命が育っていくのと似ているかもしれません。そう考えると、全ての悲劇から人間というものは立ち直れる力があるんだ、新たな道を見つけられるんじゃないか、という確信があります。
福島で起きたこと、それからテロという災難の二つを通じて、夫がはっきりと教えてくれる希望を、映画がここで上映される、私がここに立つという事実に見ていただければと思います。
彼がこの映画の取材やロケハンを最初に始めたのは今から2年前のことでした。当時、まだJR富岡の駅は形としては残っていました。まさに駅もアバンダンド。人が居たけど居なくなっている。そこに縦横無尽に雑草が生えまくり、柱にツタが絡まりまくる様を、彼は映画にも登場する松村さんを据えながら写真を撮り持ち帰り、ある意味喜びにも満ちた表情で私に見せてくれました。それは、「こんな風になってしまって」という嘆きだけではなくて、「(これはこれで)美しい、と思わないか」と。変わらず命をつなぎ続け、むしろはびこるほどに勢いのある植物の力。実際に映画撮影が始まった時にはもうその自然が一部撤去されてしまったことを少し残念がっていたくらいです。現地の実情からすると、まずはいらないものを取り払って次へ行こう、ということなのでしょうが、彼は「命の輝きを感じるもの」ひいては「絵になるもの」をどこまでも追い求めようとする、そんな映画人としてのワガママも持っていたのだと思います。劇中に出てくる蜘蛛の巣などもそうで、人が居なくなったことを表すためだけではなくて、同時に、蜘蛛の巣自体が光を受けて輝き美しい、ということを心から愛してフィルムに残していることを感じます。
内容は福島のことですから、ヒューマニストだった夫には、もちろん理不尽さに対する怒りやメッセージもベースにはあります。けれども、そのメッセージと同じくらい、彼が大事にしたのが絵や音の美しさです。この部分はなかなかメディアだけでは伝わりにくいことで、メッセージ性と夫の亡くなった状況とを伝え切ることで、紙面や画面はいっぱいになってしまうわけですけれども、あえてこの舞台上では私が言いたいのは、この映画は彼の、“映画人としてのワガママ”もいっぱい詰まっているということです。決して正義やエコロジーを主張するためだけに、怒りだけを持ってこの映画を撮ったのではないのです。出会った頃に、I like nature and culture,ネイチャーとカルチャーが好きだ、と常々言っていましたが、自然と文化、って、人間にとって一番大事なもの二つだなあ、と思います。自然や文化への愛があり、小津安二郎など敬愛する先人たちへの愛があリます。彼は映画を見るたびに口すっぱく、シネマトグラフィーが、シネマトグラフィーが・・と盛んに言っていました。私もそんな英語あったんだ、とそれで覚えましたが、映画撮影方法、つまり映像美がどうか、というようなことだったんだと思います。ネイチャーとカルチャーが好き。そんなジルらしさを思い切り結びつけたのがこの映画だと思います。
私のあるベルギー在住の友人が、「福島のことだけでなく家族や自分の人生、自然、動物、共存、私たちのしていること・・たくさん考える機会をくれる映画だと思う」と言ってくれました。そんなひとくくりにはできないメッセージ性とともに、ジルの映画人としてのワガママ、映画という文化への愛情を、一緒に味わっていただければと思います。
もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉞
Vo. 34 映画という名前のお神輿 〜その2
㉝のお話の続きです。
「どうもどうも、奥山と申します」という自己紹介のあと、奥山さんはしばらく喋り続けた。
私は子供たちを寝かせたその日の夜9時、早速緊張しながら電話をかけてみたのだった。
「今朝ね、亡くなった母の遺品整理もあって、実家にいたんです。
「そしたら、何かいい映像が流れてるなぁって。
NHKおはよう日本の中で紹介されたのは、
そして、この日の電話の主眼は、10月に予定している京都国際映画祭でぜひ上映してはどうかという話だった。
後から聞いたところによると、様々な場所に知人がいて行動も素早い奥山さんだから、この日も放送を見た後すぐ、NHKにいる仕事仲間、何人かに電話をしたらしい。けれどもたまたま通じなかったせいもあり、何と最終的に「お客様窓口」に電話をし、その熱意を告げてくれていたのだった(!)
それを窓口から伝えられた、件の鴨志田さんが、私に電話をくれたというわけだ。
奥山さんが松竹で活躍して取締役に登りつめたのち、解任されたまでのエピソードはつとに有名だ。その時代のヒット作としては「ハチ公物語」、
そして、あの”世界の北野武”と言う映画監督世に送り出したのも奥山さんだ。
その流れで、吉本興業が主催する京都国際映画祭のプロデューサーに。そんなわけでこの映画祭は端的に言ってしまえば、奥山さんの一言で上映作品を決めることができるフィールドだった。
何かすごいことが起きたなぁ、と思った。
とはいえこれは、言わばすれ違っただけで一目ぼれして頂いた状態に近いものがあり、申し訳なさすぎる。とりあえず、映画全体を見て頂かないとご判断をしていただければと言い、そのあとにショートメールでこの映画を視聴できるリンク、そして私のブログのURLをお伝えした。
早速数日のうちには銀座のペニンシュラホテルの最上階にある、
わぁ、ここが時々テレビで見る「外国人記者クラブ」か。カフェの壁には様々な要人のモノクロ写真が並んでいた。
全編を見てくださったあと、心変わりがなければいいな、
その際、映画祭はも嬉しいけれども、是非なんとか劇場公開をしたいのだという話もした。すると、配給会社の「太秦」というところがあってね、
太秦(うずまさ)・・。その名前はなんと、その少し前にドキュメンタリー映画祭のディレクターを請け負っている方に
そんな矢先にリストの3つ目は、”向こうからこちらに歩いてきてくれた”。そんな感じがした。
2回目に奥山さんと打ち合わせをする日。
その日は太秦の代表、
その時不思議なことに、1匹のてんとう虫が私の膝にじぃっとくっついて来ていた。
表参道の植え込みの中から、弾みでこちらに乗り移ってしまったのか?
二つ星だった。黒い体にオレンジ色の、星二つ。
タクシーがヒカリエの前に停まって私が車から身を出す時に、同時にさっと飛び立っていった。
この時を置いてほかに、東京の街中で、てんとう虫に寄り添ってもらったことはない。
実はNHKの放送のあと、もうひとつの場所から連絡をもらっていた。
それは全国のミニシアターで構成される「全国コミュニティシネマ会議」という団体の事務局からだった。(いまは、ミニシアターというよりも、コミュニティシネマ、という呼称が一般的らしい。)
もうすぐその会合が高崎で行われる予定で、
その話のことも切り出すと、太秦の小林さんは、「あ、それは絶対受けたほうがいいですよ。後々に売り込むことになる、コミュニティシネマの方に、先にこの映画の存在を知ってもらえますからね」と。
こうしてメガな視点を持ったプロデューサーと、コミュニティシネマ系に広くパイプを持つ配給会社との、ありがたすぎると三角形のタッグが生まれた。願ってもない形になったのだった。
この顛末をドキュメンタリー映画の監督経験のある知人に報告をした所、「理想的ですよ。頑張って!」と言ってもらえた。
映画という名の御神輿に乗せてもらう。それは本当に、
このあとその京都国際映画祭などを経て、翌年の3月劇場公開に向けての、
のちに私は奥山さんと同席して、いろいろな新聞社や雑誌からインタビューを受ける機会も頂いたのだが、そんな時に奥山さんが改めておっしゃっていたことで、印象的なことがある。
「もちろん、ジルさんが生きて元気でいらっしゃった方がいいのだろうけれども・・。この映画には、その直後に亡くなってしまったからこそというか、その直前の”濃い生の力”のようなものが、却ってぎゅっと凝縮されているような感じを受けますね。」と。
活動的かつ飄々としているようで、常人にはない鋭敏な感覚を持っている奥山さんならではの、真実をついたコメントだなと思った。
★3月22日まで、映画「残されし大地」オンライン無料上映中!★
日本版 https://vimeo.com/521260129
ベルギー版(英語字幕付き) https://vimeo.com/519469354
もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉝
Vol. 33 映画という名の御神輿 〜その1
それはまるで、”火事場の馬鹿力”と言われるものだったと思う。
ジルはテロで亡くなった。でも、映画を残して亡くなった。
実はベルギーでの葬儀中に、ジルの実家であるホテルに、
正直、その瞬間には「どこから私を見つけたんだろう。
ブイヨンからブリュッセルに戻って1泊し、
思いがけずこのときのインタビューの中で、呆然としながらも、ぽつぽつと喋った自分自身の打ち明け話の中に。その後の私がやるべきことが最初に明らかになったのだった。
ジルはどんな人で・・どんないきさつで・・
その瞬間、私の中で小さな雷が落ちるように閃いた。
映画をなんとか、日本に紹介する! そのための活動を私はしていくべきなんじゃないか、と。急に体の中を血が駆け巡り始めるような気がした。
ベルギー資本で製作した映画だから、完成しさえすれば、
そう決めたとき、私は「やることがある」
この時から、この映画という名前の”お神輿”に乗せてもらうことになった。
そうしてこの一番傷ついた状態の時間を、あらゆる人々との奇跡的な出会いを通して数年に渡り、大いに癒されることになるのだった。
けれどもこの初期の頃、何か理想があったわけではない。正直、
今思うと私はただ、動いていたかったのだと思う。
まさにそこは私にとっては火事場であり、ここから動き出して、
何とかなるはずなんだから! 使命のようにそう思った。
周囲で映画の仕事と関連のありそうな人に、
そして、テロに関する取材も来るものは全て受けよう、
そして転機となったのが、NHKの取材だった。
当時、ブリュッセル支局にいた長尾かおり記者(のちにニュースチェック11のキャスターもされていたので、
放送内容の核をなした、当時住んでいた東京都杉並区でのインタビュー。それに関しては、ベルギー在住の長尾さんが直接行うのは難しいので、長尾さんの信頼する先輩、東京本社の鴨志田郷さんが請け負ってくださった。
この時の、テレビカメラの前でのインタビュー収録については、とてもよく覚えている。
実際は放送されたものより、ずっとずっと長かったと思う。
鴨志田さん、ひいてはNHKとして導き出したい結論は、「
だが実は、私はしばらくは何を質問されても、「それはどうしてもこの状況で、こう動かないと私がダメになりそうだったから」というような、”火事場の馬鹿力理論”を、要領を得ず繰り返し語っていたように思う。でも、そんなポエティックなことではダメなのだ。いや、ダメなわけではないけれども、それでは凝縮されたニュース番組の中では伝わらないものだ。
求められている結論に気づき、私の口からそれを発信しなくてはなら
でも、それは誘導尋問だったわけではない。そして、そこに気づいた自分に対してあざといとも思わなかった。今から思うと、後々に思考が整理された後の”未来の私”が答えたものだった、ということで良いのだと思う。
(そして後から知ることになるのだが、長尾さん、鴨志田さんともに、様々な場所でテロやそのほかの報道をする中に、これは是非とも伝えたいという個人的な思いもあったことを後々私も知ることになるの。長くなるので、それはまた別の機会に。)
とにかくも、この時の放送が状況を打破するきっかけになるのだった。
配給について色々と調べてみても、そのハードルは非常に高いことをすでに知っていた。
いい映画だから、監督がこんな目に遭ったからなどということだけで、するっと公開につながるほど映画業界は甘くない。日々、作られ続ける多数の映画がしのぎを削って、配給会社や映画館の枠をキープしようとしているという現状に私は次第に気がつき始め、見えない壁にぶつかり始めたような気がしていた。
NHKではもともと放送後に、視聴者の方からなにか映画に関する問い合わせがあれば、
そしてその運命の放送日を迎えた。
放送は朝の7時台だったが、昼頃に早速、鴨志田さんから、ちょっと興奮気味に電話が入った。
「映画プロデューサーの奥山さん・・て方が。ぜひこの映画をなんとかしたいいう話があったようなんです。近く、京都の映画祭があってそこに出したいとかって・・ということは、あの奥山さんなんじゃないかと思うんですが、お電話が欲しいみたいなので、今日のうちにぜひ、折り返してみてください。」そう言って、連絡先を教えてくれた。
鴨志田さんの話の中に入っていたのか、私の頭の中の拙いウイキペディアからだったか。
それは忘れたけれども”北野武”とか”よしもと”とか、関連するいくつかのワードが私の頭の中を駆け巡った。
奥山さんって・・えぇ!?
<つづく>
★3月22日まで、オンライン無料上映中!★
日本版 https://vimeo.com/521260129
ベルギー版(英語字幕付き) https://vimeo.com/519469354
もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉜
Vol. 32 金色のエネルギー
㉙の話の続きです。
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もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉛
本日は時系列のお話はお休み。
Vol. 31 Remember, Reconnect, and Resilience
〜リメンバー、リコネクト、そしてレジリエンス〜
この震災から10周年、ジルの死から5年という節目に当たって。
そして今、こんな世界的に共通の混乱の中にあって。
一個人として私は「どんなテーマを共有したいのかな」としばらく考えていた。
そしてとりあえず日々の中でできることとして、自分でこのブログ・マラソンを書くことと、映画のオンライン公開をお願いすることにした。
その途中で、これを伝えたいのかな・・と思う自分なりの”掛け声”が見つかった。
それはこんな”3R”。
Remember, Reconnect, and Resilience
リメンバー(思い出して)、リコネクト(もう一回つながって)、レジリエンス(回復力)を身につける、ということ。
"レジリエンス"という言葉を私があらためて知ったのは、やはり旦那さんを若くして亡くしたフェイスブックのCOOシェリル・サンドバーグ(今調べてみたら、同い年だった)の書いた「オプションB」という本の中でだった。
レジリエンスとは、日本語でははっきりとした訳がなくて回りくどくなるようなのだが、
「跳ね返り、弾力、回復力、復元力」などという意味。
何かに耐えたあとに、ポジティブさを取り戻して生き抜いていける力、ということか。
天災、テロ、そしてコロナ。
いろいろなことが次々と起こるこの世界だけれども。
こうした特異なきっかけだけでなくとも、大事な家族や友人の生と死に遭うことは、どんな方も経験する辛い出来事で、それを経験しない人はいない。身近な困難について聞くことで、心揺さぶられたあと、逆に私も助けられることがある。
今回もこうして一緒に思い出してくださる方々がいて(remember)、
少しのやりとりで再び繋がることができて(reconnect)、
ひと時のお喋りでもいいから連帯して、個別の、そして共通のいろんな困難にも耐えて、生き生きと前を向いていける力(resilience)を一緒に付けていくことが出来たらなぁ、と思う。
今、映画をオンライン無料公開していて、少しずつ感想が届き始めているところだが、「人と人が会って喋っているときに、やっぱり人は目が輝いていますね」というのがあった。
普通のことだけれども、それは特に今のような時代、心に響く真実だなと思った。
いつかマスクなしで思う存分、おしゃべりできたらと思うけれども、それ以外でも、サラッと風が吹くように少しのやりとりが出来るだけでも救われる。
いつも読んでくださって、ありがとうございます!
今日はこの映画の展示会で締めくくります。
独りのシーンもいいけど、会話のシーンも、やっぱりいい。
(一番下に映画のリンクも再び、貼っておきます。まだの方はよかったら是非、ご覧ください。)
もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉚
Vol.30 あの日のことを、書かねばならない
〜その3
㉙のお話の続きです。
「ジルが亡くなった」
そう聞いて打ちのめされて、泣きながらスカイプを切った。
心配そうに私を見つめていた母に、「ベルギーへ行くから、娘たちを北九州で預かって欲しい」と頼んだ。
迷ったのだが、今はまだ子供たちに告げないこととした。
ただ、「ママ、急に忙しくなることがわかったから悪いけど、ばぁばと一緒にしばらく北九州に行っといてね。あとで迎えに行くからね」とだけ言い、その日のうちに3人を押し込むように新幹線のホームまで見送りに行った。少し不思議そうな顔はしていたが、素直な5歳と4歳。ただ、長女の方は別れるときになぜか泣き出した。
私が選んだのは、翌日の夜のエールフランス。
この時、テロの起きたブリュッセルの空港は閉鎖されており、まずはパリから入って陸路、TGVでブリュッセルの南駅へと向かう算段だった。
春休み真っ只中のはずだが、不穏な空気漂うヨーロッパ行きだからか。飛行機の中は閑散としていた。こんな心理状態の中で、狭い空間に12時間も閉じ込められては息ができなくなるかもしれないと思い、私は普段だったらしない贅沢で、やや広いプレミアムエコノミーの席を予約していた。
日本を発ったのが夜だが、そのまま夜の闇がずっとずっと、暗いトンネルのように続いて行くような感じがしていた。目の前にボワっと唯一、黄色い光を放って見えたのは、座席の目の前にある個人用映画スクリーン。
わたしが思わず目を留めたのは、フランス製アニメの「リトルプリンス 星の王子さまとわたし」だった。
あ・・これはジルが子供たちを連れて、新宿ピカデリーに見に行ったやつじゃないか。
おそらく前年の11月末くらいだと思う。
私がインターネットでチケットを購入し、その引き換え番号をメモしてジルに渡した。大人であっても、異国に住んでいるならではの、ドギマギもあったのだろう。「ちゃんと機械からチケットを取れたよ」と、おつかいに行った子供のように、帰ってきた時に報告してくれた。
「すごくいい映画だったんだよ。自由って何か、について語っているんだ。これは大人こそ見るべきだね」 そう強調していた。映画の意味を一番深く感じとったのは、子供たちよりもジルのようだった。
私はこの映画を2度、飛行機の中で回すことになる。
ジルの言っていた意味はわかった。ルールに縛られたり、予定を立てすぎたり、安心を求めすぎたりすることが嫌いなジル。映画の中に出てくる、かつて星の王子さまに会ったことがあるという自由な”おじさん”はジルのようだった。それが解った時に、一体どういうシチュエーションでこの映画を見ることになったんだ私は・・と思い、ボロボロと泣いた。
3月30日の早朝にブリュッセルに着いたとき、ジルの友人、ひいては私の友人でもある二人が迎えにきてくれていた。お互いに息を切らして顔を合わせるなり、輪郭がなくなるほどグシャグシャになった瞳でただ黙ってきつく抱き合った。このあと、私は色々な人ときつくきつく、抱き合うことになる。ハグを挨拶がわりにするヨーロッパでも、普段はこんなに力のこもった抱擁に次ぐ抱擁は、しない。
ジルの身体はもう、前日のうちに故郷であるブイヨンに運ばれているということだった。
ブリュッセルから車で2時間。運転してくれたのはジルのお義姉さん、シルヴィー。私が恐る恐る質問をしたのか、それともお義姉さんから話してくれたのか忘れたが、ここで初めて私はジルの死にまつわる詳しい情報を聞くことになる。
ジルの死が判明したとき、警察はまずブリュッセルにいるシルヴィーのところに報告にやってきた。そのあと、家族はお互いに電話をするのではなく、それを言うために次の姉妹、次の姉妹、そして最後は両親のところへ、と人数を増やしながらどんどん車で移動していたのだった。誰もが泣きながら車を運転していたはずだ。
そして日本時間の早朝になるまで、私が起きる時間になるまで。全員で待っていた。だからあの時、スカイプの向こう側に勢ぞろいしていたのだった。
ジルが見つかるのに時間がかかったのは、多数の負傷者の手当や照合の方により時間が割かれていたからだったそうだ。
ジルは即死だった。
お医者さんの見立てでは、「おそらく本人は気づかないうちに、だったでしょう」ということだった。犯人と同じ車両で、5メートルほど離れたところで背中を向けて立っていたそうだ。最後に病院でジルの顔を見たい人、見たくない人・・それは家族の中でも分かれたようだ。けれども身体も部分的に失くした所などはなく、「穏やかな顔をしていた」ということだった。苦しむ瞬間がなかったのだったとしたら、それはよかったのかもしれないと、少しホッとした。
しかし・・私自身は、ついぞ顔を見ることが叶わないままになってしまったのだった。
前日のうちに棺は打ち付けられており、日本式のように小窓もない。家族が「明日、奥さんがくるから待ってもらえないか」と警察に聞いてくれたのだが、そこは事務的にNOだったのだ。
私がこの時、彼の顔を見なかったこと・・そのことの良し悪しの判断は、今もついていない。逆に見なかったことで、私の中では彼の死という事実が、どこか徹底的には、刻み付けられていないのである。
けれども見なかったことは、挨拶をしてあげられなかったということなのか・・到着が遅れてごめんなさい・・そんな気持ちも残ってしまった。
ブイヨンの彼の実家はホテル経営をしている。
そのホテルの中の、通常ならレストランとして営業をしている場所が、彼の棺の安置場所となり、そのスペースはすでに多数の花で埋め尽くされていた。
薄いベージュの大きな木の箱は、当然ながらだいたいジルと同じ大きさだ。この中に身長183センチのジルが入っているのか・・もう起きることのない姿で。そう想像すると、やりきれない気持ちで崩れ落ちるしかなかった。すでに到着していたジルの親友たちと、お互いに嗚咽しながらそこでもきつくきつく、抱き合った。
葬儀は3月31日。近くのカトリック教会だった。
ジルと仲の良かった4人の男性それぞれが、棺の端を「せーの!」と担ぎ、皆で教会までの5分ほどの道を行進した。雨がそぼ降っていたが、誰も傘をさしていなかった。
海外で葬儀に参列するのは初めてだったので、いつでもこうなのかは、わからない。けれども賛美歌や神父さんのお話の合間に、ある友人は詩を朗読し、ある友人はギターを奏でた。
決して因習的ではない、お葬式だった。
最後に教会の出口のところで参列者の一人一人と挨拶をしたが、その中に映画のプロデューサー、あのシリルがいた。私がスカイプ越しにちらりとした見ていなかった人。これが”初めまして”となった。彼は赤くなった目で「映画は完成させるからね、僕たちがやるからね」と必死の表情で告げてくれた。
その後、参列者たちにホテルで食事とワインが振る舞われた。
ベルギーに住んでいた時でさえ、細切れに、それぞれでしか会わなかった友人たち。ジルの仕事仲間。親友たち。家族とその友人。親戚。近所の人たち。私がベルギーに住んでいた時のたくさんのママ友。海外にいて間に合わない人以外は、ベルギーで縁とゆかりのあった人たちはみんな、そこに居た。
悲しみと笑いは紙一重というけれども・・。
食事とワインで笑顔も出てくる。ジルの思い出写真をスライドショーにして皆で見ていると、中にはクスッと笑えるようなやんちゃな若い頃の写真も出てくる。こんなに大きな悲劇の中にいるのに・・なぜか、笑えるときは笑えるのだった。そしてまだ、ジルもそこにいるような、不思議な気分になってしまうのだった。
本当に・・ジルが今にも、「たまたま2階にいただけだけど、降りてきたよ!」という風情で、「やっほぅ〜」と現れて来そうだった。
みんなみんないるのに、どうしてジルだけがいないんだ、と思った。
こんなことって、あるのかな。
でも、この時の賑やかさはまるで、私たちの方が天国にいるような感じがしたのも確かだ。
普段なら一同に会するはずのない人たちが、一同に会しているのだから。私にしてみれば、オールスターだ。これはどういうことなのだろう。夢なのだろうか。そうして、皆が思い出話に花を咲かせている。
そしていよいよ、ジルとも本当のお別れがやって来た。
4月1日に、火葬が執り行われたのだった。
私にとっては意外だったが、ヨーロッパも火葬を選択する人が増えて来ているようだ。それは個人の選択なのだろうが、ジルの場合は「灰をスモワ川に流して」という遺志があったので、それを尊重する形だった。
けれどもそこで全てを流してしまう予定にはせず、家族は私のために小さな遺灰入れを用意してくれてもいた。
時間をかけて棺が炎に包まれていった後、私に渡された小さなブルーグレイの巾着袋。
受け取った時、なぜか私は反射的に、それをみぞおちのあたりにぎゅっと押し付けずにはいられなかった。磁石で吸い付いていくようだった。
そこがその小さな遺灰の、最初の居場所なのだった。