故ジル・ローランを偲んで

A blog to remember Gilles Laurent, who died in Brussels Attack in the middle of making his film about Fukushima / this blog is organized by his wife Reiko Udo

もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㊲

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2017年の夏、ベルギーはブイヨンにて。二匹のチワワを散歩する娘たち。

後方がおーちゃん、前方が甥っ子のタオ。

Vol. 37 犬のおーちゃん  〜後編〜

 

㊱のお話の続きです。

 

おーちゃんを預かるうちに、この小型犬の魅力にハマった義両親は・・「私たちもチワワが欲しい」と言い始めた。

そして「できれば、おーちゃんと血が繋がっているといいな」と。

これにはジルも仰天していた。



おーちゃんを元々くれた友人に聞いてみると、たまたま甥っ子にあたる仔犬が、ちょうど2011年の7月に生まれたタイミングだということだった。

その子の名前は、タオ。

ちょうど我々は2011年の12月に一時帰国する予定があったため、その時点で生後五ヶ月のタオを日本からピックアップし、両親に渡すことになった。

チワワの場合、小さいのでおとなしい子であれば座席にもそのまま連れて入れる(!)。タオはソフトバッグの中に入り、日本からの12時間もの長い機中、私の手もとにいた。
ずっとずっと、存在感を隠しているかのように静かだった。

トイレシーツをバッグの中に敷いていたにもかかわらず、緊張したのかずっと我慢していたようだ。成田を立ち、ブリュッセルに向かう途中の経由地、フランクフルトの空港に着いたとき、一瞬だけ空港内の通路に置くと、大量のおもらしをした。でもずっと元気で居てくれた。


無事にベルギーに着いたタオ。

広島に生まれ、東京で幼少期を過ごし、おーちゃんの後を追うようにベルギーの南部、ブイヨンまではるばるやってきて、無事に義両親の犬となった。

 

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右がおーちゃん、左がタオ。


おーちゃんは相変わらず基本的には私たちの犬ではあったのだが、やはり留守をするときに両親に預けることが続き、ジルの実家では、賑やかな”2匹体制”になることもしばしばだった。

 

ジルは「うちの一家が、チワワでこんなに盛り上がるなんてね・・。思っても見なかった新しい風、吹かせたね君は」と苦笑いをしていた。

 

まさにチワワ革命。


ジルのような若い男性どころか、落ち着いた風貌の老齢のビジネスマン(ジルのお父さん)が、2匹のチワワを連れ歩くことになるのだから。



しかしそのうち、難しい選択に迫られることになる。我々の2013年夏の本帰国だ。

 

おーちゃんをどうするかはとても迷ったのだが、今回はまず、ジルが出張中で私が娘二人(当時3歳と1歳)を単独で日本に連れ帰らなければならない。犬も一緒に、というのはかなりハードルが高かった。それでとりあえず、両親の家に預けたままとすることにした。


とりあえず、のつもりでいつかはまた迎えにいけたらと思ってはいた。

 

ジルが亡くなってからも毎年、夏にはベルギーに子供達を連れていっていたが、そのたび、おーちゃんはもちろん、タオも私を見るなり、大急ぎで駆け寄ってきていた。

こう言うと猫には失礼だし真偽のほどは確かではないが、一説には「猫は3年の恩を3日で忘れる。犬は3日の恩を3年忘れない」という。私を元祖・ご主人様とするおーちゃんはともかく、タオもまさに、それを地で行った。日本からベルギーへと大事に連れてきた私への、「3日の恩」をずっと忘れないでいてくれた。

おーちゃんのことは、離れてからも心の片隅にあった。

それでもやはり、子育ての一番大変な時期には、正直言って忘れてしまうこともあった。


だがそれでも大丈夫なくらい、おーちゃんはベルギーでタオともども大層可愛がられているのが分かっていたので、安心だったのもある。何せ、ローラン家に革命を起こしたくらいなのだから。


けれどもそのおーちゃん、ついに私の手元には戻らないまま、ベルギーで命を終えることになってしまった。2019年の5月、その日はふいにやってきた。11歳だった。お義父さんのメールに「病気が悪化して、ついに亡くなってしまった。僕の腕の中で静かに息を引き取った」とあり、しばし呆然としてしまった。


ジルがテロで亡くなってしまったとき、お義母さんはすでに施設に入っていた。お義父さんの日常のかけがえのないバディは、おーちゃんとタオのペアだった。そして、チワワ2匹どうしも仲良しで、おーちゃんだけを引き取ってしまっては、二匹にとってもショックになってしまうだろうなとも感じていた。


そんなことを考えて続けているうちに、「いつか」は2度とやってこなかった。

私のせいでやはり移動が激しく、波乱の一生を終わらせてしまったおーちゃん。


でも救いになるのは、今は天国ではジルと一緒だねということ。きっと彼が散歩してくれているだろう。天国ではなおのこと、男が大型犬を連れているべきだとか、女に小型犬が似合うなどのイメージも関係ないだろう。


"Mon gros !"と呼びかけられて、ニコニコと尻尾を振っているはずだ。
(フランス語では、可愛がっている対象に、小さいものならmon gros、大きいものへは逆にmon petit、と話しかける傾向があるような気がする)

 

そして、誰かや何かが亡くなった時は、さみしいけれども「あちら(天国)チーム」で楽しく再会を喜んでくれているかな、と思えることがひとつの救いになるように思う。

おーちゃんをものすごく可愛がってくれていたお義母さんも、実は一昨年の12月に亡くなった。けれども今、虹の向こうのチームは2人と1匹。そう考えたときに、心が少しホッとするのだ。

 

ところで同時に、こちらの世界では、ますます大きくなる娘たちが犬を飼いたいと言い始めてもいた。生まれた時からそばに犬がいた二人にとっては、刷り込み効果でそもそも犬は一番大好きな動物だ。

そもそも幼いころからもそうは言ってはいたのだが、おーちゃんのことも気にかかっていた私は、「じゃあ自分で散歩もできて、世話も自分たちで一通りできるようになったら考えようね」と、とりあえず保留にしていたのだ。

 

「何年生から?」

「4年生くらいかなー。」

「じゃあ、3年生のうちの、1月からっていうのはどう?」などと、長女はしばしば細かく交渉を挑んで来ていた(笑)。


そして2020年の2月ごろ。「犬が欲しい欲しいコール」は抑えがたく高まっていた。

 次の4月になれば長女は4年生、そして次女は3年生というタイミングでもあった。


でも、おーちゃんは許してくれるだろうか。私が最後にヨシヨシすることも叶わず、天国に行かせてしまったのに。

 


そんなある日、近所のバス停から不意に空を見上げた時、本当に不思議なくらいにおーちゃんの形をした大きな雲を見た。耳もあって、しっぽも見えて、ライオンみたいに寝そべる形。口元がニコニコと笑っている。

そのとき、「あ、おーちゃんがいいよと言っている・・」と直感的に思った。


その日のうちに、思い切って昔おーちゃんをくれた(そしてタオもくれた)友人に電話をすると、何とその2週間ほど前におーちゃんの妹の孫(ややこしいが、タオの甥っ子にも当たる)が二匹、生まれているではないか。

おーちゃんへの悔恨の念も包み隠さず伝えながら、その上で「ぜひください」とお願いをした。

  

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ソラの写真撮影は、もう私ではなくて娘たち専門だ。

自分たちのタブレットで日々、バシバシ撮っている。

 

生後二ヶ月余りが過ぎた頃、その子は我が家へやって来た。

4月はまだ緊急事態宣言中ではあったが、学校に行きたくても行けずにややもすると沈みがちだった子供達にとって、格好の慰めとなり、家の中が一気に賑やかになった。

 

長女が考えた名前、「ソラ(SOLA)」をつけた。
私が空を見上げた時に・・という話をしたのもあるが、ソラのお母さん(タオの妹にあたる)の名前は、「LA(ラー)」(太陽神の意味)だったのもあり、ちょうどいいということに。

 


おーちゃんの魂は、ソラの中にも入っているのだろうか。

それはわからないけれども、今、子供達にとって最愛の犬になっていることは間違いない。

もしかしたら生まれ変わりの形をとって、また私と私の家族を助けに来てくれたのかもしれないな、とも思う。

 

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2009年撮影 by Gilles おーちゃんと私。

 

もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㊱

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2009年の暮れ。今は亡きチワワのオーちゃんと。(photo by Gilles)

Vol. 36  犬のおーちゃん 前編〜

今日は”スピンオフ”のお話。


私がジルと出会うより前の2008年から飼っていて、一昨年亡くなってしまった忘れ得ぬ犬、「おーちゃん」の話をしたい。

 

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「日本でならいいけど・・。ベルギーでこういう小さい犬を散歩している男ってあんまりいないからさぁ。(ベルギーに連れてきても、自分が堂々と散歩できるかどうかは自信ない)」

夫婦別姓同性婚も。なにもかもが日本より進んでいるように思えるヨーロッパで、犬種ごとの“ふさわしい男女イメージ”だけは、むしろステレオタイプなの!? それに驚いた。

そう言いながらも、とりあえず優しく責任感も強いジルは、結婚前に日本に来てくれたときには、私の留守中におーちゃんをよく散歩に連れ出してくれていた。


「今日はスーパーの前で結構長い時間待たせてたけど、僕が出てきたとたん、しっぽ振ってめちゃくちゃ喜んでたんだよ」などと話してくれた。

私が出産をしたのち約1か月の間、当時住んで居た世田谷区のマンションで炊事や赤ん坊の入浴などを担当してくれていたジルには、この”おーちゃんの散歩”、という任務もついてまわった。

赤ん坊の顔を見にきた私の友人に、「毎日さぁ、two meals, two dogs...(ご飯作り2回、犬の散歩2回、という意味のことをざっくり表現している。) ほんと大変なんだから」と冗談交じりにこぼしていたのを覚えている。


チワワのおーちゃんは、2008年に私の元へやってきた。

それまで特に小型犬には興味がなく、むしろ猫派だった私だが、友人宅で生まれたこの子を譲り受け、当時ひとりぐらしの東京宅で育てることとなった。

飼い始めてみると、犬特有のその素直に感情表現をしてくれるさまに感動し、当時いくつかの恋愛経験に疲れていた私にとっては、「こんど付き合うならちゃんと犬みたいに真っ直ぐに向かってくれる人がいいな」と思わしめるほどだった。

それがその後のジルとの出会いや付き合いに、影響しなかったとは言えないかもしれない。

一説によると、チワワは小さいけれども勇敢で仲間を守ろうとする気持ちが人一倍強いらしい。獣医さんが「小さいからこそ、そう言う性格になったんですよね」と言っていて、なるほどと感動したことがある。


そしてこのおーちゃんは、とりわけ性質がよかった。

常に穏やかで不満なく、ニコニコしているイメージ。(これも一説によると、犬は人間との暮らしが長い間に”笑う”ということを覚えたらしいが。) 散歩ですれ違う犬にも、しっかりといったん、お座りをしてから挨拶をするという礼儀正しさだった。愛らしくてモデルになれそうな顔。涙目がちょっと過ぎることもあったが、キャンキャン吠えることもなく、素直で明るい佇まいが、私の友人たちにも絶賛された。


当時私が住んでいた世田谷区のマンションの近くには、遊歩道と、人工ながらも可愛い小川が流れ、まだ一人だった頃は、その周辺を一日に1、2回散歩するのが、生きがいに近いほどの習慣だった。途中でベンチに腰をおろし、ニコニコ笑うおーちゃんとただしばらく、たたずんでいた平和な記憶が懐かしい。

そしてとても印象に残っているのが、2009年10月。長女を妊娠していることがわかった検査薬を見て、私が思わず「ぎゃあ!」とジャンプすると、なぜか一緒になって思い切り飛び跳ねて喜んでいた姿も忘れられない。

 

「悲しみは半分に、喜びは2倍に。」

そんな友達のためにある標語を、まずは地で行くのが犬じゃあないかとも思う。

犬や猫を飼った経験のある方ならわかると思うが・・。

その子と自分の”間にしかない”思い出。シェアした感情などは、ペットといえども侮れず、結構、あるものだと思う。

 

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おーちゃんのシャンプータイム in 2009  photo by Gilles



育児休暇を使ってベルギーに行くときも、私のわがままでおーちゃんを連れていくことにした。そのために必要な注射や手続きは簡単ではなかった。ただ、赤ん坊と共に渡欧するのはちょっとハードルが高すぎたので、私の移動のあと数ヶ月後に、その元々おーちゃんをくれた友人に、飛行機で観光がてらベルギーまで直接連れてきてもらう(!)という荒技を行った。


そして散歩が大好きなおーちゃんは、ベルギーに来てもなんら問題なく元気に歩き回った。

 

「おーちゃんベルギーに来たら、土地の差を感じるかな? それとも変わりなく散歩するかな。いや、きっとお構いなく散歩するだろうね。」とジルが言っていたけれども、実際にその通りになった。

 

三度の飯より散歩好き。「O-CHAN, OSAMPO!」と言われるだけで、ジルの顔を見上げて大喜びでいつも玄関に走っていった。

当のジルは「夜ならまぁ、まだ人目につかないかな」と言いつつ、少し不満げながらすでに帳の降りたブリュッセルに、よく散歩に連れ出してくれていた。



私もしばしばベビーカー、抱っこ紐、そして犬のリードも持ちながら買い物などへ出かけた。

3つも”小さいもの”を抱えたものすごい状態で出かけることがしばしば。こんなに負荷をかけて外出している人なんて珍しいよな・・と思ったら、一度だけ自分と同じ境遇の人を遠くに見つけたことがある。思わず走り出し、「同じですね」と話しかけたかったのだが、そんな負荷がかかった状態では、簡単に追いつくすべもなかった。


チビ勢ぞろいの、ブリュッセルの我が家だった。

 

だが以前のブログにも書いたように、遠くはメキシコ、近くてもジルのちょっとした出張でパリなど、しばらく不在にすることもあった。そんなときには、ブイヨンにいるジルの両親へ、おーちゃんを幾度となく預けた。

 

 

そして私は、このローラン家に”チワワ革命”をもたらしてしまうことになる。

 

「チワワ可愛いけど、マダムが散歩する犬だよね」と最初こそジルと同じように言っていたお義父さんだが、お義母さんともども、おーちゃん、ひいてはチワワの大ファンになってしまい・・。

 

<つづく>

 

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カメラ好きのジルが、私が居ない間に、数十枚おーちゃんのどアップを撮っていたことがある。

 

もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉟

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映画のワンシーンより。空の表情を撮ったカットも多い。

Vol. 35  「残されし大地」と名付けた理由

 

いろいろと資料整理をしていたら、これがポン、と出てきた。

不思議だ。ジルがこれ出していいよ、とメッセージしているのかもしれない。

 

前回のブログの冒頭写真にも使った、2016年9月末に群馬県高崎市で行われた「コミュニティシネマ会議 2016」で用意していたスピーチの原稿。

映画上映の前に登壇することになっていたため、その時に用意していた舞台挨拶だ。

 

ジルが亡くなってから初めて、この映画について公の場で喋る機会だったので、前日までに一生懸命、原稿を書き思いの丈を綴っている。

実際は原稿用紙は持たず、直前になって、その場で思うままに出てくる言葉だけで喋ってみようと決めて立ったので、部分的には幻の原稿。

けれども、当時の溢れ出る思いを詰め込んでいるので、その原稿を改めてここに出したい。

 

いろいろと偉そうなことを書いているが・・。実際はこの映画の上映の後、私は泣いてしまった。それもそうだ。初めてこの映画が、大きなスクリーンに映し出されるのを観たのだから。

 

(ネタバレになってしまうが)映画のラストシーンで、スゥーーっと音もなくフェイドアウトしていく映像に、この映画の完成をほぼ見届けながら、やがて命を亡くしていったジルとシンクロするものを感じて胸が潰されたのだった。

その後何度もお客さんと一緒に、スクリーンで見ることになるのだが、この記念すべき第一回目の上映で、劇場で。喜びと悲しみがどこからともなく押し寄せてきた、あの瞬間のことを私はずっと忘れない。

 

 

<舞台挨拶>

 

 今日はお集まり頂きありがとうございます。

 故人に代わって、心からお礼申し上げます。

 

 まず今日は初の一般公開でもあるということで、日本語版のタイトルについてのご説明をさせてください。原題はLa Terre Abandonneでしばらく実は「見捨てられた大地」という仮タイトルが付いていました。アバンドンド・ハウス=空き家、つまりアバンドンドは人が居たけど、いなくなってしまった、くらいの意味ですが、見捨てられた、では嘆きが入ってしまいます。それでいて、なかなか他にそれに代わる強いタイトルを思いつきませんでした。

 

 けれども、「そこには変わらず大地がある」という事実に気がつくと、「残された」「残っている」という言葉がぴったりなのではないかという感覚に至りました。翻って私には、ジル・ローランという人間がテロによって居なくなるという悲劇が起きたわけですが、私たちも「残されて」います。けれども生きている。生きていこうと思えば新たな道はあるし、地平線が用意されていて、そこには太陽が毎日ちゃんと登ってくるし、旅は続いていく。また、別の大きな愛を呼び起こしたり、新たな喜びや笑いも生まれてくる。

 そう考えた時に、福島で被害にあった方たちの状況と、犠牲者家族の状況、というのはとても似ていたのです。私自身や子供達も“残されし”大地なのだと思います。取り去られても、残されて続いていくものがある。大げさに言うと、焼け野原からも新たな命が育っていくのと似ているかもしれません。そう考えると、全ての悲劇から人間というものは立ち直れる力があるんだ、新たな道を見つけられるんじゃないか、という確信があります。

 福島で起きたこと、それからテロという災難の二つを通じて、夫がはっきりと教えてくれる希望を、映画がここで上映される、私がここに立つという事実に見ていただければと思います。

 

  彼がこの映画の取材やロケハンを最初に始めたのは今から2年前のことでした。当時、まだJR富岡の駅は形としては残っていました。まさに駅もアバンダンド。人が居たけど居なくなっている。そこに縦横無尽に雑草が生えまくり、柱にツタが絡まりまくる様を、彼は映画にも登場する松村さんを据えながら写真を撮り持ち帰り、ある意味喜びにも満ちた表情で私に見せてくれました。それは、「こんな風になってしまって」という嘆きだけではなくて、「(これはこれで)美しい、と思わないか」と。変わらず命をつなぎ続け、むしろはびこるほどに勢いのある植物の力。実際に映画撮影が始まった時にはもうその自然が一部撤去されてしまったことを少し残念がっていたくらいです。現地の実情からすると、まずはいらないものを取り払って次へ行こう、ということなのでしょうが、彼は「命の輝きを感じるもの」ひいては「絵になるもの」をどこまでも追い求めようとする、そんな映画人としてのワガママも持っていたのだと思います。劇中に出てくる蜘蛛の巣などもそうで、人が居なくなったことを表すためだけではなくて、同時に、蜘蛛の巣自体が光を受けて輝き美しい、ということを心から愛してフィルムに残していることを感じます。

 

 内容は福島のことですから、ヒューマニストだった夫には、もちろん理不尽さに対する怒りやメッセージもベースにはあります。けれども、そのメッセージと同じくらい、彼が大事にしたのが絵や音の美しさです。この部分はなかなかメディアだけでは伝わりにくいことで、メッセージ性と夫の亡くなった状況とを伝え切ることで、紙面や画面はいっぱいになってしまうわけですけれども、あえてこの舞台上では私が言いたいのは、この映画は彼の、“映画人としてのワガママ”もいっぱい詰まっているということです。決して正義やエコロジーを主張するためだけに、怒りだけを持ってこの映画を撮ったのではないのです。出会った頃に、I like nature and culture,ネイチャーとカルチャーが好きだ、と常々言っていましたが、自然と文化、って、人間にとって一番大事なもの二つだなあ、と思います。自然や文化への愛があり、小津安二郎など敬愛する先人たちへの愛があリます。彼は映画を見るたびに口すっぱく、シネマトグラフィーが、シネマトグラフィーが・・と盛んに言っていました。私もそんな英語あったんだ、とそれで覚えましたが、映画撮影方法、つまり映像美がどうか、というようなことだったんだと思います。ネイチャーとカルチャーが好き。そんなジルらしさを思い切り結びつけたのがこの映画だと思います。

 

 私のあるベルギー在住の友人が、「福島のことだけでなく家族や自分の人生、自然、動物、共存、私たちのしていること・・たくさん考える機会をくれる映画だと思う」と言ってくれました。そんなひとくくりにはできないメッセージ性とともに、ジルの映画人としてのワガママ、映画という文化への愛情を、一緒に味わっていただければと思います。

 

 

<映画「残されし大地」 3月22日まで無料オンライン上映中!>
 
日本版  https://vimeo.com/521260129     
ベルギー版(英語字幕付き) https://vimeo.com/519469354

 

もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉞

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映画のお陰で生き延びられた私。この後、相次ぐことになる”登壇”の第一歩はここで。

群馬県高崎市で行われた「全国コミュニティシネマ会議2016」でのショット。

 

Vo. 34  映画という名前のお神輿 〜その2

 

㉝のお話の続きです。

 

「どうもどうも、奥山と申します」という自己紹介のあと、奥山さんはしばらく喋り続けた。

 

私は子供たちを寝かせたその日の夜9時、早速緊張しながら電話をかけてみたのだった。

「今朝ね、亡くなった母の遺品整理もあって、実家にいたんです。普段、こんな時間にテレビなんて見ないんですけど、今朝はたまたま付けたまま作業してたんですよ。僕の母はNHKしか見ないような人でしてね・・」

「そしたら、何かいい映像が流れてるなぁって。人の居ないお店のシャッターがカタカタ、カタカタと揺れていて、その風の音も印象的で。そしたら、これを撮った監督が亡くなっていると。この密度の濃さは、そのせいなのかと思って」

NHKおはよう日本の中で紹介されたのは、わずか数分に当たる部分だったと思う。けれども、その一瞬の出会いに、奥山さんはグッと気持ちを掴まれたのだと言う。簡単に言うと、恋をしてくれてたような衝動で。喋るスピードは決して早くなかったけれども、一定の熱量を感じさせるに足る口調だった。

そして、この日の電話の主眼は、10月に予定している京都国際映画祭でぜひ上映してはどうかという話だった。

 

後から聞いたところによると、様々な場所に知人がいて行動も素早い奥山さんだから、この日も放送を見た後すぐ、NHKにいる仕事仲間、何人かに電話をしたらしい。けれどもたまたま通じなかったせいもあり、何と最終的に「お客様窓口」に電話をし、その熱意を告げてくれていたのだった(!)

それを窓口から伝えられた、件の鴨志田さんが、私に電話をくれたというわけだ。



奥山さんが松竹で活躍して取締役に登りつめたのち、解任されたまでのエピソードはつとに有名だ。その時代のヒット作としては「ハチ公物語」、自ら監督を手がけた「RAMPO」など。優しい雰囲気の映画もあるが、ギラっ、ヒリっとした要素がどこかにある映画も多い。(詳しくは、「映画プロデューサー・奥山和由の天国と地獄 黙示録」というノンフィクションをご覧いただきければ。この本、かなりの傑作で読み応えがあります。)

そして、あの”世界の北野武”と言う映画監督世に送り出したのも奥山さんだ。

解任撃を経た後、みずから「チームオクヤマ」を立ち上げ、その後は「地雷を踏んだらサヨウナラ」などでロングランヒットを飛ばし、現在は吉本興行の映画制作会社と協業している。

その流れで、吉本興業が主催する京都国際映画祭のプロデューサーに。そんなわけでこの映画祭は端的に言ってしまえば、奥山さんの一言で上映作品を決めることができるフィールドだった。



何かすごいことが起きたなぁ、と思った。

例えば北野武は、ジルも好きな日本の映画監督のひとりだった。

とはいえこれは、言わばすれ違っただけで一目ぼれして頂いた状態に近いものがあり、申し訳なさすぎる。とりあえず、映画全体を見て頂かないとご判断をしていただければと言い、そのあとにショートメールでこの映画を視聴できるリンク、そして私のブログのURLをお伝えした。

早速数日のうちには銀座のペニンシュラホテルの最上階にある、外国人記者クラブのカフェでお会いし、お話をした。

わぁ、ここが時々テレビで見る「外国人記者クラブ」か。カフェの壁には様々な要人のモノクロ写真が並んでいた。


全編を見てくださったあと、心変わりがなければいいな、と実は思っていたが、奥山さんは終始落ち着いた様子で話をどんどん先へと進めていってくれた。
その際、映画祭はも嬉しいけれども、是非なんとか劇場公開をしたいのだという話もした。すると、配給会社の「太秦」というところがあってね、ということで今後の動きについても提案をしてくれた。


太秦(うずまさ)・・。その名前はなんと、その少し前にドキュメンタリー映画祭のディレクターを請け負っている方に、”お勧め”としてリストアップしてもらっていた、配給会社3社のうちのひとつだった。実を言うと奥山さんに声をかけてもらう前、そのリストに書いてあった順に、最初の二つに電話をしてすでに(他に福島の映画を同時期に手がけているので、などの理由で)断られていたところだった。

そんな矢先にリストの3つ目は、”向こうからこちらに歩いてきてくれた”。そんな感じがした。


2回目に奥山さんと打ち合わせをする日。

その日は太秦の代表、小林さんとも会わせてもらえる日だった。表参道で仕事を一つ終え、待ち合わせ場所に指定された渋谷ヒカリエの上階にあるカフェにタクシーで向かった。

その時不思議なことに、1匹のてんとう虫が私の膝にじぃっとくっついて来ていた。

表参道の植え込みの中から、弾みでこちらに乗り移ってしまったのか?
二つ星だった。黒い体にオレンジ色の、星二つ。
タクシーがヒカリエの前に停まって私が車から身を出す時に、同時にさっと飛び立っていった。

 

この時を置いてほかに、東京の街中で、てんとう虫に寄り添ってもらったことはない。

実はNHKの放送のあと、もうひとつの場所から連絡をもらっていた。

それは全国のミニシアターで構成される「全国コミュニティシネマ会議」という団体の事務局からだった。(いまは、ミニシアターというよりも、コミュニティシネマ、という呼称が一般的らしい。)
もうすぐその会合が高崎で行われる予定で、そのときの締めくくりにこの映画を上映したい、というものだった。「私たちが応援すべきなのは、こんな映画だと思うんです」と。

その話のことも切り出すと、太秦の小林さんは、「あ、それは絶対受けたほうがいいですよ。後々に売り込むことになる、コミュニティシネマの方に、先にこの映画の存在を知ってもらえますからね」と。

こうしてメガな視点を持ったプロデューサーと、コミュニティシネマ系に広くパイプを持つ配給会社との、ありがたすぎると三角形のタッグが生まれた。願ってもない形になったのだった。

この顛末をドキュメンタリー映画の監督経験のある知人に報告をした所、「理想的ですよ。頑張って!」と言ってもらえた。

 


映画という名の御神輿に乗せてもらう。それは本当に、私にとっては非日常であり、祭りであった。これはその始まりのお話。

このあとその京都国際映画祭などを経て、翌年の3月劇場公開に向けての、さまざまなプロモーションを奥山さん、太秦とともに積み上げていくことになる。

 

のちに私は奥山さんと同席して、いろいろな新聞社や雑誌からインタビューを受ける機会も頂いたのだが、そんな時に奥山さんが改めておっしゃっていたことで、印象的なことがある。

 

「もちろん、ジルさんが生きて元気でいらっしゃった方がいいのだろうけれども・・。この映画には、その直後に亡くなってしまったからこそというか、その直前の”濃い生の力”のようなものが、却ってぎゅっと凝縮されているような感じを受けますね。」と。

 

活動的かつ飄々としているようで、常人にはない鋭敏な感覚を持っている奥山さんならではの、真実をついたコメントだなと思った。

 

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京都国際映画祭のクロージング・パーティーにて。

映画「残されし大地」のために登壇してくださった女優の高島礼子さんと奥山さん(中央)。

そして、別件で受賞していた阿部寛さんも・・。こんな場に居合わせるなんて、不思議すぎた。

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奥山さんとの貴重なツーショット。無事に登壇も終わり、高揚していた。

お酒もいただいてちょっとぼんやりした顔をしております。

 

★3月22日まで、映画「残されし大地」オンライン無料上映中!★

日本版  https://vimeo.com/521260129     

ベルギー版(英語字幕付き) https://vimeo.com/519469354 

 



 

もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉝

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2016年4月23日土曜日・読売新聞夕刊。これが私が初めて取材に応じた記録。

ブリュッセル支局の横堀記者には、その後も別の暖かい記事でフォロー頂いた。

この見出しからもわかるがベルギーテロから1ヶ月は、熊本地震から1週間と重なっていた。

 

 

Vol. 33  映画という名の御神輿  〜その1

 

 


それはまるで、”火事場の馬鹿力”と言われるものだったと思う。


ジルはテロで亡くなった。でも、映画を残して亡くなった。

ならば彼がある意味命をかけて完成させようとしていた映画を、どうにかして日本にも紹介することはできないものか。



実はベルギーでの葬儀中に、ジルの実家であるホテルに、1通のファックスが届いていた。それは読売新聞のベルギー支局からのもので、「今回のことについて、よければお話を聞かせていただけないでしょうか」との内容だった。

正直、その瞬間には「どこから私を見つけたんだろう。放っておいてくれればいいのに」という気持ちだった。だがしかし、このままでいいのか。ジルが日本人でなかったために、今回のテロで悲しむ日本人遺族はまったく居なかった、ということになってもいいのだろうか。

ブイヨンからブリュッセルに戻って1泊し、帰国する予定になっていたため、この記者の方にお会いする時間はある。まずは会ってみよう、そう決心した。


思いがけずこのときのインタビューの中で、呆然としながらも、ぽつぽつと喋った自分自身の打ち明け話の中に。その後の私がやるべきことが最初に明らかになったのだった。


ジルはどんな人で・・どんないきさつで・・そんなことを話しているうちに、もちろん「映画を製作していた」と言う話になる。しかも福島の・・。このとき、記者の方が「それはすごくないですか」というふうなことを言ってくださったと思う。

 

その瞬間、私の中で小さな雷が落ちるように閃いた。

 


映画をなんとか、日本に紹介する! そのための活動を私はしていくべきなんじゃないか、と。急に体の中を血が駆け巡り始めるような気がした。

ベルギー資本で製作した映画だから、完成しさえすれば、ベルギーで公開をする道筋はあるのだろう。けれども日本で公開するとなると、話はまったく別だ。どうやっていけばいいのかはわからなかったが、とにかく私が動いて、出ていけるところでは喋って、そして日本の配給会社にもなんとか声かけをしていけないだろうかと思った。


そう決めたとき、私は「やることがある」という状態に立つことができた。

 

この時から、この映画という名前の”お神輿”に乗せてもらうことになった。

 

そうしてこの一番傷ついた状態の時間を、あらゆる人々との奇跡的な出会いを通して数年に渡り、大いに癒されることになるのだった。

 


けれどもこの初期の頃、何か理想があったわけではない。正直、このころはそれ以上の目的はっきりとはしていなかった。

 

今思うと私はただ、動いていたかったのだと思う。突然の出来事に打ちのめされて、鎮まっていたのでは、自分までもが吹き消されそうな気がしていたのだと思う。

まさにそこは私にとっては火事場であり、ここから動き出して、逃げ出さなければならなかった。この部屋に居続けるのではなくて、なんとか隙間をくぐってでも、別のスペースに行かなければならなかった。そうしなければ息苦しい、燃やされてしまう。そんな切迫した感覚にも似ていたのだと思う。

 

何とかなるはずなんだから! 使命のようにそう思った。

 


周囲で映画の仕事と関連のありそうな人に、片っぱしから連絡を試みて、「ドキュメンタリー映画を配給するにはどうしたらいいのか」「映画祭に出すにはどうしたらいいのか」「配給会社ってどんなところがいいのか」など、様々なルートで調べ始めた。

そして、テロに関する取材も来るものは全て受けよう、と思った。そのたびにジルのことだけではなくて、この話題に欠かせない、映画のことをしゃべればいい。


そして転機となったのが、NHKの取材だった。

その後、2016年の8月末に「おはよう日本で放送されることとなった内容だ。

当時、ブリュッセル支局にいた長尾かおり記者(のちにニュースチェック11のキャスターもされていたので、ご存知の方も多いと思う)が、ジルとこの映画について発見してくれていた。そしてブリュッセルで映画編集の最終段階だったプロダクションの様子、この映画の初の映画祭への出品(フランス南部のマルセイユ)の様子を取材。そして日本にいる私にも、スカイプで話を聞いてくれた。


放送内容の核をなした、当時住んでいた東京都杉並区でのインタビュー。それに関しては、ベルギー在住の長尾さんが直接行うのは難しいので、長尾さんの信頼する先輩、東京本社の鴨志田郷さんが請け負ってくださった。

 

この時の、テレビカメラの前でのインタビュー収録については、とてもよく覚えている。

実際は放送されたものより、ずっとずっと長かったと思う。

 

鴨志田さん、ひいてはNHKとして導き出したい結論は、「日本のことを考えていたこんな外国人がいたということを、知ってほしい」ということだった(と思う)し、私は最終的にそう言っている。

だが実は、私はしばらくは何を質問されても、「それはどうしてもこの状況で、こう動かないと私がダメになりそうだったから」というような、”火事場の馬鹿力理論”を、要領を得ず繰り返し語っていたように思う。でも、そんなポエティックなことではダメなのだ。いや、ダメなわけではないけれども、それでは凝縮されたニュース番組の中では伝わらないものだ。

 

求められている結論に気づき、私の口からそれを発信しなくてはならないのだなということにも納得し、そしてようやく言ったセリフが上に書いた通り。

でも、それは誘導尋問だったわけではない。そして、そこに気づいた自分に対してあざといとも思わなかった。今から思うと、後々に思考が整理された後の”未来の私”が答えたものだった、ということで良いのだと思う。

(そして後から知ることになるのだが、長尾さん、鴨志田さんともに、様々な場所でテロやそのほかの報道をする中に、これは是非とも伝えたいという個人的な思いもあったことを後々私も知ることになるの。長くなるので、それはまた別の機会に。)

 

とにかくも、この時の放送が状況を打破するきっかけになるのだった。

 

配給について色々と調べてみても、そのハードルは非常に高いことをすでに知っていた。

いい映画だから、監督がこんな目に遭ったからなどということだけで、するっと公開につながるほど映画業界は甘くない。日々、作られ続ける多数の映画がしのぎを削って、配給会社や映画館の枠をキープしようとしているという現状に私は次第に気がつき始め、見えない壁にぶつかり始めたような気がしていた。

 

NHKではもともと放送後に、視聴者の方からなにか映画に関する問い合わせがあれば、私のほうに回してくださるということは言ってもらえていた。


そしてその運命の放送日を迎えた。

 

放送は朝の7時台だったが、昼頃に早速、鴨志田さんから、ちょっと興奮気味に電話が入った。

「映画プロデューサーの奥山さん・・て方が。ぜひこの映画をなんとかしたいいう話があったようなんです。近く、京都の映画祭があってそこに出したいとかって・・ということは、あの奥山さんなんじゃないかと思うんですが、お電話が欲しいみたいなので、今日のうちにぜひ、折り返してみてください。」そう言って、連絡先を教えてくれた。

 

鴨志田さんの話の中に入っていたのか、私の頭の中の拙いウイキペディアからだったか。

それは忘れたけれども”北野武”とか”よしもと”とか、関連するいくつかのワードが私の頭の中を駆け巡った。

 

奥山さんって・・えぇ!?

 

 <つづく>

 

 

★3月22日まで、オンライン無料上映中!★

日本版  https://vimeo.com/521260129     

ベルギー版(英語字幕付き) https://vimeo.com/519469354 

 

 
 
 

もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉜

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2016年4月、北九州市にて。パパの死を知った直後のころだが、こんなに元気そうな長女。

でも今見ると、表情がひとつ成長しているような気も。半円状のシーソーに乗って。

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シーソーの反対側には、次女がいた。パパの死の前後でも、

二人のそのエネルギーと無邪気さだけは、脅威と言っていいほど変わらなかった。



Vol. 32 金色のエネルギー

 

㉙の話の続きです。

 
ベルギーでの一連の葬儀などを終え、小さな位牌を抱えて日本に帰ってきた。
 
そんな私に残っていたもう一つの大仕事は、子供たちにパパの死を告げることだった。
彼女たちにとって、一生忘れられないことになるかもしれない日。
 
ただ、ベルギーで先に目にしていたほかの子供たちの反応に・・私はある意味での安堵を覚えていた。
ジルは友人も多く、その子供たちもジルに懐いていたのだが、彼らの反応が実にさまざまで、そしてどれも誠実だったからだ。ある子供はショックを受けてベッドから出られなかった。ある子供は気丈なまま、一連の葬儀に自分の意思で参列し、すべてに立ち会った。ある子供は「こんなのひどすぎる」というメッセージと共に、私を慰める絵を描きあげ、両親に渡してくれと頼み留守番をすることを選んだ。
 
年齢が一桁の子どもたち。
先に、いくつかの真心を見せてもらっていた気がした。
 
 
4月の上旬。帰国してすぐ、子供たちのいる北九州の実家に飛んだ。
 
私の両親はというと、私と義理の息子に突如襲い掛かった重い事件、そして突然託された小さな子ども2人の面倒、そしてまだ告げていないその裏にある重い事実・・二つの間をなんども往復したようで、憔悴させてしまったと思う。
 
仕事が忙しかったはずの、ママ(私)が自分たちを迎えに来た。
そう思っていた子供たち2人に、いつもの憩いの場、テレビのあるリビングルームで着いたその日に、切り出した。
 
「あのね、ママじつはベルギーに行ってたんだよ。ふだん、ママは絶対にウソはいけないよと言っているよね。でも今回、2人にウソを言っていたからそれだけはごめんね。じつは、パパが死んでしまってお葬式に行っていたんだ。」
 
続けて、考えに考えた末に用意していた説明をした。
すべてを明かすのとは違うが、嘘にはならない形で。
 
「パパ、ベルギーで地下鉄にのってたんだけど、その地下鉄がとつぜん、事故で止まってね。そのとき、パパはバーン!!って倒れちゃって、それで死んでしまったんだよ。」
 
テロという物事は、まだ説明がつかないと思ったので、言わなかった。爆発という言葉も避けた。人の生死が何を意味するのかは分かっていても、感情で人が動くことは知っていても、無差別に人を狙う「テロ」というもののコンセプトは、まだ説明が難しいと判断したからだ。
(考えてみれば、説明がつかなくて当たり前だ。もう人間ではなくなった人たちがすることなのだから。)
偶然性を伴った事故は事故、であることから、こう説明するしかなかった。
 
「だからパパからのスカイプ、ずっとなかったでしょ。突然だったから言えてなくてごめんね。夏休みになったら、こんどは2人を連れて行くから、そのときパパのお葬式、スモワ川の近くでもう一回するからね。」
 
5歳の長女は、両方の瞳からツーっと涙を流した。そしてこう言った。
 
「この話は悲しすぎる。分かった。だから私はもう、さっきの続きのDVDを見る。」
 
そう言って黒いリモコンを手に取り、濡れた瞳をさっきまで見ていたテレビに戻した。
両親がレンタルしてくれていたディズニーの「リトルマーメイド」が再開した。
私はそれを、冷たい反応だとはまったく思わなかった。
どうしようもない事実を前に、彼女なりに瞬間的な切り替えを試みたのだ。
 
4歳になったばかりだった次女は、言葉は発さず、ただただ大きく見開いた目で、私の姿そのものを全身全霊で凝視しているようだった。
パパが死んだ。そのことよりも、ママである私に重大なことが起こった。そのことを、持てる力のすべてで感じ取ろうとしているようだった。
 
この日も外はそぼ降る雨。
葬儀の時と同じような天気に、ジルがここにも私と一緒に来ており、心配でたまらないからこの決定的瞬間をに付き添っているのではないか。そんな気がした。
風も強かったのだが、時おり窓が原因不明にカタカタ、カタカタ、と音を立てていた。
 
 
ただ、私は一番重要なことを伝えるのを忘れなかった。
「でもパパは2人のことをこれからもずっと見ているから。いつでもそばにいるから。
姿が見えなくなっただけなんだよ。ぜーったいに、いるから!」
 
 
その日の晩御飯。2人ともしっかりと食べた。
その日の夜。2人ともしっかりと寝た。
 
翌日の夕方。
娘たち、私と私の母とで公園へと出かけた。
ジルにとってはこれでいいのか分からない。そう思うほどに、2人はいつもと変わりがなかった。いつものように、元気にシーソーや滑り台で遊んでいた。
 
その公園からの帰り道、たまたま足がつまずきそうな場所を見つけたた。
「おっと、ここ危ないね。パパだったら、アットンション!(フランス語でattention )って言いそうだね。」と不意に口から出て来た。
すると長女が、ハッと何かを思い出したような顔をして、私を見上げた。
 
「きのう、パパが来たんだよ。」
 
私と母は驚いて「あら、パパ夢に出てきたの?」と聞くと、長女は「ちがうよ、来たんだよ。だって私、パパのウワワ〜イ!(ジルがよく2人をふざけて驚かせていた時の声)で、おこされたんだよ。」と言う。
 
あくまでも起こされたのだ、と主張する長女が、目にしたものを説明してくれた。
 
それは金色の輪っかのようなものの中に、あぐらをかいて座っているジルだったそうだ。
ニコニコしていたそうだ。
そして、「金色の船に乗ってきたよ」とひと言、告げたそうだ。
 
 
感動というと薄っぺらすぎる。衝撃、ともちがう。信じるか信じないか、などでもない。
長女が作り話をしているのではないことは、いつもの保育園で起こったことを説明してくれている時と何ら変わらない、その姿からわかる。
 
ジル、すごく頑張って、やって来たんだな。
 
2人共は起こせなかったけど、長女の方に代表してやって来た。
あちらの世界からこちらの世界へって相当大変だったんじゃないか。
神様のご厚意を得て、金色の船、調達してもらったのか。
 
 
そしてその翌日。
私はパソコンに向かって写真整理をしていた。
私をテロ犠牲者の家族であることを発見した、在ベルギーの読売新聞社方から取材を受けることになっていた。それに伴って提供する写真を探していたのだと思う。
 
そこへふいに次女がやってきて、私の膝の上にチョコン、と乗った。
そしてパソコンの写真ライブラリーの中に入っていた一連の家族写真に目をやった。
その時、彼女の感情がずずずぅっと動くのを感じた。
というのも、私の膝のうえの体重がじんわりと、重くなるのを確かに感じ取ったのだ。
 
そして「パパの写真・・たくさんあって、よかったね。」とひと言、放った。
 
4歳の子に、こんなしみじみとしたことを言われるとは思っていなかった。何か年齢不相応な、大きめの視点でコメントをすることがある不思議な子ではあったけれども。
それと同時に、人の感情がどんな風に身体の中を動いて行くのかを感じ取った、この時の膝の上の感覚は忘れられない。
 
 
こうしてふたりともがパパの死を、彼女たちなりに受け入れるひととき・・”儀式”は終わった。
 
そして、私は2人にお願いをした。
絶対に、2人にパパが実際にいた時のことを忘れて欲しくないと。大きくなったときに「パパが死んだ時、私小さかったからあんまり覚えていなくて」なんて、寂しいことは絶対に言って欲しくないのだ。
酷かもしれないが、「今覚えていることのすべては、忘れないようにして。だってパパとの新しい思い出はできないわけだからね・・」 それだけは、以来くどい程に言い聞かせている。
 
でも、彼女たちはそれを素直に受け入れ、5年たった今もそこに意義を唱えることはない。
 
 
ところで宮部みゆきの「悲嘆の門」の中に、こんな一節がある。常人には見えないものが見えるようになった主人公が、5歳のみなしごの周囲に、キラキラの黄金色の美しい光が取り巻いているのを見る。その子のママは、彼女を一番大事に思いながらも不本意に亡くなってしまった。でもそんなママの美しい愛情のエネルギーが、言葉なくともその子の周囲を取り巻いて守っている・・ということを示す一幕だった。
 
私はそんな、金色のエネルギーの存在を信じる。
 
 
変な言い方になるし、正しくもないかもしれないが、死についての意味を受け止めるのに、4歳や5歳は、“一番いい年齢”だったのではないかと思う。
 
小さな子どもは”積もった”過去を振り返って必要以上に憂うこともないし、”見えない”未来を心配しすぎる気持ちもない。まさに「今を生きる」。それこそが、子どもなのだとも知った。
 
そんなこどもの力に、私はまず大きく支えられることとなった。
 
 
元気を増した私は、「心が落ち着くまでは休んでいてもいいから」と言ってくれていた会社に「来週にも復帰します」と電話をかけた。子どもたちの遊び声が響く、実家の裏庭から。
 
 
この年の夏。
ジルもよく送り迎えをしてくれていた、子どもたちの通っていた音楽教室の発表会があった。
長女は打楽器コースだったのだが、その年はマリンバの演奏を。
選曲は「リトルマーメイド」の「パート・オブ・ユア・ワールド」だった。
 
「リトルマーメイド」といえば、長女があの時、DVDを再開した映画。
ディズニー版は、原作の悲しい「人魚姫」よりも、父親が何とかして娘を見守ろう、サポートする姿に大きなストーリーが割かれている。
 
 
発表会当日は、我々夫婦と仲良くしてくれていたママ友が、私の代わりに舞台袖で長女の送り出しをして見守ってくれていた。(次女も出場するので、ひとり親では2人分の付き添いがタイミング的に難しかったため)
 
すると、演奏が終わるころ、気がつくとその友人が舞台袖で泣いていた。
「ジルが見にきてる・・。絶対感じた。」とのことだった。
 
 
ジルの死を2人に告げたあのとき。
 
以来、あの晩ほど明確に、ジルが私たちのうちの誰かに姿を見せてくれたことはない。
普段は小さなサインだけで、見えない彼の存在を、全身全霊で見逃さないようにしているだけだ。
 
父親の不在による悲嘆をまったくと言っていいほど感じさせない、今日までの2人の姿に、私は説明しがたい安堵を覚えている。もちろん、時々、寂しいと思わないことはないけれども。
 
きっとこの世ではなくて、あの世からでしか出来ないこともある。
 うまく連携できているかどうかは謎だが、私たちはふたつのパラレルワールドで、彼女たちをこれからも見守って行くのだろう。
 

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もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉛

 

 

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 向かって左がジル、そして右が映画のカメラマン、ローラン・フェナール (Lanrent Fenart)。

彼は仏セザール賞を受賞したこともあるそう。ジルの希望が叶ったキャスティングだった。

撮影の前後は東京の我が家にも泊まっていたけど、我々と同じ年頃の気さくな人だった。



本日は時系列のお話はお休み。

Vol. 31  Remember, Reconnect, and Resilience

 〜リメンバー、リコネクト、そしてレジリエンス

 

 

 

この震災から10周年、ジルの死から5年という節目に当たって。

そして今、こんな世界的に共通の混乱の中にあって。

 

一個人として私は「どんなテーマを共有したいのかな」としばらく考えていた。

 

そしてとりあえず日々の中でできることとして、自分でこのブログ・マラソンを書くことと、映画のオンライン公開をお願いすることにした。

その途中で、これを伝えたいのかな・・と思う自分なりの”掛け声”が見つかった。

 

それはこんな”3R”。

Remember, Reconnect, and Resilience

リメンバー(思い出して)、リコネクト(もう一回つながって)、レジリエンス(回復力)を身につける、ということ。

 

"レジリエンス"という言葉を私があらためて知ったのは、やはり旦那さんを若くして亡くしたフェイスブックのCOOシェリル・サンドバーグ(今調べてみたら、同い年だった)の書いた「オプションB」という本の中でだった。

 

レジリエンスとは、日本語でははっきりとした訳がなくて回りくどくなるようなのだが、

「跳ね返り、弾力、回復力、復元力」などという意味。

何かに耐えたあとに、ポジティブさを取り戻して生き抜いていける力、ということか。

 

天災、テロ、そしてコロナ。

 

いろいろなことが次々と起こるこの世界だけれども。

こうした特異なきっかけだけでなくとも、大事な家族や友人の生と死に遭うことは、どんな方も経験する辛い出来事で、それを経験しない人はいない。身近な困難について聞くことで、心揺さぶられたあと、逆に私も助けられることがある。

 

今回もこうして一緒に思い出してくださる方々がいて(remember)、

少しのやりとりで再び繋がることができて(reconnect)、

ひと時のお喋りでもいいから連帯して、個別の、そして共通のいろんな困難にも耐えて、生き生きと前を向いていける力(resilience)を一緒に付けていくことが出来たらなぁ、と思う。

 

 

今、映画をオンライン無料公開していて、少しずつ感想が届き始めているところだが、「人と人が会って喋っているときに、やっぱり人は目が輝いていますね」というのがあった。

普通のことだけれども、それは特に今のような時代、心に響く真実だなと思った。

いつかマスクなしで思う存分、おしゃべりできたらと思うけれども、それ以外でも、サラッと風が吹くように少しのやりとりが出来るだけでも救われる。

 

 

いつも読んでくださって、ありがとうございます!

 

今日はこの映画の展示会で締めくくります。

独りのシーンもいいけど、会話のシーンも、やっぱりいい。

(一番下に映画のリンクも再び、貼っておきます。まだの方はよかったら是非、ご覧ください。)

 

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<オンライン無料上映中>
2021年3月11日〜22日。(何時でも見られます)
 
●日本版 映画「残されし大地」 リンクはこちら↓
●ベルギー版(英語字幕付き)"The Abandonned Land" リンクはこちら↓