もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㊲
Vol. 37 犬のおーちゃん 〜後編〜
㊱のお話の続きです。
おーちゃんを預かるうちに、この小型犬の魅力にハマった義両親は・・「
そして「
これにはジルも仰天していた。
おーちゃんを元々くれた友人に聞いてみると、たまたま甥っ子にあたる仔犬が、ちょうど2011年の7月に生まれたタイミ
その子の名前は、タオ。
ちょうど我々は2011年の12月に一時帰国する予定があったため、その時点で生後五ヶ月のタオを日本からピックアップし、
チワワの場合、小さいのでおとなしい子であれば座席にもそのまま連れて入れる(!)。タオはソフトバッグの中に入り、日本からの12時間もの長い機中、私の手もとにいた。
ずっとずっと、存在感を隠しているかのように静かだった。
トイレシーツをバッグの中に敷いていたにもかかわらず、
無事にベルギーに着いたタオ。
広島に生まれ、東京で幼少期を過ごし、おーちゃんの後を追うようにベルギーの南部、ブイヨンまではるばるやってきて、
おーちゃんは相変わらず基本的には私たちの犬ではあったのだが、
ジルは「うちの一家が、チワワでこんなに盛り上がるなんてね・・。思っても見なかった新しい風、吹かせたね君は」と苦笑いをしていた。
まさにチワワ革命。
ジルのような若い男性どころか、落ち着いた風貌の老齢のビジネスマン(ジルのお父さん)が、
しかしそのうち、難しい選択に迫られることになる。我々の2013年夏の本帰国だ。
とりあえず、のつもりでいつかはまた迎えにいけたらと思ってはいた。
こう言うと猫には失礼だし真偽のほどは確かではないが、一説には「
おーちゃんのことは、離れてからも心の片隅にあった。
それでもやはり、
だがそれでも大丈夫なくらい、
けれどもそのおーちゃん、ついに私の手元には戻らないまま、
ジルがテロで亡くなってしまったとき、
そんなことを考えて続けているうちに、「いつか」は2度とやってこなかった。
私のせいでやはり移動が激しく、
でも救いになるのは、今は天国ではジルと一緒だねということ。
"Mon gros !"と呼びかけられて、ニコニコと尻尾を振っているはずだ。
(フランス語では、可愛がっている対象に、
そして、誰かや何かが亡くなった時は、さみしいけれども「あちら(天国)チーム」で楽しく再会を喜んでくれているかな、と思えることがひとつの救いになるように思う。
おーちゃんをものすごく可愛がってくれていたお義母さんも、実は一昨年の12月に亡くなった。けれども今、虹の向こうのチームは2人と1匹。そう考えたときに、心が少しホッとするのだ。
ところで同時に、こちらの世界では、ますます大きくなる娘たちが犬を飼いたいと言い始めてもいた。生まれた時からそばに犬がいた二人にとっては、刷り込み効果でそもそも犬は一番大好きな動物だ。
そもそも幼いころからもそうは言ってはいたのだが、おーちゃんのことも気にかかっていた私は、「じゃあ自分で散歩もできて、世話も自分たちで一通りできるようになったら考えようね」
「何年生から?」
「4年生くらいかなー。」
「じゃあ、3年生のうちの、1月からっていうのはどう?」などと、長女はしばしば細かく交渉を挑んで来ていた(笑)。
そして2020年の2月ごろ。「犬が欲しい欲しいコール」は抑えがたく高まっていた。
次の4月になれば長女は4年生、そして次女は3年生というタイミングでもあった。
でも、おーちゃんは許してくれるだろうか。私が最後にヨシヨシすることも叶わず、天国に行かせてしまったのに。
そんなある日、近所のバス停から不意に空を見上げた時、本当に不思議なくらいにおーちゃんの形をした大きな雲を見た。耳もあって、しっぽも見えて、ライオンみたいに寝そべる形。口元がニコニコと笑っている。
そのとき、「あ、おーちゃんがいいよと言っている・・」と直感的に思った。
その日のうちに、思い切って昔おーちゃんをくれた(そしてタオもくれた)友人に電話をすると、何とその2週間ほど前におーちゃんの妹の孫(ややこしいが、タオの甥っ子にも当たる)が二匹、生まれているではないか。
おーちゃんへの悔恨の念も包み隠さず伝えながら、その上で「ぜひください」とお願いをした。
生後二ヶ月余りが過ぎた頃、その子は我が家へやって来た。
4月はまだ緊急事態宣言中ではあったが、
長女が考えた名前、「ソラ(SOLA)」をつけた。
私が空を見上げた時に・・という話をしたのもあるが、ソラのお母さん(
おーちゃんの魂は、ソラの中にも入っているのだろうか。
もしかしたら生まれ変わりの形をとって、また私と私の家族を助けに来てくれたのかもしれないな、とも思う。
もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㊱
Vol. 36 犬のおーちゃん 〜前編〜
今日は”スピンオフ”のお話。
私がジルと出会うより前の2008年から飼っていて、
「日本でならいいけど・・。
夫婦別姓も同性婚も。なにもかもが日本より進んでいるように思えるヨーロッパで、犬種ごとの“
そう言いながらも、とりあえず優しく責任感も強いジルは、結婚前に日本に来てくれたときには、
「今日はスーパーの前で結構長い時間待たせてたけど、
私が出産をしたのち約1か月の間、
チワワのおーちゃんは、
飼い始めてみると、犬特有のその素直に感情表現をしてくれるさまに感動し、当時いくつかの恋愛経験に疲れていた私にとっては、「こんど付き合うならちゃんと犬みたいに真っ直ぐに向かってくれる人がいいな」と思わしめるほどだった。
それがその後のジルとの出会いや付き合いに、影響しなかったとは言えないかもしれない。
一説によると、
そしてこのおーちゃんは、とりわけ性質がよかった。
常に穏やかで不満なく、ニコニコしているイメージ。(これも一説によると、
当時私が住んでいた世田谷区のマンションの近くには、
そしてとても印象に残っているのが、2009年10月。
「悲しみは半分に、喜びは2倍に。」
犬や猫を飼った経験のある方ならわかると思うが・・。
その子と自分の”間にしかない”思い出。シェアした感情などは、ペットといえども侮れず、結構、あるものだと思う。
育児休暇を使ってベルギーに行くときも、私のわがままでおーちゃんを連れていくことにした。
そして散歩が大好きなおーちゃんは、
「おーちゃんベルギーに来たら、土地の差を感じるかな? それとも変わりなく散歩するかな。いや、きっとお構いなく散歩するだろうね。」とジルが言っていたけれども、実際にその通りになった。
三度の飯より散歩好き。「O-CHAN, OSAMPO!」と言われるだけで、ジルの顔を見上げて大喜びでいつも玄関に走っていった。
当のジルは「夜ならまぁ、まだ人目につかないかな」
私もしばしばベビーカー、抱っこ紐、そして犬のリードも持ちながら買い物などへ出かけた。
3つも”小さいもの”を抱えたものすごい状態で出かける
チビ勢ぞろいの、ブリュッセルの我が家だった。
だが以前のブログにも書いたように、遠くはメキシコ、近くてもジルのちょっとした出張でパリなど、しばらく不在にすることもあった。そんなときには、ブイヨンにいるジルの両親へ、おーちゃんを幾度となく預けた。
そして私は、このローラン家に”チワワ革命”をもたらしてしまうことになる。
「チワワ可愛いけど、マダムが散歩する犬だよね」と最初こそジルと同じように言っていたお義父さんだが、お義母さんともども、おーちゃん、ひいてはチワワの大ファンになってしまい・・。
<つづく>
もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉟
Vol. 35 「残されし大地」と名付けた理由
いろいろと資料整理をしていたら、これがポン、と出てきた。
不思議だ。ジルがこれ出していいよ、とメッセージしているのかもしれない。
前回のブログの冒頭写真にも使った、2016年9月末に群馬県高崎市で行われた「コミュニティシネマ会議 2016」で用意していたスピーチの原稿。
映画上映の前に登壇することになっていたため、その時に用意していた舞台挨拶だ。
ジルが亡くなってから初めて、この映画について公の場で喋る機会だったので、前日までに一生懸命、原稿を書き思いの丈を綴っている。
実際は原稿用紙は持たず、直前になって、その場で思うままに出てくる言葉だけで喋ってみようと決めて立ったので、部分的には幻の原稿。
けれども、当時の溢れ出る思いを詰め込んでいるので、その原稿を改めてここに出したい。
いろいろと偉そうなことを書いているが・・。実際はこの映画の上映の後、私は泣いてしまった。それもそうだ。初めてこの映画が、大きなスクリーンに映し出されるのを観たのだから。
(ネタバレになってしまうが)映画のラストシーンで、スゥーーっと音もなくフェイドアウトしていく映像に、この映画の完成をほぼ見届けながら、やがて命を亡くしていったジルとシンクロするものを感じて胸が潰されたのだった。
その後何度もお客さんと一緒に、スクリーンで見ることになるのだが、この記念すべき第一回目の上映で、劇場で。喜びと悲しみがどこからともなく押し寄せてきた、あの瞬間のことを私はずっと忘れない。
<舞台挨拶>
今日はお集まり頂きありがとうございます。
故人に代わって、心からお礼申し上げます。
まず今日は初の一般公開でもあるということで、日本語版のタイトルについてのご説明をさせてください。原題はLa Terre Abandonneでしばらく実は「見捨てられた大地」という仮タイトルが付いていました。アバンドンド・ハウス=空き家、つまりアバンドンドは人が居たけど、いなくなってしまった、くらいの意味ですが、見捨てられた、では嘆きが入ってしまいます。それでいて、なかなか他にそれに代わる強いタイトルを思いつきませんでした。
けれども、「そこには変わらず大地がある」という事実に気がつくと、「残された」「残っている」という言葉がぴったりなのではないかという感覚に至りました。翻って私には、ジル・ローランという人間がテロによって居なくなるという悲劇が起きたわけですが、私たちも「残されて」います。けれども生きている。生きていこうと思えば新たな道はあるし、地平線が用意されていて、そこには太陽が毎日ちゃんと登ってくるし、旅は続いていく。また、別の大きな愛を呼び起こしたり、新たな喜びや笑いも生まれてくる。
そう考えた時に、福島で被害にあった方たちの状況と、犠牲者家族の状況、というのはとても似ていたのです。私自身や子供達も“残されし”大地なのだと思います。取り去られても、残されて続いていくものがある。大げさに言うと、焼け野原からも新たな命が育っていくのと似ているかもしれません。そう考えると、全ての悲劇から人間というものは立ち直れる力があるんだ、新たな道を見つけられるんじゃないか、という確信があります。
福島で起きたこと、それからテロという災難の二つを通じて、夫がはっきりと教えてくれる希望を、映画がここで上映される、私がここに立つという事実に見ていただければと思います。
彼がこの映画の取材やロケハンを最初に始めたのは今から2年前のことでした。当時、まだJR富岡の駅は形としては残っていました。まさに駅もアバンダンド。人が居たけど居なくなっている。そこに縦横無尽に雑草が生えまくり、柱にツタが絡まりまくる様を、彼は映画にも登場する松村さんを据えながら写真を撮り持ち帰り、ある意味喜びにも満ちた表情で私に見せてくれました。それは、「こんな風になってしまって」という嘆きだけではなくて、「(これはこれで)美しい、と思わないか」と。変わらず命をつなぎ続け、むしろはびこるほどに勢いのある植物の力。実際に映画撮影が始まった時にはもうその自然が一部撤去されてしまったことを少し残念がっていたくらいです。現地の実情からすると、まずはいらないものを取り払って次へ行こう、ということなのでしょうが、彼は「命の輝きを感じるもの」ひいては「絵になるもの」をどこまでも追い求めようとする、そんな映画人としてのワガママも持っていたのだと思います。劇中に出てくる蜘蛛の巣などもそうで、人が居なくなったことを表すためだけではなくて、同時に、蜘蛛の巣自体が光を受けて輝き美しい、ということを心から愛してフィルムに残していることを感じます。
内容は福島のことですから、ヒューマニストだった夫には、もちろん理不尽さに対する怒りやメッセージもベースにはあります。けれども、そのメッセージと同じくらい、彼が大事にしたのが絵や音の美しさです。この部分はなかなかメディアだけでは伝わりにくいことで、メッセージ性と夫の亡くなった状況とを伝え切ることで、紙面や画面はいっぱいになってしまうわけですけれども、あえてこの舞台上では私が言いたいのは、この映画は彼の、“映画人としてのワガママ”もいっぱい詰まっているということです。決して正義やエコロジーを主張するためだけに、怒りだけを持ってこの映画を撮ったのではないのです。出会った頃に、I like nature and culture,ネイチャーとカルチャーが好きだ、と常々言っていましたが、自然と文化、って、人間にとって一番大事なもの二つだなあ、と思います。自然や文化への愛があり、小津安二郎など敬愛する先人たちへの愛があリます。彼は映画を見るたびに口すっぱく、シネマトグラフィーが、シネマトグラフィーが・・と盛んに言っていました。私もそんな英語あったんだ、とそれで覚えましたが、映画撮影方法、つまり映像美がどうか、というようなことだったんだと思います。ネイチャーとカルチャーが好き。そんなジルらしさを思い切り結びつけたのがこの映画だと思います。
私のあるベルギー在住の友人が、「福島のことだけでなく家族や自分の人生、自然、動物、共存、私たちのしていること・・たくさん考える機会をくれる映画だと思う」と言ってくれました。そんなひとくくりにはできないメッセージ性とともに、ジルの映画人としてのワガママ、映画という文化への愛情を、一緒に味わっていただければと思います。
もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉞
Vo. 34 映画という名前のお神輿 〜その2
㉝のお話の続きです。
「どうもどうも、奥山と申します」という自己紹介のあと、奥山さんはしばらく喋り続けた。
私は子供たちを寝かせたその日の夜9時、早速緊張しながら電話をかけてみたのだった。
「今朝ね、亡くなった母の遺品整理もあって、実家にいたんです。
「そしたら、何かいい映像が流れてるなぁって。
NHKおはよう日本の中で紹介されたのは、
そして、この日の電話の主眼は、10月に予定している京都国際映画祭でぜひ上映してはどうかという話だった。
後から聞いたところによると、様々な場所に知人がいて行動も素早い奥山さんだから、この日も放送を見た後すぐ、NHKにいる仕事仲間、何人かに電話をしたらしい。けれどもたまたま通じなかったせいもあり、何と最終的に「お客様窓口」に電話をし、その熱意を告げてくれていたのだった(!)
それを窓口から伝えられた、件の鴨志田さんが、私に電話をくれたというわけだ。
奥山さんが松竹で活躍して取締役に登りつめたのち、解任されたまでのエピソードはつとに有名だ。その時代のヒット作としては「ハチ公物語」、
そして、あの”世界の北野武”と言う映画監督世に送り出したのも奥山さんだ。
その流れで、吉本興業が主催する京都国際映画祭のプロデューサーに。そんなわけでこの映画祭は端的に言ってしまえば、奥山さんの一言で上映作品を決めることができるフィールドだった。
何かすごいことが起きたなぁ、と思った。
とはいえこれは、言わばすれ違っただけで一目ぼれして頂いた状態に近いものがあり、申し訳なさすぎる。とりあえず、映画全体を見て頂かないとご判断をしていただければと言い、そのあとにショートメールでこの映画を視聴できるリンク、そして私のブログのURLをお伝えした。
早速数日のうちには銀座のペニンシュラホテルの最上階にある、
わぁ、ここが時々テレビで見る「外国人記者クラブ」か。カフェの壁には様々な要人のモノクロ写真が並んでいた。
全編を見てくださったあと、心変わりがなければいいな、
その際、映画祭はも嬉しいけれども、是非なんとか劇場公開をしたいのだという話もした。すると、配給会社の「太秦」というところがあってね、
太秦(うずまさ)・・。その名前はなんと、その少し前にドキュメンタリー映画祭のディレクターを請け負っている方に
そんな矢先にリストの3つ目は、”向こうからこちらに歩いてきてくれた”。そんな感じがした。
2回目に奥山さんと打ち合わせをする日。
その日は太秦の代表、
その時不思議なことに、1匹のてんとう虫が私の膝にじぃっとくっついて来ていた。
表参道の植え込みの中から、弾みでこちらに乗り移ってしまったのか?
二つ星だった。黒い体にオレンジ色の、星二つ。
タクシーがヒカリエの前に停まって私が車から身を出す時に、同時にさっと飛び立っていった。
この時を置いてほかに、東京の街中で、てんとう虫に寄り添ってもらったことはない。
実はNHKの放送のあと、もうひとつの場所から連絡をもらっていた。
それは全国のミニシアターで構成される「全国コミュニティシネマ会議」という団体の事務局からだった。(いまは、ミニシアターというよりも、コミュニティシネマ、という呼称が一般的らしい。)
もうすぐその会合が高崎で行われる予定で、
その話のことも切り出すと、太秦の小林さんは、「あ、それは絶対受けたほうがいいですよ。後々に売り込むことになる、コミュニティシネマの方に、先にこの映画の存在を知ってもらえますからね」と。
こうしてメガな視点を持ったプロデューサーと、コミュニティシネマ系に広くパイプを持つ配給会社との、ありがたすぎると三角形のタッグが生まれた。願ってもない形になったのだった。
この顛末をドキュメンタリー映画の監督経験のある知人に報告をした所、「理想的ですよ。頑張って!」と言ってもらえた。
映画という名の御神輿に乗せてもらう。それは本当に、
このあとその京都国際映画祭などを経て、翌年の3月劇場公開に向けての、
のちに私は奥山さんと同席して、いろいろな新聞社や雑誌からインタビューを受ける機会も頂いたのだが、そんな時に奥山さんが改めておっしゃっていたことで、印象的なことがある。
「もちろん、ジルさんが生きて元気でいらっしゃった方がいいのだろうけれども・・。この映画には、その直後に亡くなってしまったからこそというか、その直前の”濃い生の力”のようなものが、却ってぎゅっと凝縮されているような感じを受けますね。」と。
活動的かつ飄々としているようで、常人にはない鋭敏な感覚を持っている奥山さんならではの、真実をついたコメントだなと思った。
★3月22日まで、映画「残されし大地」オンライン無料上映中!★
日本版 https://vimeo.com/521260129
ベルギー版(英語字幕付き) https://vimeo.com/519469354
もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉝
Vol. 33 映画という名の御神輿 〜その1
それはまるで、”火事場の馬鹿力”と言われるものだったと思う。
ジルはテロで亡くなった。でも、映画を残して亡くなった。
実はベルギーでの葬儀中に、ジルの実家であるホテルに、
正直、その瞬間には「どこから私を見つけたんだろう。
ブイヨンからブリュッセルに戻って1泊し、
思いがけずこのときのインタビューの中で、呆然としながらも、ぽつぽつと喋った自分自身の打ち明け話の中に。その後の私がやるべきことが最初に明らかになったのだった。
ジルはどんな人で・・どんないきさつで・・
その瞬間、私の中で小さな雷が落ちるように閃いた。
映画をなんとか、日本に紹介する! そのための活動を私はしていくべきなんじゃないか、と。急に体の中を血が駆け巡り始めるような気がした。
ベルギー資本で製作した映画だから、完成しさえすれば、
そう決めたとき、私は「やることがある」
この時から、この映画という名前の”お神輿”に乗せてもらうことになった。
そうしてこの一番傷ついた状態の時間を、あらゆる人々との奇跡的な出会いを通して数年に渡り、大いに癒されることになるのだった。
けれどもこの初期の頃、何か理想があったわけではない。正直、
今思うと私はただ、動いていたかったのだと思う。
まさにそこは私にとっては火事場であり、ここから動き出して、
何とかなるはずなんだから! 使命のようにそう思った。
周囲で映画の仕事と関連のありそうな人に、
そして、テロに関する取材も来るものは全て受けよう、
そして転機となったのが、NHKの取材だった。
当時、ブリュッセル支局にいた長尾かおり記者(のちにニュースチェック11のキャスターもされていたので、
放送内容の核をなした、当時住んでいた東京都杉並区でのインタビュー。それに関しては、ベルギー在住の長尾さんが直接行うのは難しいので、長尾さんの信頼する先輩、東京本社の鴨志田郷さんが請け負ってくださった。
この時の、テレビカメラの前でのインタビュー収録については、とてもよく覚えている。
実際は放送されたものより、ずっとずっと長かったと思う。
鴨志田さん、ひいてはNHKとして導き出したい結論は、「
だが実は、私はしばらくは何を質問されても、「それはどうしてもこの状況で、こう動かないと私がダメになりそうだったから」というような、”火事場の馬鹿力理論”を、要領を得ず繰り返し語っていたように思う。でも、そんなポエティックなことではダメなのだ。いや、ダメなわけではないけれども、それでは凝縮されたニュース番組の中では伝わらないものだ。
求められている結論に気づき、私の口からそれを発信しなくてはなら
でも、それは誘導尋問だったわけではない。そして、そこに気づいた自分に対してあざといとも思わなかった。今から思うと、後々に思考が整理された後の”未来の私”が答えたものだった、ということで良いのだと思う。
(そして後から知ることになるのだが、長尾さん、鴨志田さんともに、様々な場所でテロやそのほかの報道をする中に、これは是非とも伝えたいという個人的な思いもあったことを後々私も知ることになるの。長くなるので、それはまた別の機会に。)
とにかくも、この時の放送が状況を打破するきっかけになるのだった。
配給について色々と調べてみても、そのハードルは非常に高いことをすでに知っていた。
いい映画だから、監督がこんな目に遭ったからなどということだけで、するっと公開につながるほど映画業界は甘くない。日々、作られ続ける多数の映画がしのぎを削って、配給会社や映画館の枠をキープしようとしているという現状に私は次第に気がつき始め、見えない壁にぶつかり始めたような気がしていた。
NHKではもともと放送後に、視聴者の方からなにか映画に関する問い合わせがあれば、
そしてその運命の放送日を迎えた。
放送は朝の7時台だったが、昼頃に早速、鴨志田さんから、ちょっと興奮気味に電話が入った。
「映画プロデューサーの奥山さん・・て方が。ぜひこの映画をなんとかしたいいう話があったようなんです。近く、京都の映画祭があってそこに出したいとかって・・ということは、あの奥山さんなんじゃないかと思うんですが、お電話が欲しいみたいなので、今日のうちにぜひ、折り返してみてください。」そう言って、連絡先を教えてくれた。
鴨志田さんの話の中に入っていたのか、私の頭の中の拙いウイキペディアからだったか。
それは忘れたけれども”北野武”とか”よしもと”とか、関連するいくつかのワードが私の頭の中を駆け巡った。
奥山さんって・・えぇ!?
<つづく>
★3月22日まで、オンライン無料上映中!★
日本版 https://vimeo.com/521260129
ベルギー版(英語字幕付き) https://vimeo.com/519469354
もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉜
Vol. 32 金色のエネルギー
㉙の話の続きです。
--
もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ㉛
本日は時系列のお話はお休み。
Vol. 31 Remember, Reconnect, and Resilience
〜リメンバー、リコネクト、そしてレジリエンス〜
この震災から10周年、ジルの死から5年という節目に当たって。
そして今、こんな世界的に共通の混乱の中にあって。
一個人として私は「どんなテーマを共有したいのかな」としばらく考えていた。
そしてとりあえず日々の中でできることとして、自分でこのブログ・マラソンを書くことと、映画のオンライン公開をお願いすることにした。
その途中で、これを伝えたいのかな・・と思う自分なりの”掛け声”が見つかった。
それはこんな”3R”。
Remember, Reconnect, and Resilience
リメンバー(思い出して)、リコネクト(もう一回つながって)、レジリエンス(回復力)を身につける、ということ。
"レジリエンス"という言葉を私があらためて知ったのは、やはり旦那さんを若くして亡くしたフェイスブックのCOOシェリル・サンドバーグ(今調べてみたら、同い年だった)の書いた「オプションB」という本の中でだった。
レジリエンスとは、日本語でははっきりとした訳がなくて回りくどくなるようなのだが、
「跳ね返り、弾力、回復力、復元力」などという意味。
何かに耐えたあとに、ポジティブさを取り戻して生き抜いていける力、ということか。
天災、テロ、そしてコロナ。
いろいろなことが次々と起こるこの世界だけれども。
こうした特異なきっかけだけでなくとも、大事な家族や友人の生と死に遭うことは、どんな方も経験する辛い出来事で、それを経験しない人はいない。身近な困難について聞くことで、心揺さぶられたあと、逆に私も助けられることがある。
今回もこうして一緒に思い出してくださる方々がいて(remember)、
少しのやりとりで再び繋がることができて(reconnect)、
ひと時のお喋りでもいいから連帯して、個別の、そして共通のいろんな困難にも耐えて、生き生きと前を向いていける力(resilience)を一緒に付けていくことが出来たらなぁ、と思う。
今、映画をオンライン無料公開していて、少しずつ感想が届き始めているところだが、「人と人が会って喋っているときに、やっぱり人は目が輝いていますね」というのがあった。
普通のことだけれども、それは特に今のような時代、心に響く真実だなと思った。
いつかマスクなしで思う存分、おしゃべりできたらと思うけれども、それ以外でも、サラッと風が吹くように少しのやりとりが出来るだけでも救われる。
いつも読んでくださって、ありがとうございます!
今日はこの映画の展示会で締めくくります。
独りのシーンもいいけど、会話のシーンも、やっぱりいい。
(一番下に映画のリンクも再び、貼っておきます。まだの方はよかったら是非、ご覧ください。)