故ジル・ローランを偲んで

A blog to remember Gilles Laurent, who died in Brussels Attack in the middle of making his film about Fukushima / this blog is organized by his wife Reiko Udo

もうすぐ10年。そしてもうすぐ、5年。 ⑫

f:id:Gillesfilm:20210222200747j:plain

2010年9月、生後3ヶ月の長女。ベルリンにて。

 

Vol.12 ベルリンに天使はいたか

 

さて、⑩のお話の続きです。

 

2010年の6月に長女が生まれたのち、私たちの住まいは、実にめまぐるしく変わって行った。0歳の時に、こんなに引越しを重ねた子どもはいないんじゃないかと思う。出会いから結婚、出産までも相当バタバタだったが、その後もかなりの慌ただしさだった。

一説には、「子どもは生まれてから7歳くらいまでは、同じ場所で育った方が良い」とか。生命が土地に根付くということ? その真偽のほどはわからないけれども、我々は、まるでその真逆を行く移動っぷりだった。

 

赤ん坊が生まれる前からその段取りは決めていたことではあったものの、2010年の6月から11月までの足取りは、それはそれは移動づくし。

 

まず、産後に退院をしてから戻ったのは、私が独身時から住んでいた世田谷のマンション。赤ん坊が来てから最初の1ヶ月はジルも仕事を休んで一緒に居てくれた。ジルはこのマンションで、いわゆる料理なども含めた”産後のお手伝い”をやってくれていた。その後、彼は一足先に次の仕事先へと向かうため帰国。

 

その後、ジルと入れ替わりに私の母が来てくれていたのだが、「育休はベルギーで」と決めていたことからマンションを引き払い(なんと引越しです)、2週間ほどののちに母、私、新生児は実家のある福岡県北九州市へ移り、渡欧するまでの8月は実家で待機状態。(ただ、両親の元だったので、一緒くたに世話をしてもらう感じで、ぬくぬくしていた。)

 

9月になり、ジルが先に仕事で入っていたドイツへはベルリンで合流することに。赤ん坊を抱えて東京経由で、ルフトハンザ航空でベルリンへ飛んだ。まだ首のすわらない子を連れてのフライトはかなり緊張したものだ。泣いたらどうしよう、落っことしたらどうしよう・・。でも、客室乗務員たちが「彼女はいい子ね、強いわね!」と言ってくれて、とても親切だったのを思い出す。

 

その後、10月になりいよいよジルの国、ベルギーのブリュッセルへと入るのだが、それまでのほぼ丸々1ヶ月、2010年の9月をベルリンで過ごしたのだった。

 

今回はそのベルリン滞在中のお話。

 

(それにしても、生まれて半年もの間に、4箇所も5箇所も移動を続けている長女は何もわかっていなかったとはいえ、何処へでもニコニコと移動しており、なかなかタフな赤ん坊だったなぁ、と今更ながら思う。)

 

ベルリンはたった1ヶ月ほどの滞在だったけれども、改めてまた「ヨーロッパで暮らす」ということの入り口になった場所であり、印象深い。

f:id:Gillesfilm:20210222200736j:plain

2010年9月のベルリン。ランドマークのテレビ塔が見える。

 

ジルはとある映画のスタッフとして現地に入っていた。

 

30歳くらいから映画のサウンドエンジニアとして働いていた彼。それまで手がけた映画は、パッと題名を聞いてもなかなかわからないものが多かった。ヨーロッパでは知られていても、こちら日本には入って来ていないなど・・。けれども、この時受けた仕事は、おそらくジルの仕事史上では一番「メジャー」で”豪華”なものだったかもしれない。イザベラ・ロッセリーニキアラ・マストロヤンニなど、私たちが少なからず耳にすることのある俳優も出ており、日本でもその後、2012年に公開されている。映画のタイトルは「チキンとプラム あるバイオリン弾き、最後の夢」というもの。

 

その時初めて知ったのだが、ベルリンにはアメリカのハリウッド的な大作用の、倉庫型の大型スタジオがあるのだった。そして全ての出演者やスタッフがヨーロッパ中から集まっており、皆がその撮影期間中、アパートを与えられており、スタジオと仮住まいを行き来するのだ。(ホテルよりは割安になるからかな?)

 

ジルにあてがわれていたのも、いわゆる”マンスリーマンション”のようなものだったのだが、家族が来るということを見込んでくれていたのか、その間取りが2LDKほどでとても快適だった。ところがジルによると、「監督のアパートはもっと広くて、一度遊びに行ったけどほんとすごいんだから。逆にアシスタント職の子のアパートは、ここよりも狭い。」などといっていたので、役職に応じてアパートにも”クラス”があったのだろう。

 

全ての撮影が終了した後、撮影スタジオに一度見学でお邪魔したけれども、この映画が”時代劇”なだけあって(1950年代のテヘランを舞台にしている)、朝ドラよろしく、あらゆるシーンを再現した美術作品が立ち並んでいた。店もあれば橋もあり、看板も全て本格的。「これが”セット”というやつなのか!」とえらく感動したものだ。

 

ところでその住まいとなったアパートの近くにはカフェやビオショップがあり、よく抱っこ紐で買い物や散歩に出かけた。また、数回は現地在住の知り合いに会いに行くこともあった。

今写真を見ても、9月とはいえまだ夏っぽい季節。光が満ち溢れている。

f:id:Gillesfilm:20210222200752j:plain

 

f:id:Gillesfilm:20210222200802j:plain

 

ただ、ここでほんの1日だったが、いわゆる「産後うつ」を経験したのだ。

 

日中はジルは仕事で留守にするため、私は基本的に赤ん坊とともにずっと過ごす。時間の使い方としては、赤ん坊の世話をしながら夕飯の買い出しに行くか、散歩をするか、テレビを見るか・・になるわけだが、ここへ来てから1週間ほど経ったある日だったか。

赤ん坊をエルゴーの中に入れて、さぁでかけよう、としたところなぜか大泣きを始めた。それまでだって大泣きすることはあったはずなのに、たまたま出かける瞬間だったせいか。その勢いに気圧され、足止めされ、どうしたらいいかわからなくなった。赤ん坊を元の場所に戻し、私もおいおい泣いてしまい、なぜか出かけられなくなった。

 

そして帰って来たジルに泣きついた。

急に泣き出すから出かけられなかったんだよ、なんか気分がくじけちゃって、今日は1日家にいた、などとワァワァ言っていた私に、ジルは私を甘やかさず、あくまで冷静だった。

 

「あのね。そういうときは篭らずに、とにかく出るんだよ! そして周りの人を見るんだよ。観察するだけでいいんだから。Go out and just see other people! 」と。

 

それ以来、考えがぐるぐるしてしまう、下手すると引きこもってしまいそうになるときはいかに「外へ出るか」が良いことなのか、わかる様になった。別に交流なんかしなくても良く、ただ外へ出て「人を見る」。それだけでどれだけ客観的になれるか。そんなことが私の中にインプットされたように思う。

 

こんな時、本当にジルは落ち着かせるのがうまかった。

 

さてしかし、そもそもこの「産後うつ」を導いた背景には、痛恨のミスが隠されていた。赤ん坊がいるから少しでも荷物を減らしたほうがいいと思い込み、愛用のMacをスーツケースの中には入れず、「送付する荷物」の方に入れてしまったことだった。

ヨーロッパに住んだことのある方ならわかると思うが、郵便事情はとてもよくない、というか、あまり親切ではない。中身に関して容赦なく関税が着くし、そもそも関税がつきそうなものが入っている場合には到着そのものも遅れてしまう。

 

そうした事情から私の手元にMacが届いたのが、ベルリンに来てから3週間後くらいになったのだ。やはり気晴らしになるコンピューターがないのは、痛かった。それさえあればネットで日本のニュースを見るなり、動画を見るなり気分転換にもなっただろうし・・。(そういえば、その間、メールチェックなどはどうしていたんだろう? 記憶がない・・。)

スマホもまだあまり普及していない頃なので、人々にとってはパソコンが頼りだった頃だ。アパートに備え付けのテレビでは、ドイツ語の番組は意味がわからない上に、国際放送であるB B Cニュースは観れたとしても、そもそも身近でない話題にあまり慰められなかった。

 

でもほんの一瞬であったとはいえ、「産後うつ」が引き起こされてしまうメカニズムは何となくわかったとも言える。なぜかその時までの不安に”火がつく”ように、大したことのないことにパニックになってしまうのだ。私は大丈夫、と思っていても、要注意。そして原因になるのも改善をもたらすのも、キーワードはやはり、「外部との関わり」なのだ。

 

f:id:Gillesfilm:20210222200757j:plain

とあるカフェにて。他にも親子連れがいっぱいで賑やかだった。

私の首からぶら下がっているのは、授乳中に自分と赤ん坊を隠せるケープ。

でもこのアイテムは全くヨーロッパでは流通していないらしく、珍しがられることも多かった。

 

ただ、ベルリンはどうやら子育て先進都市だった。上の写真のようなカフェもあった。

 

子供が遊べるスペースがたっぷり取られており、カフェメニューも普通に充実、子供は子供だけで遊ばせることもできれば、親たちは新聞を読んだり、お茶をしたりお喋りをしたり。男親も、女親も入り混じっていた。近所というほどではなかったので、行ったのは一度だけだけど、この情景がとても心地よかったのを覚えている。

 

今思うと、何でも「最初の瞬間」というのは身体にプリントされているものだな。

私にとって、親のヘルプを離れ、ひとりの親としてのピンでの”子育て”が始まったのがこのベルリンという地だったからだろうか。記憶が今もこうして鮮やかなのは不思議だ。

 

振り返るとジルにとっても、おそらくサウンドエンジニアとしては一番良い仕事がやって来て、家族もできて。次のフェーズを迎えるまでの前段階としては、ある意味で”人生の最盛期”を過ごしていた時期なのかもしれない。